受付に目当ての子がいると、仕事に張り合いが出る。

その子が笑っていたりすると、こちらまで笑顔が伝染する。

頭の中では、別に好きじゃないけど顔が見たいだけだ、と意地を張っている自分がいるけど。

意地を張っているとわかってしまっている以上、すっかり好きになっている証拠だった。

名前と顔は、イルカが目を掛けていた生徒の指導を任された時に覚えてもらった。

二人きりで飲みに行った事はまだ数えるほどしかないが、お互いの家の場所は既に教え合っている仲だ。

とは言っても、家はどの辺りなのかと質問したカカシに答えてくれたというだけの事なのだけど。

当然、話の流れでカカシの住んでいる場所にも触れ、自然に自宅の場所を教え返した。

イルカに対して消極的だという自覚はある。

親密になりたいなら、もっと積極的に行動すればいいという事もわかっている。

でもそう出来ないのは、うとましく思われたり嫌われたりするのが怖いから。

だから、イルカを誘う時は不審に思われないように、毎回曜日や時間を変えて、頻度も控えめを心掛けている。

イルカを誘おうと決めた日は、朝から仕事への意気込みが違う。

仕事の後の一杯を楽しみにしている人は多いだろうが、カカシには、仕事の後のイルカの方が魅力的だ。

提出所のいつもの席にイルカが座っているけど、今日はまだ、誘うには日が浅い。

報告書の確認をし終えたイルカが顔を上げ、前に立つ忍に笑顔を向けた。

遠目でそれを見て、純粋にもったいないと思う。

人当たりの良い笑顔を、誰にでも平等に、易々と振りまく事が。

また、それを抑制してほしいと言えないカカシの立場も悲しい。

次の忍にも、その次の忍にも、イルカは平気で同じ事を繰り返す。

そしてカカシにも。

「イルカ先生、お疲れ様です」

その他大勢と同じ扱いをされるのは嫌だけど、イルカの笑顔をもらえるなら、カカシはそれを甘んじて受けてしまう。

不服ながらも期待していると、イルカがカカシを見上げようとする気配がした。

しかし、身じろいだイルカは顔を上げるまではせず、カカシの手元辺りで目線が止まった。

「お疲れ様です。報告書、お預かりしますね」

報告書しか見ていないイルカが、差し出していた用紙を奪うように受け取った。

言葉は優しいが、抑揚のない口調には冷たさを感じる。

イルカがいつも醸している、忍を労わるような雰囲気がないのはなぜだろう。

カカシの前にいた数人の忍には、いつも通りの対応をしていたのに。

急にどうしてしまったというのだ。

「不備はありません。次の任務もよろしくお願いします。お疲れ様でした」

「…え?…あ、はい。お疲れ様…でした…」

「次の方どうぞ」

イルカが、カカシの後ろにいる忍から報告書を受け取ろうと手を伸ばしたので、遮って邪魔をするだけの身体を横にずらす。

とにかく早くこの場から立ち去ってくれと言わんばかりの処理の仕方だった。

イルカの笑顔や、報告書の確認中に交わす他愛ない会話を、いつも楽しみにしていたのに。

今日は近くで顔を見る事すらさせてもらえなかった。

窓口からふらふらと離れてイルカの様子を伺うと、カカシの次の忍にはいつも通りの対応をしている。

カカシの前後にいた忍にはいつも通りに接していて、どうしてカカシだけが省かれてしまったのだろう。

「嫌われちゃったのかな…」

なんとなく口に出した言葉が全ての辻褄を合わせてしまい、そんな事を考えた自分に落ち込んだ。



* * * * *



翌日の任務は1日で終わる短時間の任務だった。

前日の提出所での事は頭の隅に追いやり、報告書を携えて懲りずにイルカの窓口に並んだ。

時間帯が悪かったのか行列になっていて、最後尾からではイルカを確認する事が出来ない。

それでも着実に処理が進み、提出まであと7、8人という所になって、ようやく会いたかった人の姿を捉えた。

だが、その途端イルカが立ち上がり、申し訳なさそうに他の人と入れ替わって、提出所から出て行った。

これも偶然だろうか。

カカシがイルカを覗き見る事が出来た直後に席を離れるなんて。

認めたくはないけど、これはもうイルカに避けられている事を受け入れなければならないのかもしれない。

脳みそがなくなったかのように頭がぼーっとする。

あとはもう惰性で流されるままになっていると、いつの間にかカカシが提出する番になっていた。

知らない忍が報告書に目を通すのを、ただ黙って眺める。

その忍が顔を上げ、結構です、と言おうとした呼吸の隙を突き、無意識に呟いていた。

「イルカ先生、どうしたんですか」

「えっ…?あ…ああ、イルカ先生は早退しました。具合が悪いようで」

イルカと交代した忍は、唐突すぎるカカシの言葉にかなり戸惑っていた。

カカシ自身も、社交性のない自分が知らない忍に声を掛けていた事に驚いた。

その反動で我に返り、聞き流してしまった返事を今になってようやく反芻した。

急に霧が晴れたように、ぱあっと視界が開ける。

「報告書、不備なんてないでしょ」

「…あ…は、い」

相手の返事なんてろくに聞こうともせずに、イルカが出て行った方へ踵を返した。

イルカに嫌われている訳でも、避けられている訳でもないのなら。

