すごい勢いで成長する若い部下達が羨ましい。 このところ伸び悩んでいるイルカとの仲を考えると尚更そう思った。 イルカと出会うのが、あと5年遅かったらきっと、カカシはイルカに逢えないままでこの世を去っていたと思う。 逆に5年早く出会っていたら、イルカの素晴らしさがわからないまま、この世を去っていたと思う。 最近のイルカときたら、好意をちらつかせようが明け透けにしようがお構いなく、ただ笑顔で聞き流すだけ。 積極的に迫ってみても、イルカは苦笑するだけで、こちらの気が削がれて、結局、無かった事になっている。 イルカとは飲みに行くし、時々は家に泊まったりもする。 でも、恋人じゃない。二人の間には見えない壁があって、いつも肝心なところで邪魔になるのだ。 イルカが自分の事を悪く思っていないのは知っているし、自分と同じ種の好意である事も感じる。 カカシはイルカの事になるとどうしても慎重になってしまい、昔のような『手当たり次第』に遊んでいた頃に戻りたくなる事だってあった。 「はぁ」 溜め息だけが何度も繰り返され、いつまでも答えが見つからない。 * * * * * 晩飯を一緒にとろうとイルカを誘い、どこの店がいいか話し合いながらアカデミーの廊下を歩いていた。 すると、窓から二人の生徒が見えた。 校庭の隅にある大きなイチョウ木の下で何かやっている。 「あ、ひばりだ」 隣りでイルカが声を上げた。 「へぇ、なかなか可愛い子じゃないですか。一丁前に男に告白なんてしちゃって」 イチョウの下で恥ずかしそうに、男児に何か言っている。 男児が何かを言い返し、次いで、ひばりの手を取った。 二人仲良く手を繋いで、校門の方へ歩いていった。 「お、決死の大告白は成功を修めたようですよ。担任の先生としては胸中複雑ですか?」 笑いながら質問すると、イルカも笑いながら答えた。 「うーん。親心子知らずな生徒ばかりなので。しかし最近の子は早熟ですねぇ」 微笑むイルカは、嬉しそうにも寂しそうにも見えた。 生徒一人一人を我が子のように可愛がり、愛情を注ぐ、いい先生なのだと思った。 この時は何の疑いもなく、ただ単純にそう思っていた。 「イルカ先生、騙されちゃいけません。あれはただのマセガキというんです」 「そうですかね?」 カカシはイルカと一緒にいる時の、こういう空気が好きだった。 何とも言えない、穏やかに過ぎる時間。 本気と冗談を混ぜて、それを口に出そうとした。 「オレもイルカ先生と…」 「…あんなに小さい子が…なのに…」 「え?」 「…いえっ!なんでもありません」 言おうとした言葉は途中で遮られ、呟くようなイルカの声が耳に入ってきた。 独り言を聞かれた事が恥ずかしかったのか、イルカは照れたように苦笑した。 聞き取りづらかったので聞き返したが、本人がなんでもないという事を無闇に詮索するのはよろしくない。 窓から目を離して正面に向き直り、再び歩き出した。 しばらく他愛もない会話をしていると、対向から女性職員らしき人がやって来るのが見えた。 放課後の廊下では珍しい事だったが、教室に何か用があるのだろうと、なんとなくそう思った。 気にせずにすれ違おうとしたら、突然声を掛けらた。 「カカシさん…」 返事はせずに、ただ立ち止まった。 そしてなぜか、その様を見たイルカが、驚いて肩をびくつかせた。 声を掛けられた事よりも、イルカのその行動の方が余程気になった。 女性は思い詰めたような顔をしている。 「ちょっとお話があるのですが、今よろしいですか?」 目でイルカに判断を仰ぐと、イルカも目だけで頷いた。 「なんでしょうか」 「すみません、二人で話がしたいのですが…」 再度イルカに目配せすると、先程と同様に了承してくれた。 「わかりました」 女性の後に着いて、イルカからは死角になる階段の脇へと移動した。 なんとなく、何が起こるのか予想がついた。 「なんでしょう」 下を向いて黙っている彼女に先を促した。 こっちはイルカを待たせているのだ。 「好きなんですっ!付き合って下さいっ!」 やっぱり、と思った。 「カカシさんっ」 「あー、悪いですけど今は間に合ってますんで」 それだけ告げて、彼女へ瞬時に背を向け、イルカの元へスタスタと戻った。 イルカは軽く笑みを浮かべて待っていて、すみませんと言うと、いえ、と短く答えた。 「見ず知らずの人から告白されましたよ」 「ははは。カカシ先生はモテるから」 「またー。そういうイルカ先生だってモテるじゃない」 「俺はそんな事ありませんよ」 こっそり覗いたイルカの横顔は、やっぱり微笑んでいた。 少しぐらい嫉妬してくれるのではないかと期待したが、そんな雰囲気は微塵も漂っておらず。 一歩進んで一歩下がるこの関係は、相変わらず健在だった。 * * * * * それから数日後のある日、すっかり行き慣れた道を歩いてイルカの家へ遊びに行った。 今、イルカは台所で食事の支度をしている。 エプロンをして台所に立つイルカの後姿を見ると、とても和む。 「そういえば、あのひばりって子は彼氏とうまくやってるんですか?」 居間でイルカに煎れてもらった茶を啜り、何気なく思い出した事を口にした。 まな板をリズミカルに叩く音が耳に心地良い。 「ええ。いつも二人で手を繋いでいますよ」 「羨ましいなぁ。