贅沢をしなければ充分にやっていける月給で、地味ではあったけれどイルカは今まで平凡な生活を送って来た。 僅かながら、月々貯金もしている。 結婚をしてもおかしくない年齢なので、配偶者一人を養う程度は何とかなるだろう。 だから、イルカの家でカカシと食事をする時の費用は、ほとんどイルカが負担していた。 安上がりな食材を使って自炊をするという条件付きではあるけれど。 もちろんそこには、値段を見ただけで逃げ出したくなるような高級食材は含まれていない。 1本1万円以上する松茸なんて、範囲外もいい所だ。 むしろイルカには一生縁のない食べ物だと腹をくくって、旬になっても出来るだけ目を向けないようにしてきた。 それなのに、一緒に買い物に来ていたカカシがイルカの隣りで信じられない事を口にした。 「これ旨そうですね。食べたいな…」 驚きと衝撃で呆然とカカシを凝視する。 今までにもカカシは、八百屋さんではナスを、魚屋さんではサンマを見て、同じような事を呟いた。 でも、松茸はナスやサンマとは別格の食材じゃないか。 それをカカシは同等の扱いで、平然と口にしたのだ。 どちらかというとカカシは庶民的な食べ物が好きで、イルカとも価値観が近くて親しみやすい人だった。 それがとんでもない独り善がりだったなんて。 突然露見したカカシの一面に、イルカは言葉を失って立ち尽くした。 考えてみれば、カカシはエリート上忍で幼い頃から高額な報酬を得ていて、イルカとはまるで違った生活を送ってきた人だ。 金銭感覚や生活水準に大差が出て当たり前じゃないか。 カカシが自然体で接して来るから、イルカは身の程をわきまえずにすっかり気を許してしまった。 本来はもう少し距離を置いて関わらなければならない人だったのに。 カカシに出会って以来、イルカがこつこつと積み上げてきた親近感が一気に色褪せる。 「どうします…?」 色々と野菜を眺めていたカカシが、結局は松茸の領域に視線を戻して一つ一つ吟味し始めた。 イルカだって、好きな人が食べたいと言う物なら極力食べさせてあげたい。 だけど、松茸はそんなに気軽に購入出来る食材ではないのだ。 イルカは食べた事もないし、調理をした事もない。 すごく悩んで、すごく迷った。 そして、泣きそうになりながらも、やっとの思いで苦渋の決断を下した。 「…ごめんなさい…」 日頃の行いのせいで、最終的にイルカには松茸を手にする事が出来なかった。 1本ぐらいなら買える持ち合わせはあったのだけど、どうしても駄目だった。 「え…?あれっ、帰るんですか?」 矮小な自分が情けなくて、無言のままカカシに背を向けて歩き出す。 すると、カカシには珍しく慌てた様子でイルカの後を付いて来た。 横に並んだ途端、顔を覗き込まれる。 夕陽で顔色を誤魔化し、心配そうなカカシに笑い掛けた。 カカシとの付き合い方を、もう一度よく考え直した方が良いのかもしれない。 隣りで語り掛けてくるカカシの声が遠くから聞こえ、視界が全体的にくすんで見えた。 カカシが何を喋っていたのか覚えていないし、イルカがどう返事していたのかも覚えていない。 気付いたら部屋に入っていて、カカシが灯かりを点けてくれた。 「ねえイルカ先生。どうしたんですか急に」 のろのろと台所で支度を始めたイルカの傍に来て、顔色も声色も隠せない距離で問い掛けてくる。 後ろめたさでカカシの顔がまともに見られない。 「カカシ先生、俺たち…」 そこまで言って、イルカは口を閉ざした。 沈んだ気持ちがぶり返して来るのと反比例して、話す気力が失われていく。 恋人と公言出来るような間柄でもないのに、危うくお互いの関係を見直そうなんて話題を持ち出してしまう所だった。 言おうとした内容は全部飲み込んで、無難な話に焦点を移す。 「嗜好が似ていると思ってたんですけど、そうでもないんだなって解りました」 「…どうして?」 カカシが真剣な顔をしてイルカの話を聞いている。 何の価値もない話を、そこまでまじめに聞いてくれなくてもいいのに。 「お恥ずかしながら、俺は松茸を食べた事がなくて」 「なんだ、そうだったんですか…。すいません。オレ、無神経に」 「そんな事ないですよ。謝らないで下さい」 「あの、じゃあ。今から食べに行くというのはどうですか」 おそらくカカシは、イルカが落ち込んでいる本当の理由には気付いていない。 いい年をして松茸を食べた事がない事に体裁の悪さを感じている、と思っているのだろう。 本当の理由はそうじゃないけれど、それよりイルカは、カカシの言葉の端々に滲む気遣いが嬉しかった。 「いつもイルカ先生にはご馳走になってますし、今日は奢りますから。いえ、今日ぐらい奢らせて下さい」 カカシの気前の良さに苦笑すると、胸の奥がちくりと痛んだ。 諦め半分で頷き、夕飯用に広げていた食材を再び冷蔵庫の中へ収め直す。 