夏休みの宿題は、期間が長いだけに量が多くて大変だ、という印象を持っている生徒はとても多い。 しかし、本当に大変なのは、一人で何十人もの生徒が提出した宿題全てに目を通して添削する担任だったりするのだ。 生徒の事を真剣に考えているからこそ、自分の勤務時間を増やしてでも宿題を出す。 それが教師陣の愛情だというのに、その事に欠片も気付かない生徒もいる。 そんな生徒には、一晩かけて説教をしてやりたいぐらいの心持ちだ。 一晩ぐらい、添削に割く時間に比べたら非常に微々たるものだから。 夏休みの提出物関係が落ち着いたら、今度は定期試験の準備が始まる。 直近の予定を頭の隅で考えながら、イルカは今日も夏休みの宿題の添削に精を出していた。 今目を通しているのは、木の葉丸の自由研究。 自由研究は、生徒の個性や好みがわかりやすく反映する課題なので、イルカは毎年楽しみにしていた。 木の葉丸は、今年は月と星座の観察というテーマで提出している。 眠い目を擦って一生懸命やったのだろうと伝わってくるような内容を見ていると、それだけでイルカは、良くやったと頭を撫でてやりたくなる。 月の観察は満ち欠けを、星座の観察は星座の形を絵でまとめていた。 星座の方には12星座の絵が全て描かれており、絵の横に予備知識のように日付と名前が書いてある。 やぎ座の横には『12月30日オレ』と赤色で目立つように書いてあった。 おひつじ座の横にはウドンとサクラ、ふたご座にはモエギ、てんびん座にはナルト、しし座にはサスケ。 図鑑か何かで見つけたのか、12星座ではないけれど、いるか座の横にはイルカの名前が入っていた。 「俺はふたご座なんだけどなあ」 つい目元と口元がだらしなく緩んでしまう。 木の葉丸はきっと、ナルトに掛け合って色々と情報を集めたのだろう。 そう思ったら余計に嬉しくなる。 さっと目を通してコメントを書いてから、次の生徒の自由研究に移ろうとした時、気になる文字列がイルカの目の端に入った。 反射的に用紙を見直す。 すると、おとめ座の横に『9月15日カカシ先生』と書いてあった。 『おとめ』と『カカシ』という言葉が余りにも掛け離れていて、すっかり見落としていた。 正直言って、カカシがおとめ座だなんて意外だ。 いや、それよりも、9月15日って今日じゃないか。 今日がカカシの誕生日。 突然浮上した偶然の一致に、イルカはしばらくの間、手が止まってしまった。 カカシとは仕事上の付き合いでしかないけれど、イルカはそれ以上の感情を胸に秘めている。 けれど、そんなイルカの本心なんて、女性関係の噂に事欠かないカカシ相手にわざわざ伝える事ではない。 無理をして隠しているのではなく、カカシには必要ないと解っているから黙っているだけ。 今のまま、仕事の後に飲みに行ったり、道ですれ違った時に和やかな会話が出来れば、イルカはそれで充分だ。 ただ、もし、もう一つ偶然が重なれば。 カカシが夕方に受付に来て、イルカの窓口で報告書を提出してくれたら。 その時は、ちょっとだけ特別な気持ちでカカシを夕飯に誘ってみようと思った。 * * * * * 昨日までと同じように受付に座っていても、今日はいつもより心拍数が上がっている。 カカシが来なかった場合も考えて抑えようとしているのに、中々上手くいかない。 人がまばらな内は、誰かが受付に入って来るたびに心臓が跳ねた。 だがそれも、混み合ってくる時間帯には治まり、忙しさのせいでカカシの事はすっかり失念していた。 それなのに、不意を突いて姿を現す。 「お疲れ様です」 普段通りの速さで報告書を処理していたら、いきなり目の前にカカシが立ちはだかった。 