カカシが火影になるかもしれない。 日を追うごとに、その可能性は現実味を帯びていく。 就任すれば生活は一変するだろう。 住む場所も、関わる人間も、仕事内容も、すべて。 火影は警備の整った官邸で暮らす事になる。 カカシと交際を始めてから間もなくして、二人で暮らすために借りたこの賃貸マンションも、引き払わなければならない。 もう何年も住んでいるし、愛着もあったけれど、イルカが一人で住むには広すぎる。 それに、カカシとの思い出が詰まった部屋にいつまでも一人でいるのはつらくて耐えられそうにない。 既に引っ越しの準備は始めている。 イルカの荷物なんて、微々たるものだ。 アカデミーの教材や衣類、アルバムなどの雑貨を全てまとめても、大きめの箱が2つほどで事足りた。 イルカが使っている部屋の入口の脇に、並べて置いていても邪魔にはならない。 元々ここへ引っ越して来る時も、あまり荷物は持って来なかった。 その分、買い足したものは多かったけれど、それは大家さんに相談して残していこうかと考えている。 思い出の詰まったものを処分する気にはなれないし、自分で持って行く事もできそうにない。 いつかは、こんな日がくるだろうと思っていた。 でも、いつまでもここでカカシと暮らせたらいいなとも思っていた。 綱手の意識不明が続いている今、里の復興を急ぐためには、一刻も早く新しい火影に就任してもらった方が良いに決まっている。 だから、今日や明日に突然、火影の世話をする一族がカカシの私物を取りに来たっておかしくはないのだ。 まだ任務に出ているカカシが、次に里に帰って来た時。 その時が、二人で過ごす最後の機会になるかもしれない。 五代目の補佐を努めていたシズネの役は、きっとヤマトが担うに事になる。 最近は任務でヤマトと組む事が多かったようだし、今回のカカシの任務にもヤマトが同行している。 ヤマトが暗部を抜けて表に出て来たのも、もしかしたらその布石だったのかもしれない。 個人的にはカカシと関われなくなっても、里内に常駐する火影と仕事をする機会はあるから、全く会えなくなる訳じゃない。 ただ、恋人関係が終わるだけ。 二人で過ごす時間がなくなるだけ。 数多くいるカカシの過去の情人の中に、新たにイルカの名前が加わるだけ。 それは、イルカにとってはとても悲しい事だけど、里のためを思えばとても小さな事だ。 ひとつ残念なのは、イルカが教職から外されてしまうかもしれないという事だ。 カカシの身辺が調べられれば、イルカとの関係も明るみに出る。 そうすれば、カカシと距離を取らせるために、長期の外務に出る事になるかもしれない。 そうやってイルカが里にいないうちに、カカシの方は四代目のように伴侶を得て、子を成し、幸せな家庭を築いていくのだろう。 四代目の短命な所さえ見習わないでくれれば、血縁の薄いカカシにそれほど幸せな事はないと思う。 カカシが幸せならそれでいい。 日が落ちて薄暗くなった部屋で、明かりも点けずに一人でいたせいか、涙が出そうになってきた。 本当は心から祝福するべき事なのに。 里のみんなが願っている事なのに。 そこで唐突に、ばたん、と大きな物音がした。 玄関の方からだ。 続いて、この部屋では聞いた事がないくらい慌ただしい足音が聞こえてくる。 どこかの扉を勢いよく開けたような音もしてきた。 カカシが帰って来たのかとも思ったけれど、カカシはこんなに物音を立てる人じゃない。 ならば本当に、六代目就任の下準備に来た者かもしれない。 慌ただしい足音が、こちらの部屋に近付いて来た。 カカシの私物はどれかと尋ねられたら、隣の部屋にあるものだと答えよう。 未練があるなんて疑われないように、できるだけ事務的な口調で。 ばたん、とやはり大きな音を立てて、イルカがいる部屋の扉が開いた。 入って来ようとしていた人と、ぴったりと目が合う。 その人は、扉の把手を握ったままの体勢で固まったように動きを止めた。 焦っているような、困っているような、でも今にも泣き出しそうな頼りない顔をして。 「…いるなら…明かりぐらい点けて下さいよ…」 擦れた声で呟いたカカシが、扉の脇に置いてある真新しい箱に気付き、ちらりと視線を移した。 それから部屋の奥に視線を投げ、イルカの机や本棚をゆっくりと見渡していく。 「今、部屋の片付けをしていて」 そんな必要はないのに、言い訳のような言葉が口から零れていた。 カカシが眺めた箇所を自分でも改めて確認してみれば、以前と比べて大分すっきりとしていた。 はじめから物は少なかったから、カカシが任務に出る前に、この部屋の状態を寸分違わず把握していなければ、大差はないかもしれないけれど。 「…ちょっと、いいですか」 そう言って、カカシがこちらへ歩み寄って来る。 そして、さっと両手を広げた。 何事かと思ったら、そのまま、骨が軋みそうなほど強く抱き締められた。 あまりの力に、イルカの背がしなる。 いきなり、どうしたというのだろう。 「…急に…いなくなったりしないよね?オレに黙ってここを出て行ったりしないよね?」 カカシが火影候補に選ばれた事に加えて、片付いた部屋に真新しいダンボール箱を見つけたから、そんなふうに思ったのだろうか。 だけど、カカシの懸念はまったくの見当違いだ。 だって、イルカからは絶対にいなくなったりしないから。 イルカがいなくなる時は、カカシが引導を渡してくれた時だ。 「俺はそんな事しません」 「良かった…。なんだか、あなたが離れてしまうような気がして…」 カカシの拘束が緩んだので、イルカからもカカシを抱き返し、子どもをあやすように背中をとんとんと叩いた。 たった今、腕の中にいるこの人が、まもなく里の頂点に立つ人だなんて、にわかには信じられない。 「…オレが六代目候補になったって、もう聞いてる?」 「はい…。里の中でも話題になっています」 じわじわとカカシの腕に力が戻ってくる。 今度は苦しくならないように、カカシの肩に顎を乗せ、身長差で少し上向きながらも、ぴったりと体をくっ付けた。 「どうしてもオレが就任しなきゃいけない事になったら、交換条件を出します」 火影に就任するための交換条件。 なぜか火影に選ばれる者というのは、火影の任に就きたがらない者が多い。 そこで、里の上層部と何か取引をしてから就任する、という事が過去にもあった。 五代目綱手の時は、放浪していた頃の借金を大名に肩代わりさせる事を条件にしたらしい。 「オレとイルカ先生が…事実上の婚姻関係にあると認めてくれって条件です」 カカシの言葉を聞いて、息を呑んだ。 「一応プロポーズの言葉なんですけど…。返事、くれませんか。そうじゃないと大名たちの前で恥をかく事になるんで…」 肩を掴まれ、僅かに体が離れた。 真剣な目をしたカカシが至近距離から見つめてくる。 ずるい。 プロポーズの言葉だなんて言っておきながら、こちらの顔も見ずに言ってきたくせに、返事をもらう時だけこちらの顔を見据えてくるなんて。 とても、これから火影になろうという男のする事だとは思えない。 でも、用済みと言われてもおかしくないイルカに、そんな選択肢を与えてくれたのだ。 答えなんて、もう一つしかない。 「よろしくお願いします…」 こんな引導だったら、喜んで受け取る。 イルカの方が照れるくらい、はにかんで嬉しそうに笑ったカカシの顔は、急激に引き寄せられた事で、ほんの少しの間しか見る事ができなかった。 |