昨日の冷たい態度が、イルカの具合が悪かったせいなのだとしたら。

一人で悩んでいたカカシの馬鹿さ加減を笑ってやりたいが、それよりも、早退したイルカの体調が心配だ。

提出所を出て、きょろきょろとイルカの背中を探すが、近くには見当たらない。

きっと医者や薬局へ向かっているのだろうけど、場所が特定出来ない時は変に動き回らない方が良い。

確実に会うためには、イルカの自宅を目指す方が堅実だ。

実際に招かれた事はないし、行った事もないけど、場所だけはしっかり把握している。

頭の中で座標を絞り、一点を目指して駆け出した。






小さな古いアパートで、一番日当たりの良さそうな部屋のドアに、目の高さで『うみの』という紙が貼られていた。

明かりは点いておらず、ドアをノックしても返事はない。

まだ帰って来ていないようだけど、誰かの家で休憩しているなんて事はないだろうか。

身体が弱っている時というのは、最も付け入られる時期だ。

ちょっとした優しい言葉に流されて、不審者に連れて行かれたりしていなければいいのだけど。

「あれ、カカシ先生?」

「…あ。イルカ、先生…」

イルカは、行き慣れた道に新しく開店した店を見つけたくらいの驚き方をしていた。

カカシがここにいる事を、特にいぶかしくは思っていないようだ。

にこにこしてこちらへ向かって来る。

薬局の名前の入った茶色い紙袋を抱えている以外は、至って健康そうだ。

「イルカ先生が早退したって聞いて、オレ…」

「家の場所、覚えていてくれたんですね。嬉しいなあ…」

のん気で穏やかなイルカの口調からしても、どこか体調を崩しているような様子はない。

けがはなさそうだし、呼吸も正常だ。

「大丈夫なんですか?」

「はい。病院で薬を処方してもらって、もう服用しましたから。あの、よかったら、うちに上がっていきませんか?」

「えっ?!いいんですかっ」

「ええ、ぜひ。わざわざいらして下さったんですから」

薬袋を持っているのだから、イルカが何かしらの病気にかかっているのは確かだ。

でもそうやってイルカの身体を気に掛けるカカシの裏側に、目を背けられない現実がある。

独り暮らしのイルカの部屋に誘われたのだ。

男として自意識過剰になるのは、もう本能としかいえない。

「カカシ先生、昨日はすみませんでした。失礼な態度を取ってしまって」

「え…」

ショックだった。

イルカ本人の口から、わざと冷たく接していたという事を聞いてしまった。

胸の奥の方が、じわじわと震え始める。

でも、謝ってくれたという事は、何か事情があったのだろう。

不安と期待を混ぜて、続く言葉に集中する。

「いつも飲んでいる薬が3日前に切れてしまって、昨日は酷い事になっていまして…」

いつも薬を飲んでいたという事は、かなり前から体調が悪かったという事だ。

語尾を濁すように、次第にイルカの声が小さくなった。

人に言いづらい病気や、身体の障害を持っているのだろうか。

緊張を隠して、静かにイルカの言葉を待つ。

「あの、涙と鼻水で顔がぐちゃぐちゃだったんです…。カカシ先生だけには見られたくなくて…」

「熱は…?関節とか痛くないですか…?」

ずっとイルカを見ていたのに、本調子でなかった事すら見抜けなかった。

洞察力には自信があったのに、肝心な時に役に立たない。

「あっ、違います、風邪とかじゃないです。その、か、花粉症で…」

「…花粉…症…」

「今日、夕方の勤務を代わってくれる人が見つかったので、診察時間中に病院に行けました。医師の処方箋がないと薬がもらえなくて」

イルカが恥じらうようにカカシから目を逸らした。

きっとイルカは、忍がアレルギー性疾患にかかった事を情けないとでも思っているのだろう。

「そう、だったんですか…。言ってくれれば良かったのに。…急に嫌われたのかと思いましたよ」

「嫌うなんて、そんな事っ…!だって…恥ずかしくて…」

安心して肩の力を抜けば、余分な空気も口から抜けて、溜め息に変わる。

落ち着いた頭で今までのやり取りを思い返していると、非常に重要な事を尋ね忘れていた事に気が付いた。

「どうしてオレだけには見られたくなかったんですか」

「えっ!…いえ、べ、別に…」

「教えて下さい。納得出来ません」

イルカが俯いて顔を隠した。

なぜか耳が真っ赤になっている。

「…あのっ、カカシ先生は…例えばですけどっ、すっ、好きな人に、自分の変な顔を見られても、その…、平気ですか…?」

驚いた。

驚きすぎて、いや、嬉しすぎて何も言えない。

黙ってイルカを見つめていると、潤んだ瞳を不安気に揺らし、伺うような上目遣いでカカシを見上げて来た。

イルカがカカシの返事を待っている。

「オレは…。イルカ先生になら、どんな顔だって見せられますよ。…好き、だから」

真っ赤に染まったイルカが、目を見開いて驚いた顔をした。

改めてイルカの耳元で好きだと囁くと、やっと聞き取れる小さな声で、俺も好きです、と聞こえた。










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2005.04.30