中忍仲間の一人が、2週間の任務に出る事になった。 彼は一人暮らしだったけれど、家族のように親しくしている同居者がいた。 以前からその同居者と交流のあったイルカは、自ら進んで彼女との共同生活を申し出た。 彼女の名前はユキノ。 寒い雪の日に拾われた、真っ白い犬だった。 * * * * * 「なぁイルカ、ユキノさんとの生活にはもう慣れたか?」 「当たり前だろ!初日から毎日一緒に寝てる」 「へぇ…。やっぱり仲良いんだな…」 悔しそうにイルカを羨む同僚も、もちろんユキノの事は知っている。 独身寮で預かっていた時期があるので、ユキノは中忍の間では結構有名な犬だった。 イルカは彼女を『ユキ』と呼ぶほど親しい仲で、ユキもイルカが傍にいる事を認めてくれている。 「仕事中もユキの事が頭から離れなくてさ」 「相思相愛だよなぁ…」 「へへっ。羨ましいだろ」 そう言ってユキの顔を思い出す。 どこまでも澄んだ真っ黒の瞳と、それと対照的な真っ白い体毛。 ポメラニアン特有のふわふわの身体は、どれだけの年月を経てもイルカを虜にして止まない。 そして、その毛並みに惹かれる理由はもう一つあった。 色素が薄くて柔らかそうな髪を持つあの人に、とても良く似ている。 畏れ多くて実際に触れる事は出来ないけれど、イルカが本当に触れたいのはカカシの髪。 カカシの髪も、カカシの腕も、カカシの背中も、全てを感じたい。 つまりユキは、イルカの叶わぬ願いを代行してくれる掛け替えのない存在なのだ。 もう何度彼女に慰めてもらった事だろう。 上忍が集まる控え室で、くの一達に囲まれているカカシの姿を見た時もそうだ。 あの時カカシは、取って付けたようにイルカを酒の席に誘い、くの一の輪から抜け出そうとしていた。 それを承知で、イルカはカカシに調子を合わせ、元から約束していたふりをした。 最初はカカシに加担出来た事が嬉しかった。 でも、その場限りに利用された事に気が付いた時には、大声で叫び出しそうになっていた。 イルカの内心を察したカカシが申し訳なさそうに『本当に飲みに行きましょうか』と言ってきたので、それはきっぱりとイルカの方から断りを入れた。 気遣いから来る誘いなんて、単なる社交辞令か憐れまれたかのどちらかでしかない。 「お疲れさま」 カカシとユキで一杯だったイルカの頭に、唐突に来客の声が響き渡る。 来客といっても、受付所に報告書を提出する忍なのだけど。 思い出したように報告書へ目を通し、次々に処理していく。 事務的に進めていると、頭上から降って来た聞き覚えのある声に、ふと我に返った。 「お疲れ様です」 外勤とは思えないほど白くて綺麗な指に挟まれて、報告書が差し出される。 ぎこちなく受け取り、目を通したふりをして受付済みの判を押した。 カカシの事を考えていた直後に本人に登場されたら、とても平静ではいられない。 「…はい、結構です。お疲れ様でした」 「イルカ先生、この後飲みに行きませんか」 何の脈絡もないカカシの言葉に、イルカの思考が一時的に停止する。 今のカカシは、くの一達に囲まれてはいない。 障害はないし喜ばしい事なのに、口実にされた事がトラウマになっていて、素直に頷く事が出来ない。 「すみません…。今日は用事があるので…」 咄嗟に口を突いた断り文句だったが、帰ってからユキの世話をするのだから嘘ではない。 その代わり、こんな見え透いた理由では、次の誘いは絶望的だ。 「じゃあ明日はどうですか」 てっきりカカシは、イルカの無体を笑ってやり過ごし、すんなり退室するのかと思ったら、そうじゃなかった。 焦りを滲ませて机に手のひらを付き、身を乗り出してまで、熱心に尋ねてくる。 引くに引けなくなったイルカは、詭弁に詭弁を重ねる事になってしまった。 「すみません。…しばらくカカシ先生にはお付き合い出来そうにありません」 ユキがいる間は。 「…そうですか…。仕方ないですよね。…じゃあ失礼します」 力ない笑顔を残して、カカシは受付所を後にした。 何となく後ろ姿を目で追う。 すると、カカシの後を追って、数人のくの一達が受付所を出て行く姿を見掛けた。 