好きな人の好きな物は知っている。 一楽のラーメンだ。 でも本当に知りたいのは、好きな人の好きな人。 年齢を重ねるごとに、そういう青臭い話題とはめっきり縁遠くなってしまった。 仲間内で語り合う事もない。 だから、通路で擦れ違ったとか、挨拶をしたとか、そんな些細な材料から色々な事を推測しては、一人で一喜一憂している。 外の任務でしばらく顔を合わせなかったりしたら、もう頭の中はその人の事で一杯になる。 キスに持ち込む方法を真剣に考えたり、頭の中で服を脱がしてみたり、喘がせてみたり。 どんどん想像が膨らんでいって、歯止めが利かなくなる。 悲しい事に、思春期の多感な時期でもないのに、男の性は正直に反応してくれる。 後で惨めになる事がわかっていても、自身を慰めずにはいられなくなるのだ。 それほど思いを募らせている相手なので、誰かの会話にその人の名前が出てきただけでも耳が鋭く拾い上げる。 「もしかしてイルカ、お前まだ――が好きなのか?」 報告書を提出し終え、その帰り際、背を向けている窓口の方から話し声が聞こえた。 春特有の暖かな強風が、びゅうびゅう、ぴゅうぴゅうと吹いて唸りを上げているせいで、大事な部分が聞き取れなかった。 「うん、大好き」 「羨ましいねえ。オレは去年嫌いになったぜ」 受付を出て、窓口からは死角になる位置で立ち止まる。 イルカの同僚の口振りから、美人で気の強い女を連想した。 任務でもないのに気配を消して、会話の続きに聞き耳を立てる。 「この前なんてさぁ花粉症なのか、――がくしゃみしてて、すげぇ可愛いの」 イルカが嬉しそうに語っている所に、再びびゅうっと春風が吹いてカカシの邪魔をする。 また大事な部分を聞きそびれた。 「へえー。そりゃ可愛いかっただろうなあ」 ただの生理現象が可愛いだなんて、その人を嫌いになった同僚までもが認めた。 そんな悪女にもてあそばれるイルカの姿が目に浮かぶようだった。 悩んで、迷って、でもやっぱり、出て来たばかりの受付へと戻る道を選択した。 カカシが戻った所でどうにかなる訳じゃないけど、じっとしているなんてできなかった。 出て行った時と同様に、受付にいるのはイルカとその同僚の二人だけ。 イルカは突然舞い戻ってきたカカシを見て、さっと顔色を変えた。 穏やかな微笑みが消え、仕事用の固い表情になる。 こういう時にイルカとの隔たりを感じる。 少しでもそれを弱めようと、努めて優しく話し掛けた。 「すいません。さっき出した報告書、もう一度見せてもらってもいいですか?気になる所があって」 「は、はいっ。こちらです」 緊張感を纏ったイルカを見て、戻って来た事を後悔した。 渡された用紙を上から下まで素早く流し見して、すぐに返却する。 意味のない行為だという事に、イルカが気付く訳もない。 「ありがとうございます」 失敗だ。 イルカの仕事に難癖を付けに戻って来たと思われても仕方ない。 今度こそ本当に、カカシは受付を出て行った。 自己嫌悪、自己嫌悪、自己嫌悪。 歩きながら、その言葉がカカシの頭の中をぐるぐると回っていた。 余計な事をした上に、イルカが同僚と話していた内容はわからず仕舞い。 このまま帰ったら、きっと不安で眠れなくなる。 門を出た所で足を止め、手頃な木の上に飛び移った。 イルカの仕事が終わるのを待って、少しでもいいから話をさせてもらおう。 太い枝に腰掛け、愛読書を広げる。 1冊、2冊と読み進め、その途中で定時を知らせる鐘が鳴った。 この時期の教師は忙しいだろうから、数時間の残業は覚悟している。 待ち時間ぐらい何ともない。 話の持って行き方次第では、イルカの好きな人について聞けるかもしれないし。 さっきの事で悪い印象を持たれているとしたら、それを緩和できるかもしれないし。 3冊目の半分を過ぎた頃、見慣れた黒髪がようやく姿を現した。 本を閉じ、音もなく木から下りる。 一人で夜道を歩くイルカに、後ろから静かに呼び掛けた。 「イルカ先生」 街灯に照らされたイルカが振り返る。 夜のイルカは、昼間とはまた違った魅力を放っていて眩しいくらいだった。 「カカシ先生!お疲れ様です」 「お疲れ様です。…これから飲みに行きません?」 さらりと言ったつもりだが、心臓はばくばくと音を立てている。 まだ一度も食事に行った事がないのに、いきなり飲みに誘うのは不躾だっただろうか。 イルカは難しい顔をして何事か考えていたが、ぱっと顔を上げて口を開いた。 「すみません。明日も早いのでまた今度でもいいですか」 断られた。 いや、でも、これくらいは想定の範囲内だ。 だって、卒業式や入学式、新学期の準備など、この時期イルカが多忙なのはわかっていた。 とはいえ、それなりにショックは大きい。 「ははは…。そうですよね…」 悲愴感を断ち切ろうとして笑ってみたが、弱々しい声しか出てこない。 気を取り直して、再度、自身を奮い立たせる。 こんな時のために、誘い文句はもう一つ用意してあった。 「じゃあ、途中まで一緒に帰りませんか」 「ええ。喜んで」 今度はすぐに答えてくれた。 ごくりと息を飲んで咽喉を鳴らし、二人並んで歩き出す。 一緒に帰るのも、今日が初めてだった。 まだ心臓がうるさい。 「そういえば…、今日オレが報告書提出した後、受付の人と何か話してませんでした?」 若干わざとらしい所はあったが、イルカを見て思い出した、という演技をして尋ねた。 一瞬イルカは何の事かわからない様子だったが、すぐにカカシの質問を理解してくれた。 「ああ。あれは別にカカシ先生の事じゃないですよ」 苦笑するイルカを見て、複雑な気分になる。 イルカの好きな人がカカシではないという決定打。 それに加え、カカシがなぜ一度受付に戻ったのか、これでイルカにばれてしまっただろう。 気の小さい男だと思われていなければいいが。 「春は好きか、って話です。あいつ去年、花粉症デビューしたらしくて」 「へえ…」 真相を聞かされて拍子抜けした。 好きか嫌いって、季節の事だったのか。 「カカシ先生の忍犬は花粉症じゃないですか?」 カカシが花粉症かではなく、カカシの忍犬が花粉症かを聞かれて、がっくりと肩を落とす。 上忍が犬に負けたのだ。 「…うちのは小型が一匹と中型が一匹、よく鼻水垂らしてますよ…」 もう少しぐらいカカシに興味を持ってくれたっていいじゃないか。 「くしゃみはしないですか?俺この前、小型犬がくしゃみしてるの見たんですけど、あれすごく可愛いですね」 可愛いって、犬の事だったのか。 なんだか、疲労が一気に頂点に達したような気がした。 犬のくしゃみなんかより、それを嬉しそうに話すあなたの方がよっぽど可愛いですよ。 小さな溜め息には、そんな気持ちが込められていた。 |