金曜の夜、いつものように食事と酒に誘った。 土日ぐらいはイルカを独占して、二人っきりでべたべたしたい。 「…すいません。嬉しいんですけど今日は残業が長引きそうなんで…」 期待に膨らんでいた胸が、パチンと軽い音をたてて弾けた。 申し訳なさそうに言うイルカの罪悪感を煽りたい訳ではないのに、カカシの肩と頭は解りやすくガクリと下がる。 「…待ってても良いですか…?あの、邪魔はしないですから…」 少しでも長くイルカと過ごそうと駄々を捏ねる。 普段なら、カカシを待たせる事は失礼に当たるからと言って許してくれない。 わかっているけど、言わずにはいられなかった。 「…出来るだけ早く終わらせますから、待ってて頂いてもいいですか?」 「え、待っててもいいの?」 「すいません…。実は明日も出勤なんです。今夜ぐらいは一緒に居たいから…」 イルカの言葉に胸が熱くなって、顔が思い切りにやけた。 中々表現してくれない好意を口に出してくれた事が、すごく嬉しい。 「向こうで大人しくしてますね」 簡易応接ソファーを指差す。 申し訳なさそうに苦笑したイルカが、書類の方へ顔を俯かせた。 途端に真剣な顔で机とにらめっこを始める。 何かに集中している時のイルカの顔が好きだ。 凛としていて、それだけで彼の誠実さが伝わって来る。 余り視線を送っていると仕事の妨げになりかねないので、イルカを見ていた目を無理矢理自分の正面へ移動させた。 ポケットから愛読書を取り出す。 しばらくそうして時間を潰していたら、イルカが大きな伸びをする気配を感じた。 振り向くと、長い深呼吸をしてから、机の上の片付けを始めていた。 今日の分は終ったようだ。 「もういいんですか?」 「あ、はい。お待たせしてすみませんでした」 「いいえ。イルカ先生とのデートのためなら安いもんです」 照れて頬を染めたイルカに柔らかい笑顔を返されて、どうしようかと思った。 アカデミーで不埒な行為に及んでしまいそうな欲望を、唇を噛んで押し殺す。 もう、本当にイルカが大好きで大好きで仕方ないのだ。 生徒や、生徒の保護者に囲まれている所を見るだけで独占欲がちりちりと疼く。 彼らの目の前でイルカを抱き締めて、口付けて、攫って行ったらどうなるだろう、と考えた事も一度や二度ではない。 そのたびに思う事がある。 カカシの全ては最初からイルカだけのものなのに、イルカの全てはまだカカシだけのものにならない。 そしてそれは、ふとした拍子に蘇えっては、頭のどこかに引っ掛かっていく。 今の所は理性や自制心で抑えられる程度のわだかまりだけど。 「行きましょうか」 身支度を終えたイルカがカカシの方へ寄って来たので、さっと捕まえた。 大人しく待てたご褒美に、ぎゅっと抱き締めて、ぱっと離れる。 少しほつれた髪の毛と、一日を過ごしたイルカの匂いに、我慢が利かなくなりそうだ。 「好きです」 勝手に口から零れていた。 「何ですか急に」 白ける事も咎める事もないイルカの口調に、カカシの笑みがより一層深くなる。 笑顔で受け止めてくれるのは、カカシの気持ちがしっかり伝わっている証拠。 しかし、その良い雰囲気を保ったままで、イルカが小さな呻き声を発した。 何かに悩んでいるように、うーん、うーん、と繰り返している。 どうしたのかと思って、俯き加減のイルカの顔を斜め下から覗き上げた。 「…俺も…好きです…」 イルカは耳まで赤くして、瞳を潤ませて、恥らうように視線を外したが、確かにそう言った。 一度ならず二度までも、今日はイルカの口から良いお言葉を頂戴してしまった。 これはもう奇跡と呼んで過言ではない域に達している。 カカシに応えようと悩んでくれていたのかと思ったら、もうじっとしていられなかった。 軽い音を立てて、イルカの頬に口付けを落とす。 「明日も仕事なんでしょう。あんまりオレを煽らないで下さいよ」 耳元で囁けば、弱々しく胸を押し返して僅かな抵抗を見せる。 