三月の餅 先月の上旬から里外の任務に就き、ほぼ予定通りの約1ヶ月で里に帰って来た。 報告書なんて、別に明日でも構わない。 まずはイルカに会いたい。 そう思ってイルカの家に行くと、運良く部屋に明かりが点いていた。 時間的に、まだ仕事をしている可能性も考えていたが、今日は早く終わったのだろう。 夕食の支度でもしているのか、台所の換気扇が回っている。 カカシがいない間に、好物のラーメンばかりを食べていなければいいが。 そんな事を心配しながらドアをノックすると、すぐにイルカが顔を出した。 「おかえりなさい。お疲れ様でした」 イルカは笑顔で出迎えてくれた。 大体の帰還予定は伝えてあったから、カカシの突然の来訪にも驚いてはいないようだった。 「ただいま」 だが、カカシが返事をした途端に、イルカはすたすたと台所へと戻ってしまった。 1ヶ月ぶりの再会なのに、随分と素っ気ない。 初めてだった前回の遠征の時は、顔を真っ赤にしながらも、カカシの熱い抱擁と口付けを玄関先で受け止めてくれたのに。 あのあと、玄関でイルカを押し倒して行為に及んだのがいけなかったのだろうか。 もしそうだとしても諦めきれず、まだイルカを目で追いながら部屋に上がった。 その時にふと、台所に真新しい段ボール箱が置かれている事に気が付いた。 箱の側面には『木の葉食品』と書かれている。 それを見て、慌てて中身を確認しに行った。 咄嗟に、イルカがインスタントラーメンを箱買いしたのかと思ったのだ。 「…お徳用お餅パック…?」 その内容物に意表を突かれて、つい袋の文字を読み上げていた。 「今、お餅を主食にしてるんです」 淡々と告げたイルカに首を傾げる。 正月の前後ならわかるけれど、どうしてこの時期に餅なのだろう。 「急にお餅に嵌まったの?」 そういえば、イルカは以前から健康番組に影響を受けやすい傾向があった。 体に良いと言われれば、それを一時的に高頻度で摂取する。 「…まあ、そんな所です」 やっぱり、と思ったが、なぜかイルカの声は重たかった。 いつもなら、情報に踊らされる自分を笑いながらも色々な食材を楽しそうに試しているのに。 もしかして、やりたくてやっている訳ではないのだろうか。 「他のものが食べたかったら、申し訳ないんですけど外で済ませて下さい」 そんな冷たい言葉に、カカシは慌てて首を左右に振った。 せっかく任務終わりでイルカの家に来たのに、こんな事で追い出されては堪らない。 「オレもイルカ先生と一緒に食べたい。お餅、けっこう好きなんですよ」 開封済みの大袋から、個別包装された餅を3つ取り出した。 フライパンで餅を焼いていたイルカの横に立って、その小袋を一つずつ破っていく。 「今日の具材は大根おろしとツナマヨですよ」 ツナマヨ、と聞いて驚いたが、その大根おろしとの組み合わせにも驚いた。 だが、下手な事を言って、また冷たい言葉を返されるのが嫌だったので、今度は大人しく黙っている事にした。 翌朝、イルカが出勤する直前に目を覚ました。 なんとか玄関先までは見送って、ぼーとしながら報告書を作り始める。 今日は、午後から待機所に詰めていれば良いだけだ。 時間が合えば、イルカと一緒に昼食を摂れるかもしれない。 ただその前に、遠征用の大きな荷物を置きに、一旦自宅に戻らなければならない。 報告書を仕上げ、しばらくだらだらと過ごしてからイルカの家を出た。 そして、カカシが1ヶ月ぶりの自宅に帰り着くと、家の前が妙な事になっていた。 たくさんの紙袋がドアの把手に引っ掛けられている。 それから、掛かりきらなかったと思われる袋や箱が、ドアの前で小山を作っている。 カカシにはそれが、事故現場に供えられた供物のように見えた。 これは一体何なのだろう。 新手の嫌がらせだろうか。 不気味さを感じながらも、袋の一つを取って中身を確認した。 入っていたのは、イチャパラ大の箱と、二つ折りになったメモ用紙だった。 『ハッピーバレンタイン!本当はカカシさんに直接お渡ししたかったです!