ラブラブで」 「あはは。カカシ先生だって彼女を作ればいいじやないですか。そうすれは、すぐにラブラブですよ」 笑いながらそんな事を言うイルカが悔しくて、少し意地悪を仕掛けてやろうと思った。 「イルカ先生、ヒドイ」 ニヤリとほくそ笑んで言葉を続ける。 「オレがイルカ先生の事を愛してるって知っていて、そんな事言うんですね」 えーんえーん、と子供の泣き真似をしながら、瞬時にイルカの背中に抱きついた。 「あの時告られたオンナに靡いちゃいますよー」 料理の邪魔をされたら怒るだろうと思って。 「泣きマネしたって騙されませんよー」 カカシの真似をして言葉尻を伸ばしたイルカの言い方は、明らかに冗談だと思って笑っている声音だった。 悔しさは晴らせず、しかし負けじと、次は何を仕掛けようかと考えた。 そして、イルカの背に張り付いている今、カカシの頭に浮かんだのは。 キスをする。 まだ一度も交わしていないそれ。 頬っぺたぐらいなら、と思うのだが。 さすがにカカシも少し緊張して、首を伸ばしてイルカの顔を覗いた。 「…っ」 「もう、カカシ先生、料理の邪魔ですよ」 「…」 「カカシ先生?」 「…なんで泣くの」 イルカはいつもと同じ優しい顔で笑っているのに、目からは涙を流していた。 はっとしたイルカが急いで目を擦り、何でもなかったように言った。 「目に染みたんです」 「大根や白菜が目に染みますか」 強い口調で言うと、イルカは包丁を置き、居間へ歩いて行った。 イルカはカカシに背を向けたまま畳の上で正座をして、エプロンで涙を拭った。 「本当に何でもありませんから」 下心を見透かされて怖がらせてしまったのかとも思ったが、そうではなさそうだ。 「教えて下さい。何で泣くんですか」 尚も強く言うと、イルカは肩を落として、もう一度涙を拭った。 「オレのせい?」 「本当に何でも…」 「教えて下さい」 こちらに背を向けていてわからないが、イルカはまだ泣いているような気がした。 好きな人に泣かれるのはつらい。 「あなたに泣かれるとオレまで悲しくなります。好きな人に目の前で泣かれるオレの身にもなって下さい…」 イルカが大きく息を吸って、ゆっくりと吐いた。 「…よく、わからないんです」 「よくわからない…?」 「笑ってはいられるんですけど、喉が乾いて胸に穴が開いたような感じになるんです」 イルカは自分の胸を指差してトントン叩いた。 振り向いた顔はやはり濡れていて、それでも少し笑っていた。 「…そういう事、よくあるんですか?」 「…時々」 「どんな時?」 カカシは出来る限り優しく接した。 ゆっくり近付き、頬の涙を指で拭ってやる。 「…カカシ先生が…」 「うん、オレが?」 目線を同じ高さにし、イルカの手を握る。 イルカが目を逸らした。 言いにくいのか、口が閉じたり開いたりしている。 「…俺を好きだと言ったり…女性の話をしたり…そういう時…です…」 「…そう…だったんですか…」 イルカがカカシに向き直る。 頼りなく揺れる瞳が切なくて、握っている手に力を込めた。 イルカが泣いた理由がわかった。 「オレはイルカ先生が好きです。冗談でも建前でもなく、本当に本気であなたが好きなんです」 カカシの曖昧な態度が原因かと。 だから、はっきり宣言した。 自分のせいでイルカを泣かせるなんて、気付いていなかったとはいえ、大きな罪だ。 「カカシ先生…」 イルカの眉が下がった。 そして瞳の潤みが一気に増す。 「カカシ先生ぇ」 泣きじゃくる、とはこの事をいうのだろう。 イルカがカカシにしがみ付き、声を出して泣いている。 いつも笑っていたイルカ。 その内に隠れていた本当の意味を、もっと早くに気付いてあげたかった。 堰を切ったように泣くほどつらかったのに。 「…っぐ…」 「ごめんね…。オレ、無神経な事ばっかり言って」 イルカの背中を撫でる事で、少しでも許されればいいなんて狡い事を考えている。 「カカシっ…先生ぇ…」 「…泣かないで…イルカ先生…」 人差し指でイルカの顎を引っ掛け、軽く上向かせる。 情けなくもゴクンと喉が鳴った。 僅かに震える指先を隠す事も出来ず、慎重に顔を近付けた。 何をされるのかわからずに困惑したイルカが可愛い。 イルカの見開いた目から、また新たに一筋の涙が伝ったのを見届けた。 「ん…」 唇に触れるだけのキス。 すっと離れると、イルカはまだ目を見開いていた。 「ごめんね…。驚いたかもしれないけど…オレ…本当はね、ずっと、イルカ先生にこういう事、したかったんです」 我に返ったようにびくりとしたイルカが、カカシの腕に縋りながら胸に顔を埋めてきた。 そこでふるふると首を横に振った。 「これからは、泣きそうな時まで、無理に笑わなくていいから」 今度はこくこくと首を縦に振る。 一歩進んで一歩下がっていると思っていた関係も、見えないところでは着実に前進していた。 なんとなく感じていたイルカとの壁も、今は全く気にならない。 いつまでこの亀の歩みに耐えられるかはわからないけど、今日みたいな日があるのだと思えば心は救われる。 でも本当は、一度噛み合った歯車が一気に動き出すように、どんどん進んでいけたらいいと思う。 一度動き出した『時』は、誰にも止める事は出来ないのだから。 |