どうしても見送りに行きたかった。 だって、カカシと付き合ってから初めての長期任務なのだ。 全てが順調にいったとしても、数ヶ月は会えない。 それなのに。 イルカは自分の机の上に積まれた書類の山を見て溜め息を吐いた。 今日中に処理しなければならないものだけでこの量だ。 カカシは日付が変わる頃に出立すると言っていたので、それまでには何とか片付けたい。 その思いだけで一心不乱に仕事に向き合い、最後の書類を終えた所で時計に目をやった。 11時45分。 筆記具を仕舞う手間も惜しまれ、机を散らかしたままで席を立った。 大門の前に2人の忍が佇んでいた。 一人はカカシで、もう一人は黒髪のくの一のようだった。 距離が縮まるにつれて、そのくの一が紅である事がわかった。 随分と熱心に話し込んでいる。 任務の事なのだろうが、これから離ればなれになる恋人との貴重な時間を取られてしまったようで、少し妬ける。 「カカシさん!」 カカシの関心をこちらに向けさせるために、はっきりした声で呼び掛けた。 2人の方へ駆け寄る。 丁度その時、商店街に通じる道からアンコが現れ、カカシたちと合流した。 この3人でスリーマンセルを組んで任務に就くのだろう。 「来てくれたんですね」 カカシの嬉しそうな声を聞いて、胸が温かくなる。 迷惑になるかもしれない、と頭の片隅で思っていた気持ちが一気に吹き飛んだ。 カカシが紅とアンコに手で合図を送り、イルカを木の陰に促した。 任務の前だというのに口布を下げ、無防備に素顔を晒す。 ぐっと腰元を引き寄せられ、至近距離で見つめ合った。 「しばらく会えないけど、浮気なんてしないで下さいよ」 締まりのない顔をしたカカシに言われ、同意しようと開いた口を、絶妙なタイミングで塞がれる。 カカシの唇はひんやりしていた。 いくら時間があっても熱くならないのではないかと思うぐらい。 そっと唇が離れ、カカシが口布を引き上げる。 表情の柔らかさは残っていたが、既にカカシは忍の顔になっていた。 潔くカカシから離れ、木の陰からも抜け出る。 出立前の忍を引き止めるなんて、同業者のする事じゃなかった。 イルカに続いてカカシも出て来る。 「じゃあ行って来ます」 カカシの言葉で、3人が一斉に跳躍した。 見えなくなるまで見送ろうと、暗い森にじっと目を凝らす。 「…やっぱり…イルカ先生とは付き合わない方がよかったかも…」 紅に向かって呟いた声が、風に乗ってイルカの耳にまで届いた。 時間差で意味を理解すると、全身からさあっと血の気が引いた。 どうして。 イルカが来た時、嬉しそうにしてくれたじゃないか。 だらしない顔をして、口付けてくれたじゃないか。 それが全て演技だったというのか。 長期任務の出立を、いちいち見送りに来たのが鬱陶しかったのだろうか。 イルカの気持ちが重荷だったのだろうか。 答えの出ない問いが、次から次へと湧いてくる。 唯一答えを持っている人は、イルカから逃げるようにして里を出て行ってしまった。 しばらくの間、何もできずにただ立ち尽くしていた。 * * * * * 朝起きてから、仕事中、夜寝るまで。 あれから約1ヶ月、毎日カカシの事を考え続けている。 どうしたらいいのかなんてわかっているけど、感情は頭で考えるほど単純には納得してくれない。 その日もあれこれと考えながら帰宅し、アパートの外階段を上る途中、自宅の前に見慣れぬ人影を見つけて足を止めた。 イルカの記憶が正しければ、今は里にいてはいけない人のような気がする。 「紅先生ですか…?」 こちらに顔を向けた人は、紅に間違いなかった。 「そうよ。忘れちゃったかしら」 「いえ、あの…、任務は…」 「私ね、赴任先で妊娠がわかって帰って来たの」 紅が妊娠。 カカシと一緒に任務に行ったくの一が妊娠。 急に咽喉の奥が詰まったように苦しくなって、涙が出そうなる。 それを言うために、家の前でイルカが帰って来るのを待っていたのだろうか。 「アスマの子よ。勘違いしないで」 「…え…」 イルカが裏返った声を零すと、紅がしめしめという顔をして笑った。 「これ、カカシから預かったの。返事をもらって来いって煩かったから、すぐに書いてあげて」 紅から一通の封筒を渡される。 「あと1時間ぐらいで私の欠員を補充する忍が来るから、その人に渡してね」 それだけ言うと、紅は余計な事は何も喋らずに姿を消した。 反射的に受け取ってしまった封筒を、呆然と見つめる。 カカシと会わなくなって1ヶ月。 別れ際のあの言葉を耳にしてからも1ヶ月。 内容は、読まなくても想像がついた。 紅のように幸せを宿している人がいる一方で、イルカのように悲しみを抱える人がいる。 皮肉な事ではあるけれど、それが世の中というものだ。 家に入り、カカシからの手紙は読まずに、返事を書くための便箋を用意した。 何の誤解も起きない簡潔な一言をしたため、妙な迷いが生まれる前にきっちりと封をする。 煩悩を振り払うつもりで居住いを正し、清らかな気持ちでその時を待った。 