受付の窓口に座っているのだから、里の忍が報告に来るのは当然の事だけど、狙い澄ましたかのようにイルカが忘れた頃にやって来る事はないじゃないか。 「お、お疲れ様です」 カカシの片方の目がにっこりと細められる。 すると、イルカの心臓が、どくん、と一際強く脈打った。 そんな自分に動揺しながらも、平常を装って笑顔を作り、カカシから報告書を受け取る。 「イルカ先生?」 「…なんでしょう、か」 「具合でも悪いんですか?何かいつもと様子が」 「あ…、いえ、ご心配には及びません…」 これ以上追求されないように、報告書を口実にして俯いた。 限られた猶予の中で、懸命に言葉を選んで組み立てようとする。 しかし、報告書を確認しながら別の事を考える作業は、思いのほか捗らない。 「イルカ先生」 頭の上から穏やかな声で問い掛けられて、ぱっと顔を上げる。 「このあと時間あります?飯でもどうですか」 声と同じ穏やかな表情のカカシに、慌てていたイルカの内心はすぐに凪ぐ事が出来た。 荒い鼻息の代わりに安堵の溜め息を吐くと、気の抜けた自然な笑みが湧いてくる。 「はい。ぜひご一緒させて下さい。それであの…もしよろしければ…」 言いにくい内容に、言葉が尻すぼみになる。 イルカの様子を察したカカシが、先を促すように『はい』と返事をしてくれた。 「…今日はカカシ先生のお宅で、というのは駄目ですか?俺が夕飯作りますから」 「ああ、いいですよ。この前の酒も残ってますしね」 カカシの家には、過去に何度かお邪魔した事があった。 確か、もらい物の良い酒が手に入ったからとか、最初はそんな理由だったと思う。 それからは、安上がりだと上忍らしからぬ事を言って、時折カカシの家で酒を飲んだり食事をしたりしていた。 今思えば、イルカの財布を心配してくれたからに他ならないだろう。 でも最初の時も、それから後の時も、カカシからは一切そんな押し付けがましさは伝わって来なかった。 改めてイルカは、カカシの人柄の良さに頭が下がる思いがした。 「俺の家が手狭でなければうちにお呼びするんですけど。すみません」 「いいえ。お気になさらず。オレ、家で待ってますから仕事終わったらイルカ先生も来て下さい」 「すいません、早めに帰れるようにしますんで。あ、あとっ、買い物もついでに俺がして行きますから」 カカシが始終にこにこしているおかげで、イルカの口もいつもよりなめらかに動いてくれた。 大仕事を成し遂げたような達成感に、イルカの内側から力がみなぎって来るのを感じる。 報告書に検印を押し、カカシに結構です、と告げた。 「じゃ、あとで」 「はい。お疲れ様でした」 ぺこりと会釈を返し、受付を出て行くカカシの背中を目で追った。 ぱっと正面に向き直り、次の報告書を笑顔で受け取る。 一秒でも早く処理しようという意気込みのせいか、次の報告者が怪訝な顔をしてイルカを見ていた。 * * * * * 誕生日プレゼントは一つしか思い付かなかった。 まだまだ残暑の厳しい9月という季節に丁度良さそうな部屋着。 口元まで覆って顔を隠すカカシに、少しでも涼しくなってもらいたいという気持ちから、甚平を贈る事にした。 馴染みの呉服屋でカカシに似合いそうな色を選び、きれいに箱に包装してもらって赤いリボンまで巻いてもらった。 商店街で絶対に外せないカカシの好きな食材を二種類買って、あとは適当に見繕って揃えた。 甚平の紙袋と食材の入ったビニール袋を持ってカカシの家へ向かう。 今日ばかりは宿題の添削も受付の残業もせず、きっちり定時で上がって来た。 イルカの住まいと違って、カカシの部屋は高層住宅の上階なのでエレベーターを使う。 