古い後輩に相談があると言われ、軽い気持ちで話を聞く約束をした。
テンゾウがカカシを相談相手に選んだ時点で、大体の内容は想像出来る。
静かな場所では話しづらいだろうと思い、カカシはあえて騒がしい大衆酒場を選んだ。
一杯目のビールを3分の1ほど空け、カカシは苦笑がばれないように気を付けながら、テンゾウの第一声を待った。
「話す前から笑わないで下さいよ」
「…悪い」
素直に謝り、カカシも気持ちを入れ替える。
テンゾウから相談を受けるのは今回で二度目だ。
一度目の時は、カカシが悪いわけではないが、テンゾウには可哀想な事をした。
にも関わらずカカシの元へやって来たのだから、もしかすると今回の件はカカシの知っている人物が絡んでいるのかもしれない。
「今ちょっと気になる人がいて…」
やはり、と思った。
十年ぐらい前に、初めてテンゾウから相談されたのも色恋の事だった。
あの時カカシはテンゾウに頼まれて女の元を訪ねたのだが、その用件を伝え終える前に女がカカシに迫ってきたのだ。
もちろんカカシはそれを正直にテンゾウに報告した。
テンゾウにしてみればつらい思い出だっただろう。
当事者ではないカカシだって忘れたくても忘れられない一件だった。
そんな事があって以来の相談だ。
テンゾウなりにカカシに話しても大丈夫な相手という確信を持って来ているのではないだろうか。
両手で掴んでいたジョッキを引き寄せ、テンゾウが一気に中身を呷る。
咽喉を鳴らしてほとんどを飲み干すと、視線を遠くへ投げてぽつりぽつりと語り始めた。
「…あの人誰なんだろうって思ったのがきっかけだったんですけど…」
今度こそ、ちゃんと協力してやりたい。
本心からそう思って、小さな相槌を入れて続きを促す。
「…イルカ先生って、恋人いませんよね?」
一瞬、息を飲んだ。
肩もぴくりと揺れてしまったかもしれない。
テンゾウの真剣な目と声音が、嘘や冗談でない事を証明している。
何かに追い詰められていくような息苦しさに、無意識にジョッキを握る手に力が籠った。
「先輩…?僕の話、聞いてます?」
テンゾウの方を向いていた顔を正面に戻そうとすると、首がぎしぎしと音を立てた。
残っていたビールを一気に呷る。
体温調節は出来ているはずなのに、カカシのこめかみから大粒の汗が滑り落ちた。
イルカ先生。
それは、カカシが懸想しているアカデミー教師と同じ呼び名だった。