スミレより』 ぞわっ、と背筋に冷たいものが走って、どさっ、と紙袋を取り落とした。 スミレなんて人は知らない。 更に言えば、そんな人からバレンタインに物をもらう理由もない。 他の袋も見てみたが、どれも似たような物が入っていた。 何の思い入れもないので容赦なく足で品物をなぎ倒し、把手の紙袋も払い落としてドアを開けた。 すぐにゴミ袋を持って来て、家の前にあった物をひとつ残らず放り込む。 そのままゴミ置き場に直行して、改めて部屋に戻った。 そこでようやく荷物を下ろす。 何事もなかったかのように一息吐くと、1ヶ月ぶりに帰った部屋なのに、やけに空気が新鮮である事に気が付いた。 いつもなら床やテーブルに薄っすらと積もっているホコリも、今日は見当たらない。 不意に、イルカに合鍵を渡している事が頭をよぎった。 カカシが帰って来る前に、掃除をしてくれたのだろう。 という事は、あの惨状もイルカに見られたのか。 発汗を制御できるカカシの手のひらに、一瞬にして嫌な汗が滲んできた。 昨日イルカが素っ気なかったのも、このせいだったのか。 がしがしと頭を掻き毟り、カカシはすぐに自宅を飛び出した。 アカデミーでは既に昼休みが始まっていて、廊下は食堂へ向かう職員や生徒で溢れていた。 人を掻き分けて教員室へ行き、室内の様子を窺ったが、そこにイルカの姿はなかった。 食堂か、外で弁当を食べているか。 行き先に心当たりはないかと、ドア近くの席で並んで弁当を広げていた二人の女性職員に声を掛けた。 「すいません、イルカ先生は…」 すると二人はなぜか一度顔を見合わせて、ふっ、と笑い合った。 そのうちの片方がカカシに向き直り、表情に笑みを残したまま口を開いた。 「イルカ先生なら、やきもち中で給湯室にいますよ」 やきもち、という言葉に内心どきっとした。 彼女たちは、カカシとイルカの関係も、カカシの家の前の惨状も知らないはずだ。 でも、イルカは昨日もフライパンで餅を焼いていた。 煮るでもなく、炒めるでもなく、揚げるでもなく。 それを偶然という言葉で片付けてはいけないような気がした。 二人の職員に簡単に礼を言って、カカシは急いで給湯室へ向かった。 給湯室は教員室の二つ隣にある。 そこでイルカは、小さなガスコンロに網を置いて、静かに餅を焼いていた。 「…お昼もお餅なんですね」 当たり障りのない、でも無関係でもなさそうな言葉を選んでイルカに声を掛けた。 「あ、カカシさん」 「オレの部屋、掃除しに来てくれたでしょ?ありがとね」 その言葉に曖昧に笑ったイルカは、網を見るふりをしてカカシから目を逸らした。 ひょっとして、何も見なかった事にするつもりなのだろうか。 イルカがそれを望んでいるなら、その気持ちを優先してあげた方が良いに決まっている。 でも、カカシにはそんな事はできない。 イルカとは、面倒な揉め事は避けて通るような、上辺だけの付き合いをしている訳ではないのだ。 「玄関の前にあった細かいゴミも、全部捨ててくれて良かったのに」 カカシが言うと、イルカの横顔が僅かに曇った。 口元には笑みを貼り付けているけれど、網を見つめていた目が軽く伏せられた。 「すいません。気が利かなくて」 謝るべきなのはカカシの方なのに、何の非もないイルカに先を越されてしまった。 「そんなこと言わないで。ごめんね、嫌な思いさせて」 慌ててカカシからも謝ると、イルカがゆっくりとこちらを向いた。 少し困った顔をして笑っている。 「もういいんです。昨日カカシさんが俺のやきもちを一緒に食べてくれて、なんか色々とすっきりしたんです」 またすぐに網に視線を戻したイルカが、今度は慣れた手付きで膨れた餅に醤油を垂らした。 醤油の焼ける香ばしい匂いが、狭い給湯室中に充満する。 イルカがその餅を手際よく海苔で巻き、カカシに差し出してきた。 「でも、また俺のやきもち食べてくれますか?」 答える代わりに口布を下げ、イルカの箸から直接餅に齧り付いた。 できたばかりのイルカの焼き餅は火傷するほど熱かった。 |