初めて来た時の、見知らぬ環境にあたふたした自身の姿はまだ記憶に新しい。 エレベーターを降りて通路を歩いていると、正面から一人の女性が歩いてきた。 名前は忘れたが、木の葉病院の女医の先生だ。 軽い会釈をしてすれ違うと、悪臭と紙一重な強い香水の匂いがイルカの鼻をついた。 イルカの着衣に匂いが移ったかもしれないけど、高層階特有のビル風に晒されて瞬く間に香水の残り香が払拭される。 匂いの事は気にせずにカカシの部屋の前まで行ってインターホンを押すと、予想外の速さでドアが開いた。 「あ、イルカ先生でしたか」 「すいません、遅くなりまし…」 カカシがドアを開けた時、女医とすれ違った時と全く同じ匂いがした。 即座にその意味を理解して、イルカの足が入室を躊躇う。 「…どうぞ?」 カカシに促され、なんとか玄関に足を踏み入れる。 部屋に上がり、カカシの後に付いて台所へ向かう途中、真新しいドレスバックが目に留まった。 何となく見つめていると、カカシがイルカの荷物を受け取りながら説明をしてくれた。 「なんかオレ、今日誕生日だったみたいで。さっきもらったんです、そのタキシード」 最後の言葉を聞いて、イルカの身体が少し強張った。 惰性でカカシに預けそうになっていた呉服屋の紙袋を慌てて奪い返す。 「こ、これは違うんです」 危なかった。 あんなに上等な服をもらうような人に、地味な布を縫い合わせただけのような着物を渡してしまう所だった。 玄関で香った匂いと、さっきもらったというカカシの言葉から判断すると、贈り主は一人しかいない。 カカシとあの女医は、高価な誕生日プレゼントを贈るような深い仲だったのだ。 中身が発覚する前に必ず自宅に持って帰ろうと、イルカは一端玄関へ戻って靴の傍に紙袋を置いておいた。 「すぐ支度しますから、カカシ先生は座っていて下さいね」 玄関から再び台所へ向かう時、どうしてもカカシの顔を見る事が出来なかった。 カカシに対して僅かでも期待を持ってしまった自分が情けないし、恥ずかしい。 つらい事を払い除けるように頭を大きく左右に振り、気分を切り替えて夕食の準備に取り掛かった。 それでも、サンマを焼きながら、みそ汁にナスを入れながら、何でもない事なのに些細な拍子に胸が痛んだ。 出来たばかりの料理を食卓へ運び、カカシの表情を窺う。 「うわー。オレの好きな物ばっかりだ」 あからさまにカカシの目が輝いた。 カカシが喜んでくれた事で、イルカの気持ちも少しは軽くなる。 「…ねぇイルカ先生。一つ聞いてもいいですか」 顔は笑っているけれど、どこか真剣な雰囲気を醸すカカシに、イルカの身体がびくりと竦んだ。 カカシの雰囲気に飲まれないように必死になって深く頷く。 「もしかして、今日がオレの誕生日だって知ってました?」 友人として軽い調子で答えればいいものを、変な期待をしていた事やプレゼントの事が尾を引いていて正直に答えられない。 何も言えずにいると、カカシが後ろ手にイルカが持って来た呉服屋の紙袋を取り、中身を掴み出した。 甚平の入った箱には、『誕生日おめでとう』と書かれた既製品のシールが貼ってある。 犯人が決定的な物証を突き付けられた時の心理とは、こういう状態なのではないだろうか。 「すいません…」 カカシの質問に対する明確な返答を避け、真っ先に謝罪の言葉を口にした。 俯いて、完全にカカシから顔を逸らす。 「謝る事じゃないでしょ。オレは嬉しいです」 恐る恐る顔を上げると、カカシが料理を見た時より嬉しそうな顔で笑っていた。 「ありがとう、イルカ先生」 その笑顔に自然とイルカの表情も和らぎ、単純な自分を隠すために台所へ逃げた。 一息吐いてから、残りの品を持ってゆっくりと食卓へ戻る。 