拒みきれない態度がイルカの色香を増幅し、更にカカシを苦しめる。 ごくり、と唾液を飲み込んでから、そっとイルカから離れた。 カカシが抑えなくては、後々イルカに負担を掛けてしまう事になる。 愛を確かめ合う行為がお互いに嫌いでないせいで、カカシが仕掛けたらイルカも流されてしまうから。 「ごはん、食べに行きましょ」 完全に離れてしまうのは寂しくて、イルカの横に並んで腰に腕を廻した。 素直に寄り添ってくるイルカに満足して、無人の教員室を後にした。 * * * * * 食事を終えてから、家路に着くイルカとの別れを先延ばしするために散歩を提案した。 不審がられない程度の遠回りにはもってこいの土手。 川から吹いてくる風は冷たいけど、イルカに擦り寄る口実になるから良しとする。 「ああやって声掛けられたの初めてです」 イルカが言っているのは、食事をした店で起きた出来事だ。 酒も飲める定食屋で、たまたま隣のテーブルに座っていた女性の二人組。 女の子だけで来るには珍しい店だったけど、カカシは別に気にも留めなかった。 イルカが傍にいる時は、それだけで手一杯だし胸も一杯で、よそ事に構っている余裕はないのだ。 それなのに彼女達は偶然を利用して、隣席になったカカシ達に声を掛けてきた。 『そちらもお二人ですか?よかったらご一緒しませんか?』 声を掛けられただけだったけど、折角のイルカとの時間を邪魔された気がした。 遠回しに迷惑だという事を告げ、厭味ともつかない言葉で誘いをばっさり断わった。 嫌な思いをした愚痴を漏らそうとイルカを見ると、なぜか複雑な顔をしていた。 勢いが削がれて、出し掛けた言葉は結局飲み込んだ。 「最近の女の子はすごいですね。俺なんてナンパした事もないのに」 「そんな事しなくていいでしょ。オレがいるんですから」 「…そう…ですね…」 妙な間を空けて返答したイルカに違和感を感じて、真意を探るためにじっと目を見つめた。 余り見つめていると変な気が起きそうだと思ったが、大した時間もかからずにイルカの方から音を上げてくれた。 その場にしゃがみ込んで、カカシの死角に入ろうとする。 「何か隠してますね」 「…カカシ先生は女の人にもてるから。だからちょっと寂しいなぁと思って」 「…オレの愛はまだ届いてないんですか…」 ちょっと落ち込んだけど、届いていると信じているから、何とかわざとらしく言えた。 イルカが目をぱちぱちさせて、焦ったように立ち上がる。 「いえっ、あ、その、それはちゃんと…届いて…ます…」 「本当に?」 「ただ…。俺の全部はカカシ先生にあげられるけど…。カカシ先生の全部は貰えないんだろうなって…」 幾分小さくなった声で続ける。 「一部はいつでも誰かのために空けておかないといけないんだろうなって。そう思ったら少し寂しくて」 この人は一体何を言っているのだろう。 イルカを独り占めしたいのに出来ないのはカカシの方ではないか。 「違うよ。全部をオレにくれないのはイルカ先生の方でしょう。だって生徒とか保護者とか同僚とか…」 「違います。カカシ先生は不特定多数の目を奪ってるんです。だからいつまでたっても誰かに取られそうな気がして…」 「オレはオレの全部をイルカ先生にあげられるよ」 「俺だってカカシ先生なら全部をあげられます」 言われている事の嬉しさに、突然言葉が詰まった。 カカシが押し黙った事でイルカも我に返ったのか、急に顔を赤くした。 赤いのは、言い合いをして気分が高揚しているからなのか、言い合っている内容を恥ずかしがっているからなのか。 そのおかげで、カカシの下心の箍が外れてしまった。 「…じゃあ証明して下さい。これから」 「…!カカシ先生こそっ」 瞬時にイルカに手を取られ、ぐいぐいと引っ張られる。 遠回りな土手沿いの道ではなく、イルカの家までの近道の方へ。 明日は仕事のくせに、と思ったが、イルカにも覚悟がお有りのようなので素直に従わせて頂く事にした。 |