これからする外食が、現状のカカシとの関係でする最後の食事になるかもしれない。 気が遠くなるような寂しさを抑え込み、イルカは黙ってカカシに付いて行った。 * * * * * 松茸を出す料理屋であれば、それなりに立派な佇まいの店なのだろうと予想は出来た。 合わせて、予約なしで入れるという条件を満たすとなると、かなり限られた店になる。 そんな中でカカシに案内されたのは、広い庭園のある木の葉の里でも有名な料亭だった。 カカシは入口の傍にいた従業員と短い会話をして、そのまま敷地の奥へと進んで行く。 そして、カカシに座るように促された時には既に、個室の座敷が一部屋、カカシとイルカのために確保されていた。 「若い頃にお世話になっていたんで顔が利くんですよ。けっこう無理を聞いてくれるので重宝してました」 カカシがイルカの正面に腰を下ろす。 「失礼致します」 声のした方へ顔を向けると、すうっとふすまが開き、着物姿の若い女性二人が茶器を持って部屋に入って来た。 カカシの隣りに一人とイルカの隣りに一人、それぞれ女性が膝を折って座る。 お茶の香りよりも女性の放つ独特の匂いの方が強くて、顔をしかめないように苦労した。 カカシはどうしているのかと思って見てみると、隣に座った女性の耳元に何かを囁いていた。 女性はくすぐったそうな顔をして、カカシの身体にしな垂れかかって腕を絡めている。 イルカの中で何かが音を立てて崩れていくような気がした。 震えを隠すために下唇を噛んで俯く。 何を思ったのか、今度はイルカの隣りにいた女性がイルカの腕に擦り寄って来た。 有名な料亭だというのに、この店は風俗店のような営業をしているのか。 怒りよりも悲しみの方が強い。 「…っ、ちょっと!」 焦ったようなカカシの声と同時にイルカの片腕がふっと軽くなった。 ばたん、という大きな音と共にふすまが開かれ、女性の匂いが遠ざかる。 顔を上げると、カカシが女性達の腕を掴んで廊下に引っ張り出している所だった。 カカシがふすまで見えなくなり、廊下から荒々しい足音だけが響いて来る。 閑静な店内には不似合いな騒音に、聞きたくなくても、つい聞き耳を立ててしまう。 カカシが進んで行った方向から複数の話し声がして、それが止むと、すぐにカカシが戻って来た。 「まったく…。何なんですかね、急に」 下を向いてぎゅっと目を瞑る。 カカシの言葉が白々しく聞こえて、イルカには何も答える事が出来なかった。 過去にカカシがこの店で女性を侍らすような行為をしていたから、呼んでもいないのに女性達がやって来たのだ。 そうでなければ、店の方だってわざわざ個室に女性を差し向けたりしない。 「い、イルカ先生…?」 「やっぱり…帰ります」 テーブルに手を付いて、カカシの顔を見ないように立ち上がる。 もうこれ以上は耐えられそうにない。 「…!待って下さいっ!」 強い力でカカシに手首を引かれ、反動で不自然に身体がねじれた。 咄嗟の事で体勢を保てずに尻餅を着き、中腰だったカカシの胸に背中から倒れ込む。 打った足を擦りながら正面を向くと、値段の高そうな着物を着た美人がイルカ達を見下ろしていた。 「あら、お取り込み中にすみませんね。先程は失礼しました。若い子達が部屋を間違えたようで」 「女将!」 随分と迫力のある女性だと思ったら、この店の女将さんだった。 後ろでカカシの溜め息が聞こえる。 「勘弁して下さいよ…」 子どもが大きなぬいぐるみを抱えているような体勢のカカシが、イルカの肩に額を乗せてきた。 「でも良かったわ。カカシさんの好い人が見られて」 「さっきの子達に言っといて下さい。オレの大切な人に変な粉掛けるのはやめてくれって」 「はいはい」 女将さんが含み笑いのまま軽い会釈をして部屋を出て行った。 最初は謝罪に来た様子だったのに、去り際には別の目的があったように見えたのは気のせいだろうか。 「…松茸づくしでお願いします…」 「ひやっ…」 突然耳元にカカシの良い声で囁かれ、イルカの身体がびくりと竦んだ。 心臓が破裂しそうなほど速く脈打っている。 「さっき隣りに座った女の人に耳打ちしたんです。イルカ先生には聞こえないように」 「そ、そうだったんですか…」 カカシの顔をまともに見られない。 おそらく今、イルカの顔は真っ赤に染まっている。 イルカの中で、一瞬のうちにカカシを見る目が変ってしまった。 もしかしたら今日の夕飯は、イルカが予想していたものとは正反対の意味でする、カカシとの初めての食事になるのかもしれない。 恥ずかしくてカカシの手を解こうとすると、その手にカカシの手が重なり、逆にイルカの手を握り込まれて密着度が増してしまった。 「もう少しこのままで」 再び身体の中心を突き抜けるほどの良い声で囁かれ、安定しかけた心拍数が急上昇する。 思い付いたばかりの幸せな推測は、イルカの予想を上回る速さで現実味を帯びてきたようだった。 |