「それでね。イルカ先生には申し訳ないんだけど…」 カカシの発した言葉に嫌な予感がして、イルカは皿を持ったまま立ち尽くした。 妙な所で途切って中々続きを言おうとしないカカシに、否応なしにイルカの不安が煽られる。 「今日の受付での会話を聞いてたアスマに、オレとイルカ先生は付き合ってるのかって聞かれて、勝手にそうだって答えてしまったんです」 事実を淡々とありのままに語っているカカシの真意が、イルカにはよく解らない。 それに、カカシと気心の知れているアスマ相手に誤解を招くような発言をする必要はないではないか。 「別にそれは構いませんけど…、どうしてそんな嘘を?」 「迷惑でしたか…?」 「いえ、迷惑とかではないですけど…」 「じゃあ。オレ達、本当にお付き合いしませんか」 驚いた。 全く予想していなかった申し出に、イルカは思い切りカカシを凝視した。 冗談と本気の境目がわからない。 果たして、自分の身に起こった事実だけを見て、この場で軽率に返事をしても良いものだろうか。 思考の深淵にどっぷりと嵌ってしまい、ついに涙まで出て来た。 「…俺は…カカシ先生が好きです…」 カカシの本心とか、質問の正解とかは解らないから、唯一イルカが持っている真実を口にした。 こんな事を言うつもりは微塵もなかったのに。 静かに立ち上がったカカシが、イルカの方へ寄って来る。 次は何が起こるのかと思って縮こまっていると、大きな手がイルカの頭を撫でる感触があった。 「嬉しい。オレもイルカ先生が好き」 肩から力が抜ける。 優しい手と優しい声に、ようやく緊張が解かれたような気がした。 「あの…、冷める前に食べても良いですか?」 この場面にそぐわない気の抜けた提案を受け、笑いながらイルカが席に着くと、カカシもイルカの正面に腰を下ろした。 「ホントに嬉しい。まさかこんなに早くイルカ先生から誕生日プレゼントをもらえる日が来るとは思いませんでした」 「いや、実は、プレゼントと言えるほど立派なものではないんです」 カカシが呉服屋の包装紙を豪快にびりびりと破いて蓋を開けた。 甚平を手に取って広げ、目の前にかざしている。 最近の人は余り着る機会がないから、物珍しいのかもしれない。 「着てみても良い?」 そう言うとカカシは、支給服を脱いで上半身裸になり、素肌の上から甚平を羽織った。 カカシの白くてきれいな肌につい目が行ってしまう。 「ぴったりだ!ホントに嬉しい。あんな馬鹿みたいな服もらうより、こっちの方がよっぽどオレの事考えてくれてるって思う」 「…そうですか?」 「そうですよ。大体あんな服オレ達の商売でいつ着ろって言うんですか」 心底嫌そうな顔をして、カカシがドレスバックに目を遣った。 「断っても押し付けて行くような人からもらったから余計にですよ」 しっかり甚平を着込んだカカシが、満足そうな顔をして箸を持った。 「いただきます」 サンマを一口食べ、カカシが何かを感じ入るようにじっくりと噛み締めた。 そして、みそ汁を一口飲んで、また何かを感じ入るように奥歯をぐっと噛み締めている。 「イルカ先生大好き」 何の脈略もないカカシの唐突な言葉が、他人事のように遠くから聞こえた。 「イルカ先生知ってました?普段のオレ達の会話を聞いてる人達はみんな、オレ達が付き合っていると思っていたらしいですよ」 急に現実に引き戻されたイルカは、真っ先に、今日の受付でカカシの後に報告書を出した忍の顔を思い出した。 あの訝しんだ顔は、そのせいだったのか。 少し時間を要したが、カカシに教えられた真実を冷静に受け止める。 すると、一拍間を置いてからイルカの顔が一気に真っ赤に染まった。 |