教室で授業をしていると、開け放していた窓から桜の花びらが吹き込んで来た。

暖かい風と薄紅色の花びらに、自然とイルカの頬が緩む。

その時、授業終了を知らせるチャイムが鳴った。

「はい、今日はここまで。号令!」

生徒達が起立する時の椅子を引く音が、イルカの聴覚を支配した次の瞬間。

花びらが舞い込んで来た窓と同じ窓から、珍しいものが侵入して来た。

春の暖かい風と共に現れたのは、銀色の髪を持つ一人の上忍。

そそくさと教室を後にする生徒達に全く気付かれる事なく、ただ無機物のように窓枠に腰掛けている。

忍の手本というべき気配の消し方。

しかし、その所作とは対照的に、カカシの心情はイルカでさえ手に取るように感じる事が出来た。

まるで、自分が幸せである事を吹聴するために佇んでいるのだと、言わんばかりの顔。

意図が掴めなくて困惑していると、カカシのいる窓から一際強いが吹き込んで来た。

つい目を瞑り、右手をかざして目元を保護する。

「花びらが付いてますよ」

吐息すら聞こえるほどの至近距離からしたカカシの声。

反射的に目を開き、あまりに間近に迫った銀髪に怖気付く。

動けないでいるイルカの唇に、カカシの指先が触れた。

さらりと唇を撫で、イルカの目を見て微笑まれる。

イルカは言葉を失い、硬直しているかのように立ち尽くした。

「きれいな薄紅色ですね」

そう言うとカカシは、春風が通り過ぎたような余韻を残して教室を後にした。



* * * * *



イルカは毎年、アカデミーの桜が咲く頃には、必ず桜の木の前を通って帰るという決め事をしていた。

広い校庭の端まで行くのは大分遠回りにはなるけれど、一年間で数日間しか見られない貴重なものを見過ごす訳にはいかないから。

既に開花から満開までは見届けており、徐々に花を減らし葉を増やす枝々。

その姿に生徒の成長を重ねてしまうのは、職業病としか言い様がない。

「こんにちは」

木の下で足を止めていたイルカに、声を掛けて来る人がいた。

前後左右を見回してもいなかったので、桜の木を見上げる。

「カカシ先生でしたか。こんにちは」

カカシは太い枝の上で長い足を伸ばし、幹に背中を預けて座っていた。

何が楽しいのか、やはり嬉しそうな顔をしてイルカを見下ろしている。

「イルカ先生は、よくここを通りますよね」

どうやら、ここを通る所をカカシに頻繁に目撃されていたようだ。

イルカが気が付かなかっただけで、カカシもこの木へ頻繁に訪れていたのかもしれない。

特別優秀なこの上忍に気配を消されたら、とてもじゃないがイルカでは判別不能になる。

まあ、見られていたからといって、不都合になる事もないけれど。

「ご存知だったのなら、もっと早く声を掛けて下さったら良かったのに。何だか恥ずかしいです」

「イルカ先生、全然オレに気付いてくれないから」

それまでにこにこしていたカカシの顔が、一瞬だけ曇ったように見えた。

しかし。

「これからはオレの事を意識するようにして下さいね」

そう言ったカカシの顔は、あの幸せそうな顔に戻っていた。

他の意味が含まれているような言い回しが気になる。

「じゃあ帰りましょう」

突然背後から聞こえた声に、咄嗟に振り返る。

その驚きで、カカシの言い回しの事はどうでもよくなってしまった。

さっきまでは見下ろされていたのに、今カカシはイルカと同じく、地に足を付けて立っている。

しかも、手を伸ばせば届いてしまいそうなほどに近い。

深い意味はないのだとわかってはいても、カカシとの隔たりが薄らいだようで嬉しかった。

「帰る…って…?」

「家に帰るに決まってるでしょ。一緒に帰りましょうよ」

随分と手荒な誘い方に、抵抗する事は思い付かなかった。

でも、嫌ではなかったので、無理矢理ではないという事が少しだけ悔しかった。



* * * * *



下忍育成のDランク任務では、大体が朝から夕方までの1日任務だ。

常々人手不足で苦しんでいる里の事だから、イルカはてっきり、上忍は他にももう一仕事ぐらい与えられているものだと思っていた。

カカシのように特殊能力を持った優秀な忍なら尚更。

