うみのイルカって人はすごいと思う。






だいぶ暖かくなって、シャツ一枚での外出も苦ではなくなった今の時期。

春の気持ち良い風を全身に浴びて、少し上を向いて歩けば、若々しい新緑が壮大に広がる。

自然の営みを好むイルカは、その景色を見て、どんな言葉を紡ぐのだろう。

「きれいですね。それに気持ちいい」

さらさらと流れ込んできた思い通りの台詞に、カカシの頬も弛む。

本当に気持ち良い。

こうしてイルカと二人で歩みを合わせて、その場所に溶け込むように柔らかく存在していられるのが。

夢なのか現実なのかも曖昧で、地に足が着いていないような浮遊感に包まれている。

「うわっ!」

すっかりたるんでいたカカシの頭に、イルカの焦った声が響いた。

ちょうど強風が吹いた時だった。

「ど、どうしたんですか」

何事かと問うた自分の声まで焦りを含む。

ぴたりと足を止めて、イルカの様子を窺った。

するとイルカは、キスしたくなるような可愛らしい唇を尖らせて、両手で目を擦っていた。

そして、悔しそうに『うー』だとか、『あー』だとか言っている。

「め、目に砂が入りました。しかもたくさん」

「大丈夫?」

とりあえず大事には至らないようで、ほっと胸を撫で下ろした。

当たり前だ。

目に砂が入っただけなのだから。

人間、生まれてから死ぬまでに、何回、目に砂が入るかわからない。

言ってしまえばその程度の事なのだけど。

イルカの事となると、些細な事にもつい過剰に反応してしまう。

「俺、睫毛が短いから、よく色んな物が目に入るんです」

やっと手を離したイルカの目は真っ赤で、瞳がうるうるしていた。

それを眺めていたカカシの胸がどきりと鳴った。

その潤んだ瞳を自分で一杯にしてほしい、なんて。

「でも、新緑は本当にきれいです」

にこにこ微笑んで言う聖なるイルカを見つめて、騒めく精神と肉体を鎮めた。

いや、清めた。

「じゃあ今日みたいに風の強い日は、気持ちが良くても正面を向いて歩けませんね」

「そうですね」

そう言って、イルカはまた新緑を見上げて微笑んだ。

「っ…いたっ」

そしてまた砂が目に入る。







すごい人だと思った。







イルカの残業待ちで、すっかり夜になった帰り道。

肩が触れ合うぐらいの距離を並んで歩く。

今日の日中は快晴で、気持ち良いぐらい澄んだ青空が広がっていた。

夜になってもその透明感は変わらず、今もひたすらに澄んだ群青が広がっている。

「星がきれいですね」

「月もきれいですよ」

二人で上を向いて歩いた。

今、風は微風だし、イルカの目に砂が入り込むような事はないだろう。

以前にあった、春風の煽りで苦しがっているイルカを思い出した。

いい年をした男が、ましてや同世代の男に、こんな情けない心配をされているとは、本人は思いも寄らないはず。

「飲みにでも行きませんか」

翌日を気遣うイルカを気遣って、あえて金曜を狙って誘いをかけた。

計算といわれれば、もちろん否定は出来ない。

しかし、下心を上手くカムフラージュ出来るぐらいには世間もそういう考えの人が多く、飲食店街から少し離れているこの場所でも、わりと人の往来は激しかった。

まぁ、激しいといっても普段よりはというだけ。

普段、すれ違う人すら存在しない通りでの統計なので、比較の対象にはならないかもしれないが。

「やっぱり月もきれいですね」

誘いの回答にはならない事を返され、しかし、イルカは住宅街とは逆方向の明るい方へ足を進めてくれた。

こういう、声にならない声を聞ける関係が嬉しい。

「星だってきれいですよ」

「はい。きれいです」

月と星を褒め合ったって、お互いに何の得にもならないくせに、競い合うように美しさを称え合った。

そういうの、悪くない。

「うっ…いてっ」

夜空に見惚れていたら、突然、横にあったイルカの頭がいなくなった。

その原因は、どうやら今の呻き声に関係しているらしい。

「イルカ先生?」

立て膝で皿の辺りを擦っていたイルカがカカシを見上げた。

その上目遣いに、うっとなった。

「花壇の柵に足を取られてしまいました…。転んだ先に石が落ちていて…」

見下ろしているイルカの額は、カカシからの口付けを望んでいるかの如くスペースを空けて待っていた。

ふらふらと手が伸びる。

「あ、でも、視線が低くなると、空がまた違って見えますね」

その言葉を聞いて我に返った。

里の誇る上忍が我を忘れた瞬間。

「大丈夫ですか」

伸ばした手はイルカを引き起こすための言い訳に。

自分より体温の高いイルカの手が、無骨な自分の手に触れた。

「すみません」

差し伸べられた手に疑問を抱いたようで、繋がったのは形だけで、即座に離されてしまった。

可愛らしい女の子ならまだしも、道端で転んだ男に手を差し出すなんて。

そう言いたそうなイルカだったが、人からの親切心に気を遣ってこちらの手を取る事まではしてくれた。

「明日になったら青痣になってるかもしれないなぁ。でも…今は月も星もきれいだから別にいいか」

再び、並んで歩き出した。

「そんなもんですか?」

「え…?そんなもんじゃないですか?」

「そうですね」

一瞬触れたイルカの感触を人目から隠すように、そっとポケットに手を差し入れた。

ポケットの中でぎゅうっと握り込む。

贅沢はいけないと思うが、思うだけなら許してほしい。

もっと触れていたいと。

「あ、カカシ先生、今転んだ事、誰にも言わないで下さいよ?恥ずかしいから」

イルカは懲りずに空を見上げながら、こちらに目を遣る事もしないでそんな事を言う。

この自分と、二人だけの秘密の共有をしろと。

そこまで深い意味でなくとも、そう受け取って差し支えない状況ではないだろうか。

嬉しくて頬が緩む。

「くくくっ。秘密にしてほしいですか。じゃぁ…」

何か邪まな交換条件を出してやろうと考えたが、次のイルカの行動に、続く言葉を奪われた。

「ってぇ!…な、何でこんな所に電柱が…」

「はははっ!」

我慢できずに、思いきり吹き出した。

懲りずに夜空を見上げていた代償に、今度は電柱に顔をぶつけたようだ。

一番強く打ち付けたらしい額を、自らで癒すように両手で擦っている。

その額に目を遣れば、少し腫れていて、皮膚の表面は赤くなっていた。

治療を装って、そっと触れてみる。

「こぶが出来てますね。店に入ったら冷えたおしぼりを貰いましょう」

さっきはキスしたくなった愛しい場所。

今は可愛らしく盛り上がっている。

「カカシ先生…。これも秘密にして下さいね…?」

「はいはい。でもね、その代わり、今日はとことん付合ってもらいますから」

イルカは嫌がってはいない困った顔で笑った。

「はい。…でも、今日は本当に月も星もきれいなので、痛いのはチャラになりますね」

不幸中の幸いですと続けたイルカが、カカシの手を額に載せたまま、また空を見上げた。






何か、本当にすごい人だと思った。















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2003.04.29