* * * * *

聞いてみないと解らない。
テンゾウの問いに、カカシはひとまずそう答えた。
そうとしか答えられなかった。
もしあの場でカカシが本当の事を言っていたら、取り返しの付かない事になっていたような気がする。
イルカに恋人はいない。
テンゾウは半ば決め付けて尋ねてきたが、悔しい事に彼の見立ては間違っていなかったのだ。
朝から幾度となく零れる溜め息が、吐いている本人ですら鬱陶しくて仕方ない。
カカシが一番恐れているのは、テンゾウがカカシに似ている所。
元暗部がナルトを通じて知り合った元担任に心を奪われ、受付で顔を合わせる度に胸が温かくなる。
杯を重ねるごとに饒舌になっていったテンゾウの話に、何度深く頷きそうになったか解らない。
「お疲れ様です」
笑顔と共に差し出されたイルカの手に、昨日のテンゾウの言葉が蘇った。
報告書の提出は必ずイルカ先生にするようにしてるんです。
嬉しそうに話す後輩に、そんなのお前だけじゃないよ、と釘を刺しておけばよかった。
また、それがカカシやテンゾウだけでもない所がカカシの心配の種でもある。
イルカの笑顔の純度と、嫌味のない挨拶は、薄暗い場所で働いてきた者達には凶器だ。
必死で隠している心の脆い部分に、次から次へと鋭い矢を打ち込まれる感じ。
テンゾウの例えが誇張でない事は、誰よりもカカシが一番良く解っている。
「あの、カカシ先生すみません。今日これからお時間ありませんか」
不覚にも、心臓が一度どきりと大きな音を立てた。
慌てて、心拍を平常に戻していく。
テンゾウにイルカの事を語られた時に比べれば、かなり些細な変化だったから、周囲の人間には気付かれていないだろう。
「ええ。大丈夫ですよ。飲みにでも行きます?」
「すみません、急に」
明らかにほっとしているイルカに、カカシの表情も緩む。
こういう時のイルカの顔が好きだ。
「そっちで待ってますね」
親指で後ろのソファーを指差す。
イルカが何度もすみませんと言うので、カカシは出来るだけ優しい目をして、気にしないでという意味で首を振った。
踵を返し、さっそく愛読書を取り出してソファーに座った。
イルカに気付かれないように、ちらちらと様子を伺いながら文章を目で追う。
そして、七時を過ぎた所でイルカが立ち上がる気配を感じた。
「カカシ先生」
こうしてイルカに名前を呼ばれるのが好きだ。
呼ばれたいから、イルカが立ち上がる気配がしても気付かないふりをしていた。
イルカの帰り支度を待って一緒にアカデミーを出る。
適当な居酒屋を見繕って暖簾を潜ると、混雑する時間帯のせいか、隅っこの狭いカウンター席しか残っていなかった。
カカシにはイルカと密着できる狭い席は嬉しいのだが、一応確認のためにイルカを振り返る。
イルカは席の具合を気にした様子もなく、カカシに続いて暖簾を潜って来た。
たとえ座れれば良いという考えであっても、イルカに拒絶されなかった事に小さな幸せを感じる。
二人ともビールを頼み、すぐにそれがお通しと共に運ばれて来た。
お互いにお疲れさまを言い合って乾杯する。
イルカはジョッキに口を付けると、すぐにカウンターに戻した。
「…あの…さっそくなんですけど…カカシ先生にご相談が…」
横目で見たイルカは、たった一口のビールで目元をほんのり赤く染めている。
そこを指で撫で、ほつれた髪を耳に掛けてやったら、イルカはどんな反応を示すのだろう。
勝手に高揚していきそうな気持ちを自制し、イルカの声に意識を集中させる。
「今日…なんですけど…、職場の人に…交際を…申し込まれまして…」
「えっ…!えっ、で、どうっ、どうしたんですかっ」
動揺を抑える事も出来ず、声が上擦ってしまった。
「その場ですぐに返事が出来なくて、1週間の猶予をもらいました」
知らずに強張っていた肩から、僅かに力を抜く。
これはまずい。
焦りと危機感がカカシの中を駆け巡る。
のろのろしていたら、誰かにイルカを奪われてしまう。
この状況で、思い切ってカカシの気持ちを告げるというのはどうだろう。
そんな唐突に言ってイルカの信頼を裏切ったらどうするんだと、それを引き止めようとする自分もいる。
とにかく動揺していて、物事の判断が付けられない。
落ち着こう、冷静になれ、と何度も頭の中で繰り返す。
「俺…気になってる人がいるんです…。でもその人はとても手の届かないような人で…。もうそろそろ現実を見ないと駄目かなとは思ってるんですけど…」
「差し支えなければ…いや、言えたらでいいんですけど、イルカ先生に交際を申し込んできた人って、オレの知ってる人?」
イルカは無言で首を振った。
もしかしてテンゾウが暴走したかとも思ったが、そうではなかったようだ。
「…じゃあ。イルカ先生の気になってる人は、オレの知ってる人…?」
今度はイルカは首を振らなかった。
それが肯定を意味すると解っているのだろうか。
イルカの唇は微かに震えていて、頬はさっきより赤みが増している。
片思いの相手を思い浮かべての事なのだろうが、その表情を見ていると惑わされそうになる。
「カカシ先生は…、今気になってる人とかいないんですか…?」
話題の矛先を向けられて言葉に詰まる。
オレの事はいいから、と焦る一方で、これを機にカカシの気持ちを伝えてしまおうかと、考えている自分もいた。
「います。今めちゃくちゃ気になってる人が。目の前に」
笑いながら告げる事で、冗談に本気を混ぜる。
カカシの言葉に、イルカが周囲を見回した。
精一杯に首を捻って後ろも見たようだが、イルカの後ろには薄っぺらそうな壁しか残っていない。
「そっ、そうじゃなくてっ!…す、好きな人とか、いないんですかっ」
相談に乗っている相手だからイルカを気にしているとでも解釈したのか、イルカは顔を真っ赤にして強い口調で言い直してきた。
イルカはカカシの言葉に含まれた本気の部分には全く気付いていない。
もどかしさを感じながらも、色恋に関わる内容でイルカを相手にするなら、余計なものは一切省かなければ伝わらないと思って覚悟を決めた。
「…だから。目の前にいます、オレの好きな人」
今度は真面目な顔で、しっかりイルカの目を見て告げた。
イルカは目を大きく開いたまま動かなくなり、数秒か数十秒経ってから慌てて顔を俯かせた。
硬く拳を握り、目をぎゅっと閉じて、首まで真っ赤に染めている。
イルカの反応に確かな手応えを感じ、カカシは内緒話でもするように手を添えてイルカの横顔に近付いた。
「イルカ先生が好き」
がちがちに体を固くするイルカが可愛くて、ついふっと笑ってしまった。
耳元に息を吹き掛けるような形になり、イルカの肩がびくりと大げさに震える。
上機嫌でイルカから離れ、残ったビールを流し込む。
「…俺もカカシ先生が好きなんです…」
いきなりイルカが耳元で囁いてきた。
カカシと同じで、内緒話をするように手を添えて。
突然の事にビールが気管に入り込み、派手に噎せ返った。
イルカに背中を擦られて、優しさと情けなさにカカシの眉が下がる。
こんな時に、カカシの頭には不運な後輩の顔が浮かんでいた。
テンゾウ、ごめん。
カカシは心の底から詫びるつもりで、ひっそりと胸の中で呟いた。
そして何より、テンゾウよりも早くイルカと出会えた事を、心の底から感謝した。






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2008.08.05