やがて、紅の言っていた忍がイルカの便箋を受け取りにやって来た。 知らないうちに緊張していたようで、その忍が行ってしまうと急に力が抜け、玄関で膝から崩れ落ちてしまった。 * * * * * あれから一週間経ったので、さすがにあの便箋もカカシの元に届いた事だろう。 遠い地で、カカシがほっと胸を撫で下ろしている姿が目に浮かぶ。 カカシからの手紙はまだ開けてもいないくせに、自身の書いた便箋は読まれていると思い込むなんて、都合が良すぎるだろうか。 もう考える必要はなくなったのに、どうしてもカカシの事が頭から離れない。 失恋の痛みは、そう簡単には癒えてくれない。 そんな事を考えて帰路を歩いていると、もう少しで自宅という所で突然何かに体を引っ張られ、ブロック塀の陰に連れ込まれた。 手甲を装備した手に口を塞がれる。 「手荒な真似をしてすみません。時間がないもので」 後ろから聞こえたのは、ここにいるはずのない人の声だった。 「里には内緒で戻っているので穏便にお願いします」 小刻みに頷くと、口を塞いでいた手が外された。 恐る恐る振り返り、声の主を確かめる。 思った通りの人が、イルカの目の前に姿を現した。 体勢を立て直し、相手と向き合う。 何だか、それだけで泣いてしまいそうだった。 「…別れましょうって、何なんですか?」 『別れましょう』とはイルカが便箋に書いた一言だ。 カカシに真っ直ぐに見つめられ、その視線の強さに耐えられなくて目を伏せる。 本格的に涙が零れそうになり、眉間に力を入れてやり過ごそうとする。 「他に好きな人ができた?オレのこと嫌いになった?」 カカシに肩を掴まれて前後に揺すられる。 「ねえ、何か言って下さいよ。会えないのがつらかっただけですよね?あんなの冗談ですよね?」 「…付き合わない方がよかった…って…」 カカシが息を吸い込んだ音が聞こえた。 何日も何日も時間を掛けて整理した頭の中が、カカシの顔を見ただけで、カカシの声を聞いただけで、またぐちゃぐちゃに戻ってしまった。 哀れっぽい涙が頬を伝い、それを服の袖で乱暴に拭う。 「俺と付き合わない方がよかったって、カカシさんが言ったから」 カカシが首を左右に振り、イルカの顔に手を伸ばしてきた。 手甲の柔らかい部分を目の周りに当てがわれる。 「オレがいつ、そんなことを言いましたか…」 「…出立のとき紅先生に言ってるのが聞こえたんです」 自分の言った事を覚えていないのか、カカシが途端に黙り込んだ。 それでも思い出そうとしているようで、目を閉じて険しい顔をしている。 「…あっ!」 驚いたような声を出して、カカシがぱちりと目を開いた。 「あれは…!」 堰を切ったように、早口でカカシが語り始めた。 カカシがまだイルカに片思いしていた頃は、任務から帰って来た時、イルカが誰かに取られていても諦める覚悟ができていた、という事。 でも付き合ってからは絶対にそんなふうに思えないから、任務に就く時の心構えとしては片思いの頃の方が良かったのかもしれない、という話を出立前に惚気半分で紅にしていた事。 信じられなかった。 そんな事ってあるだろうか。 色々悩んで苦しんだ事が、まったくの徒労だったなんて。 「すいません、もう行かないと」 月の方角と影の長さを見て、カカシが焦ったような声を出した。 もう行ってしまうのか。 イルカに背を向け、あっさりとブロック塀の向こう側へ行ってしまった、と寂しく思っていたら、一端戻って来て、ひょっこりと顔を出した。 「別れるっていうの、撤回してくれますよねっ?」 カカシから目を逸らし、俯いて唇を尖らせる。 「…キス、してくれたら…」 撤回します、と続けようとしたら、その前に上を向かされ、いつの間にか口布を下ろしたカカシの唇が重なってきた。 イルカは仲直りのためにと軽い気持ちで言ったのに、カカシは舌まで入れてこようとしてくる。 任務を抜け出してきたカカシとするには後ろめたくて、両手で必死にカカシの胸を押し返した。 「に、任務がっ、終わってからっ…」 イルカの台詞で、カカシの動きがぴたりと止まる。 いつもは涼しげなカカシの目に、熱く滾る闘志のようなものが浮かんでいた。 「約束ですから」 強い口調でそう言い放ち、今度こそ本当にカカシはいなくなってしまった。 でも、胸のもやもやしたものも、嘘みたいにきれいになくなっていた。 服のほこりを払い、何事もなかったかのように再び帰路につく。 家に帰ると、真っ先に、一週間前に受け取った手紙の封を切った。 その内容は、イルカが想像していた事とは一切関係ないもので埋め尽くされていた。 『誕生日おめでとう』 『プレゼントは何がいいですか』 『早く会いたいです』 他にも、人に言うには恥ずかしい事がたくさん詰まっていた。 手紙を胸に当て、カカシを抱き締めるつもりで、そっと包み込む。 自分の誕生日の事なんて、すっかり忘れていた。 久しぶりに味わう高揚感にいつまでも浸っていたくて、気が済むまでずっとそうしていた。 |