突然の要請だった。 受付にイルカ一人しか居なかったら、自分の不運に唇を尖らせている所だった。 「おい、イルカ。そんな顔するなよ」 「あ、…ああ…」 控えたつもりだったけど、隣の同僚に表情の変化を見抜かれる。 正直言って、がっかりだった。 せっかく、明日から始まる5月の連休は、2泊3日で新緑温泉巡り旅行の予約を入れていたのに。 わざわざこんな時にアカデミー教師を任務に駆り出す事はないじゃないか。 見たくないせいで依頼書の文字に目の焦点が合わなくて、任務の詳細が見えて来ない。 すると、震える手で掴んでいた用紙を隣の同僚にさらりと奪い取られる。 「へえー。指名の任務じゃん。珍しいな」 イルカの耳に、同僚が容赦なく現実を突き付けて来る。 「…おい、はたけカカシとのツーマンセルじゃねぇか。…薬草捜索…?」 カカシという言葉に、イルカの視界がぱっと明るくなった。 カカシならイルカの顔見知りの上忍だし、一緒に飲みに行った事もある。 事情を話して切々と訴えたら、イルカの要望を聞き届けてくれるかもしれない。 「ちょっと行って来る」 一言断りを入れ、イルカは受付を出た。 向かったのは上忍待機所だ。 任務のない時、カカシは大抵この場所にいる。 ドアのない入口からそっと室内を覗くと、窓側のソファーにカカシが座っているのが見えた。 「失礼します」 目標人物を定めて真っ直ぐに歩いて行くと、気付いたカカシがにっこりと笑い掛けて来た。 軽い会釈を返して、カカシの正面へ回り込む。 単刀直入に任務の件を口にしようとしたら、計ったような絶妙のタイミングでカカシに遮られてしまった。 「イルカ先生。今度の任務、よろしくお願いしますね。あなたがいないと駄目なので」 カカシの弾んだ口調と抗えない内容に、イルカの威勢はあっという間に削がれていた。 * * * * * 上忍が中忍や下忍とツーマンセルで任務に就く事は少ない。 上忍ともう一人でツーマンセルを組ませる任務の場合は、大体が上忍一人でも遂行出来る任務ばかりだからだ。 つまり選ばれたもう一人は、上忍の技術や経験を実戦から学びなさい、という研修の意味が含まれている。 連休は任務が減るから人材の余裕があるという理由もあるが、その他に、上忍の方も見込みのある忍にしか直接指導のようなものは行わない。 なぜそれにアカデミー教師のイルカが選ばれたのか。 イルカなんかよりももっと、将来有望な若い忍はたくさんいるのに。 そしてその中に、連休中に予定の入っていない忍だってたくさんいたはずなのに。 「浮かない顔してますけど、もしかしてイルカ先生、何か予定でも入ってましたか」 枝から枝へと移動している最中、全く呼吸が乱れていないカカシが白々しく尋ねて来た。 カカシだってイルカの連休中の予定に関しては、薄っすらとは知っていたはずだ。 だって、久しぶりの温泉旅行が嬉しくて、イルカは何度も受付でその話をしていた。 「…たまには、出掛けようと思いまして」 「あ、それって温泉がどうのというやつですか」 イルカは口を噤んだ。 やっぱりカカシは知っていた。 イルカの中でカカシに対する不信感が募る。 カカシの質問には答えず、イルカはむすっとした顔をしたまま、少しだけ移動速度を速めた。 本来なら物凄い速さで駆けて、カカシとの距離を離したいぐらいだけど、イルカの能力では到底叶いそうにない。 所詮、先に進むカカシに置いて行かれて距離が広がるのが関の山だ。 「いやあ、悪い事をしましたね。ま、でも、日の国にも温泉はあるじゃないですか」 温泉という単語に、イルカの耳は過剰に反応を示した。 イルカの真隣を併走していたカカシに目をやると、カカシの顔が予想以上に近くて、びくりと肩が竦む。 「一緒に入りましょうよ」 カカシが悪意の欠片もない顔でにっこりと微笑んだ。 悪名も威名も轟かせる優秀な上忍の意外な一面に、イルカは一瞬我を忘れてしまった。 不自然に目を逸らして、正面に向き直る。 「そんな余裕が…あれば良いんですけど…」 うるさく鳴り出した心音は聞かない事にして、イルカは先程とは違った意味で足を速めていった。 * * * * * 日の国は太陽を崇める、日照時間の少ない国だ。 人種的に色素が薄く、肌の色や髪の色が白っぽい。 カカシは元々色白の銀髪だから馴染むけれど、浅黒で黒髪のイルカは街の中ではかなり浮いていた。 すれ違う人すれ違う人が、失礼にもイルカを見て珍獣を見たような目付きをする。 アカデミー内で生徒同士がそんな目付きをしていたら拳骨ものだけど、任務だし、今日明日の辛抱なので、一々気にはしない。 明日の早朝に入山し、薬草を見つけたら帰れるのだ。 今日だってもう、適当な宿を取って入室してしまえば外に出る事はなくなるし、変な目で見られるのも残り僅か。 「今日の宿、ここにしませんか」 大通りに面した立派な旅館を指して、カカシが言った。 カカシが選んだのならイルカに拒否する権利はないのだろうが、任務で宿泊するには派手で大規模すぎる旅館に、イルカは少なからず狼狽えていた。 