それでイルカは全てを理解した。 カカシが必死になってイルカを飲みに誘った理由。 またしても、くの一達からの誘いを断る口実だったようだ。 もっと早く事情を察していたら、あるいはカカシの申し出を受け入れていたかもしれない。 いちいち誘いを断る口実を探すカカシを不憫だとは思うけれど、今回はカカシの真意に気付けなくて良かったと思った。 上忍だからといって、格下を何度も交渉の引き合いに出されては困る。 カカシが個人的に誘ってくれるのであれば、例え予定を取り消したって同行させてもらうというのに。 * * * * * 仕事を終えて家に帰ると、ドアを開けた途端にユキが盛大に出迎えてくれた。 尻尾を大きく振って、何かを訴えるようにイルカをじっと見上げてくる。 「よーし、散歩行くか?」 散歩という言葉に、きらきらしたユキの目が更に輝きを増した。 しつこいぐらいに頭を撫でてからユキにリードを装着し、お決まりの散歩コースへと連れ出す。 いつも寄っている公園へ入り、噴水の回りに設置してあるベンチに腰掛けた。 ユキを膝の上に乗せ、頭を撫でながら、暮れていく空をぼーっと見つめる。 「イルカ先生も散歩ですか?」 「あ…カカシ先生…」 カカシがパグのような小型犬を連れて近付いて来た。 小型犬には木の葉の額宛が付けられている。 「忍犬もご主人が散歩させるものなんですね」 イルカはてっきり、忍犬は一人で散歩や食事が出来るものだと思っていた。 「え、ええ、まあ…。隣、いいですか?」 「どうぞ」 カカシが座れるようにベンチの端に寄る。 すると、急に恥ずかしさが込み上げてきて肩身の狭い思いがした。 恋人同士でもないのに、公園のベンチでカカシと二人、並んで座っているなんて。 「あー、その…。イルカ先生の『しばらく』っていうのは、どれくらいの事なんですかね…?」 不意に始まったカカシの問い掛けに、イルカは口を噤んでしまった。 無言のまま首を捻り、自身の発言を省みる。 「受付でイルカ先生が言ったじゃないですか。しばらくは付き合えないって」 カカシの解説を聞いて、ようやく状況を飲み込めた。 受付所で交わした会話の中に、確かそんな話があった気がする。 「それなら、来週一杯までです」 ユキをカカシの目の高さまで持ち上げる。 「同僚が任務に行っている間、俺が預かっているんです。なあ、ユキ?」 「あの、その犬、ユキっていうんですか?」 「…?…はい。本名はユキノっていうんですけど、俺はユキって呼んでます」 「…ユキ…ユキノ…さん…」 小声でユキの名前を呟いたカカシが脱力し、そのままずるずると滑ってベンチから落ちそうになっている。 きっとカカシは、公園のベンチのような安っぽいベンチには座り馴れていないのだ。 「カカシ先生は飲み会の前にお散歩ですか。きっちりしてらっしゃるんですね」 カカシには、高級料亭に置かれている上等な座椅子の方がよっぽど良く似合う。 美しい女性達と楽しく酒を飲む姿が易々と目に浮かび、胸の奥がじんじんと震えた。 所詮イルカは、カカシの口実を作るための都合の良い相手。 それ以上でも、それ以下でもない。 「ああ。あんな飲み会なんて断りましたよ」 「…俺がもっと早く気付いていれば、口実作りにご協力出来たのに。すみませんでした」 愛しそうに忍犬を撫でていたカカシの手がぴたりと止まる。 視線をユキの位置に移動して、俯いた事を誤魔化した。 「そんな…。謝らないで下さい、あれは…」 「むしろ、アンタを誘うための口実なんじゃよ」 「パックン!」 カカシが慌ててパックンと呼ばれた忍犬の口を塞いだ。 しかし、イルカはそんな事よりも、人間の言葉を話す犬の方に心を奪われていた。 パックンとユキを交互に見比べる。 ユキも忍犬として訓練をしたら、いつか言葉を話せるようになるのだろうか。 「い、イルカ先生、犬の言う事、ですから、き、気に…気にしないで、下さい、ね…」 「…犬でも…言葉を…」 会話が噛み合っていない事にも頓着せず、イルカの瞳は可愛い2匹の犬だけを映していた。 そしてそれは、2人と2匹の影が暗闇に飲み込まれる時間帯まで延々と続いた。 |