「…いいのかなぁ…」

小さく呟いたイルカの隣には、当たり前のようにカカシが並んでいる。

初めてカカシと帰路を共にしたあの日から、ほとんど毎日。

一緒に帰れない日は、わざわざカカシがイルカの元へ出向き、口頭でその旨を伝えてくれた。

帰り道なんてイルカの職場から自宅までの僅かな距離なのに、カカシは何かとこだわっている。

「悩み事でもあるんですか?」

カカシは抜け目ない。

何気ない独り言を拾われて、つくづくそう思った。

「いえ、そういう訳ではないんです」

辻褄の合う言い訳を頭の中で組み立てようと試みる。

でも、早く何かを言わなければと焦れば焦るほど、余計に何も浮かんで来ない。

「…ルカ先生!イルカ先生!」

先程退出してきたアカデミーの方向から、先輩の女教師がイルカの名前を呼びながら駆け寄って来る。

行き詰っていた頭にとっては救いの声に聞こえた。

「ちょっとすいません」

断りを入れると、カカシは『待ってます』と言って道外れの街路樹の方へ歩いて行った。

それを確認してから、イルカも先輩の方へ走り寄る。

話し声が届く距離まで来て、用件を尋ねようと口を開いた。

「なん…」

「もうあの人に近付くのはやめなさい」

イルカの呼吸を見計らって発せられた先輩の一言に、続く言葉を奪われる。

先輩はイルカと目を合わせる事もなく、あっという間にイルカの横を通り過ぎて行った。

言われた内容が上手く理解出来なくて、聞き直すために振り向く。

すると、先輩の背中はイルカからかなり離れた所で確認する事が出来た。

もう会話が出来るような距離ではない。

どうするか悩んでいると、彼女はイルカが聞いた事のないような快活な声でカカシの名前を呼んだ。

すれ違った時に聞いた低い声は幻聴だったのかと疑うほど、声の質が違う。

足取りも、イルカとすれ違うまでとは大きく違い、軽やかで楽しそうに見える。

走る速度だって、イルカが彼女に近付こうとした時は遅くて、彼女がカカシに近付こうとする時は速かった。

まるで、カカシとイルカを出来るだけ遠ざけようとしているかのように。

道外れの街路樹に着いた彼女が、顔を上げたカカシと何か言葉を交わしている。

忍の視力なら支障のない距離なのに、どうも二人の様子が把握しにくい。

そう思ってよく見たら、カカシが寄り掛かっていた街路樹は八重桜の木だった。

遅咲きの八重桜が、風が吹くたびにはらはらと花びらを落としているのだ。

八重桜は一体誰の味方なのか、レースのカーテンのように薄っすらと向こう側を覆い隠す。

やがて二人は、一瞥もくれずにイルカとは反対方向へ歩き始めた。

彼女の嬉しそうな後ろ姿を見て、イルカの背筋に冷たいものが走る。

それは彼女の強引さに対する恐れと、もう一つ別のものとがあった。

カカシを取られてしまったような喪失感。

イルカは前にも後ろにも進めず、その場でうな垂れて足元を見つめた。

「帰りましょ」

驚くほど近くからしたカカシの声に、反射的に顔を上げる。

「オレけっこう地獄耳なんですよ」

「…あ、の…?」

「オレに近付くのはやめて下さいと言ったら、走って行ってしまいました」

カカシの肩越しに視線を投げたけど、彼女の姿は跡形もなく消えていた。

さっきの桜吹雪に包まれて、どこかへ隠されてしまったのだと言われれば納得してしまいそうほどに、全く気配を感じない。

「…良かったんでしょうか…」

「良いじゃないですか。きっと彼女は近い内に長期の任務にでも出るでしょうから」

どうしてカカシが彼女の未来を知っているのだろう。

少し不思議に思ったけど、自信たっぷりに言ったカカシを、なぜだか疑う気にはならなかった。

口に出さなくてもそれが伝わったのか、カカシの右目がにっこりと細められる。

慈しむようなカカシの微笑みが、春風の暖かさと共にすうっとイルカの中に浸透してきた。

そうやって自然に入り込んできたぬくもりの正体にイルカが気付くのは、それから大分経ってからの事だった。










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2006.05.06