イルカの頬に大きなガーゼが貼ってある。 理由が気になって尋ねようとすると、イルカが先に喋り出した。 「夕日がきれいですよ、カカシさん」 窓辺に立って屋外に視線を投げるイルカは、夕日を浴びて赤く染まっている。 「そっちじゃ、こんなにきれいな色は見られないでしょう。だから早く起きてく下さいよ、カカシさん」 イルカがカーテンを引いて、眩しい西日を遮ってくれる。 「カカシさ…」 イルカが、やっとこっちを向いてくれた。 反射的に口元が緩む。 しかし、僅かに口端を上げるという些細な動きが、とてもぎこちなく感じた。 イルカが一瞬驚いた顔をして、すぐに表情を改める。 顔をくしゃくしゃに歪めて、目から大粒の涙を零した。 涙を拭おうと手を伸ばすが、動いたのは指先が少しだけ。 イルカは、ぼろぼろと涙を流したまま近付いて来て、ぴくりと動いた右手を温かい手で包んでくれた。 「っ…カカシさっ、うっ…く、カカシさんっ…」 ああ。 またイルカを泣かせてしまった。 ついでに、自分が病院のベッドの上にいる理由を何となく思い出してきた。 いつも通りと言ったら情けないが、チャクラが切れて入院しているのだろう。 しかも、かなり深い所まで沈んでいたような感覚があるので、機械に頼らなければ生命維持に支障を来たすほどの重症だ。 イルカが何度も何度も目を擦って涙を散らし、晴れ晴れとした笑顔を見せてくれる。 「今、綱手さまを呼んで来ます」 そんな事は後に回して、しばらく傍にいて欲しいと思った。 イルカの体温を感じていたいし、イルカの声を聞いていたい。 頬のガーゼの理由だって、まだ聞いていない。 名残を惜しむカカシの視線を置いて、イルカが手を離した。 イルカの気配が遠ざかり、眠気と戦うように瞼をくっ付けたり離したりを繰り返す。 カカシが生きていて、イルカが無事なら、もう大丈夫だ。 何がどう大丈夫なのか自分でもよく解らないが、とにかく大丈夫だと思った。 すぐに何人か部屋に入って来て、イルカも戻って来た。 先頭で入って来た綱手に、じっと見つめられる。 綱手がベッドの横まで来て、カカシの全身に向かって手をかざし、目を閉じた。 しばらくそうやって検分してから、真っ赤な唇を開いてこう言った。 「まだまだ動けないだろうが、ゆっくり休め」 一言告げて綱手は退出し、他の医療班がベッドの周りに集まった。 脈や血圧などを測って、カカシの状態を数字に置き換えていく。 気が済んだのか、やっと医療班が出て行った。 出入り口付近に立っていたイルカに、何事か声を掛ける者や、肩を叩いて行く者がいた。 最後の一人はイルカの頭を撫でてから出て行った。 せっかく二人きりになったのに、イルカが中々傍に来てくれない。 大人しく待っていると、出入り口の方から鼻を啜る音が聞こえてきた。 こういう時に動けないというのは、非常につらい。 再び泣き出したイルカを、慰める事も出来ない。 仕方なく小さな呻き声を上げると、イルカはすぐに駆け寄って来た。 発声は出来ないが口を動かす事は出来たので、イルカに読唇をしてもらう事にした。 『イ、ル、カ、先、生』 音のない呼び掛けに、イルカはきちんと返事をしてくれた。 『大、好、き』 「…っ、何言ってるんですかっ」 『大、好、き』 「もう…っ、わかりましたっ」 同じ言葉は返してくれなかったけど、もう一度手を握ってくれた。 * * * * * 首から上の機能が回復するのは早かった。 それから徐々に、手足などの末端に向かって感覚が戻っていくのは経験上知っている。 どうやら今回は、半月も意識が戻らなくて、かなり危険な状態だったらしい。 カカシがまだ何も出来ないのをいい事に、検温のたびにそれを愚痴っていくスタッフがいる。 そのスタッフから、イルカが毎日見舞いに来ていた事を教えてもらった。 ベッドサイドに置いてある品々は、その際にイルカが持ち込んだものだそうだ。 今日もそろそろイルカが来る。 足音なんて聞こえないし、気配も消しているけれど、カカシにはすぐに解る。 扉を静かに横に滑らせ、自分が通る幅だけを開き、そろりと入って来た。 カカシが眠っているかもしれないという事を配慮しているのだ。 そんな気遣いを無駄にするように、浮かれた声で呼び掛ける。 「イルカ先生」 久々に発する言葉は、好きな単語に限る。 慎重に扉を閉めていたイルカがこちらを振り返った。 頬のガーゼは取れて、擦り切れたようなかさぶたが残っている。 「もう話せるようになったんですね」 イルカの声に嬉しそうな音が混ざった。 「イルカ先生、大好き」 カカシも嬉しくなって、前回は声に出来なかった言葉を告げた。 イルカは唇を引き結び、顔を真っ赤に染めている。 読唇で聞くのと、生声で聞くのとでは、当然伝わり方だって違う。 カカシから目を逸らし、それでもイルカがベッドの横へ来て、いつもの席に腰を下ろした。 その動作に、微かな違和感を覚えた。 体のどこかを庇っているように見える。 「…ケガ、してるんですか?」 ぱっとカカシに顔を向けたイルカが、驚いたように目を見開いた。 すぐに目を伏せ、口元を弱々しく引き上げる。 「やっぱりカカシさんの目は誤魔化せませんでしたね」 「どうしたの?」 「解体中の建物が突然崩れて」 イルカが今こうしてカカシの傍にいるという事は、大事には至らなかったという事だ。 でも、頬以外にも傷があるはず。 「情けないんですが、全身青痣だらけです」 「他には」 笑い話で収めようとするイルカに、有無を言わせない強さで続きを促した。 イルカの自嘲的な微笑みが引っ込む。 「…右の肋骨に2本、ひびが入っています」 もしかすると、イルカが毎回似たような時間に見舞いに来られたのは、自身の診察や治療があったからなのかもしれない。 そうでなければ、多忙なイルカがこの時間に仕事を外せる訳がない。 「ちゃんと回復してる?大丈夫なんですよね?」 カカシは真剣に問うているのに、イルカはそれを聞いて急に笑い出した。 「人の事より、もっと自分の心配をして下さいよ」 容態から言えば、身動きも儘ならないカカシの方が重いけど、イルカの方が心配なのはどうにもならない。 チャクラが切れて自分が寝たきりになるのには慣れていても、イルカが怪我をするのには慣れていない。 「みんなが救ってくれた命なんですから、カカシさんには早く全快する義務があります」 イルカがベッドサイドに置いてある品々に目を向けた。 古い写真立てと、新しい写真立てと、鞘に錆の浮いた短刀。 「俺が病室にいない間も見守ってくれるように応援を頼みました」 だからか。 意識のない間、夢と言うには生々しいほどの体験をした。 生前にあれほど苦しんでいた父が、とても穏やかな顔をして、取り留めのないカカシの話を熱心に聞いてくれた。 父にイルカと3人で会う約束をしていると、ちょうどカカシを呼ぶイルカの声が聞こえたので、そちらに歩いて行ったら目が覚めた。 最初に視界に入ったイルカの頬には見慣れないガーゼ。 「オレ、父にイルカ先生のこと紹介しちゃった」 イルカは再び顔を赤くして口を閉ざした。 ひとしきり目を泳がせ、一言だけ呟いた。 「…そう…ですか…」 満更でもない、という感じだった。 |