「もう少し控えめな所にしませんか…?」 「ま、良いじゃないですか。こういう所は料理も旨いでしょうし」 カカシの言葉に、イルカの心はぐら付いた。 でもここであっさり頷いてしまったら、カカシに意地汚い奴だと思われてしまう。 何と答えたら良いか迷っていると、カカシはイルカの返答も聞かずに勝手に旅館に入って行ってしまった。 仕方ない風を装って、イルカもカカシの後に続く。 受付でカカシが手際良く宿泊手続きをしているのを、イルカは太い柱に寄り掛かって見守っていた。 余りにも順調な様子に、そこでようやくイルカはある事に気が付いた。 これが、カカシがイルカに教えようとする技術の一つなのではないかと。 観光に見せ掛けて堂々と任地へ潜入するという、大胆な方法。 イルカは今まで、こんな方法で任地に潜入するという選択肢を持っていなかった。 カカシが後ろで待っていたイルカを振り返り、着いて来るように促す。 すると、旅館に入った時とは違い、何の疑いもなく素直にカカシに従う事が出来た。 * * * * * 一歩部屋に入って、イルカは尻込みをした。 部屋の正面が180度ガラス張りになっており、日の国独特の美しい街並みが一望出来る。 まさかこんなに素晴らしい部屋を用意されているとは思っていなくて、イルカはしばらく頭が真っ白になっていた。 いくら任務での役得だからといっても程がある。 でも、その罪悪感を上回る心地良さに、イルカは惰性によって流されてしまった。 用があると言って、荷物を置いてすぐに出て行ってしまったカカシの気が知れない。 これから夕陽で染まっていく陰影を想像したら、一秒だってこの部屋から出るのが惜しいというのに。 そうやってぼーっと外を眺めていると、突然、現実に引き戻すように部屋の呼び鈴が鳴った。 慌ててドアに駆け寄り、覗き穴から廊下を覗うと、男性の仲居が何かを持っているのが見えて警戒心を解く。 「ルームサービスでございます」 ドアを開けると、銀色の盆に乗った大量の果物の盛り合わせに目が釘付けになる。 果物と仲居を交互に見て、首をかしげた。 イルカはこんな物、頼んでいない。 「注文していないんですが」 「…オーナーからで…ございます…」 この仲居も、イルカを珍獣を見るような目付きで不躾に見てくる。 こんな至近距離でそういう目をされると、さすがにイルカも良い気分はしない。 少し顔を顰め、申し出を断ろうとすると、仲居がするりと部屋に入って来てしまった。 部屋の中央の丸テーブルに銀の盆を置き、機械のような硬い動きでイルカを振り返る。 「…おお神よ…」 仲居から発せられた信じられない言葉に、イルカは自分の耳を疑った。 正気を失ったような目が確実にイルカを捉えている。 「…なんとお美しい…」 覚束ない足取りで、でも一歩一歩着実に近付いて来る。 イルカは壁に背中を張り付かせ、味わった事のない恐怖に身体の自由を奪われていた。 すぐそこまで来ていた仲居が、何かに取り憑かれたようにイルカへ手を伸ばしてくる。 「…ひっ…」 反射的にぎゅっと目を瞑った。 「オレのイルカに手ぇ出すな!」 怒気を孕んだカカシの声に恐る恐る目を開くと、イルカの視界一杯にカカシの背中が広がっていた。 見えない所から、何かがぶつかったような大きな音がする。 カカシの肩越しに窓の方を見ると、もう一人のカカシが仲居を羽交い絞めにしていた。 そのまま、手で仲居の目を覆い、軽々と引きずって部屋を出て行く。 「大丈夫でしたか?」 二人きりになった部屋で、カカシの優しい声がイルカの脳に浸透する。 一気に緊張が解け、イルカはその場にへたり込んでしまった。 そんなイルカを、カカシはひょいっと持ち上げ、ベットに腰掛けさせる。 「この国、変な信仰があって、黒い肌と黒い髪を持つ人は神様なんだそうです。今さっき街の人の話を立ち聞きして知ったんですけど」 カカシも隣に腰掛け、イルカを落ち着かせるように肩をさすってくれる。 「オレね、この街の温泉の事調べて来たんです。もう目的の薬草は見つけて来ましたから、これから行って、ゆっくり静養しましょう」 重要な事をさらりと言い放ったカカシに目を瞠る。 「でも、一度は言ってみたかった事が言えたんで、すっきりしました」 カカシが背中からベットに倒れ込み、ぐーっと伸びをした。 言葉通り、何か吹っ切れたような顔をしている。 カカシが薬草を取って来たのなら、後この任務に残されたのは帰路を安全に進む事だけ。 結局イルカは何の役にも立たなかったけど、本当にこれで良かったのだろうか。 答えの出ない自問自答を繰り返していると、早速カカシが温泉へ行こうとイルカを誘ってくれた。 湯に浸かれば気分も変わるだろうと思って付いて行くと、そこは偶然にも新緑に囲まれた、とても清々しい場所だった。 しかし、初めて見るカカシの裸体に、念願だった絶景ですら霞んでしまった。 ひっそりと温泉に浸かり、イルカは今回の任務でカカシがイルカを指名した理由を考えた。 そして、自分が勝手に想像した内容に一人で顔を赤らめていた。 |