水色の封筒 |
分かれ際に、いつも飲み込んでいた言葉がある。 『カカシさんが好きです。俺と付き合って下さい』 そんな簡単な事が、どうしても言えなかった。 1ヵ月が経ち、3ヶ月が経ち、半年も経つと、募った気持ちが更に言葉を重くさせ、咽喉から出かかる事もなくなってしまった。 それを告げた所で、どうせイルカの思い通りにならない事はわかっているから、余計に躊躇いが増すのだ。 でも、カカシの事を考え過ぎて頭がパンクしてしまいそうだったから。 だから、言えなかった気持ちを精一杯つめ込んで手紙をしたためた。 かといって面と向かって渡す勇気はなくて、教師としてはあるまじき卑怯な事をした。 「お疲れ様です。これ、明日の依頼書と資料です」 書類のあいだには、イルカの手紙が忍ばせてある。 カカシのために上忍待機所へ足を運んだと思われないように、待機所内の他の上忍への書類を配り終えて、最後にカカシの所へ来た。 「わざわざすいませんね」 「いえ、気にしないで下さい。明日、よろしくお願いします」 「はーい。どーもー」 のんびりしたカカシの返事を受けて、すぐに方向転換して出口へ向かう。 そこでヤマトと擦れ違い、簡単な挨拶をして待機所を後にした。 出てすぐの廊下で、背中をさっと壁に付け、ふうーっと深い溜め息を零す。 普段通りの表情を装えていただろうか。 そう思って、どきどきしながら所内の気配を窺った。 「先輩、それ明日のですか」 「うん。…ん?」 「あ! それラブレターじゃないですかっ?」 ヤマトの興奮したような声が聞こえてくる。 もう見つかってしまったのか。 「まさか」 「いや、絶対ラブレターですって! 封筒が安易なピンクじゃなくて水色使ってる所が大人の女性って感じがしますけどっ」 封筒だけなら誰に見られても大丈夫だ。 カカシの宛名を書いただけで、差出人の名前は書いていない。 「バカなこと言ってんじゃないよ」 「えっ、捨てちゃうんですか」 ひゅ、と息を呑んだ。 ずきん、と大きく疼いた胸を思わず手で押さえる。 急に咽喉がひりひりし始めて、目頭が熱くなってきた。 ぐっ、と眉間に力を入れると、やはり教師にはあるまじき事だとわかっていながらも、イルカは廊下を駆け出していた。 人けのない屋上の隅で、声を噛み殺しながら泣く事しか出来なかった。 あんな不審な郵便物、捨てられて当然だ。 後悔しても遅いけれど、せめて差出人の名前ぐらいは中身だけでなく封筒にも書いておけばよかった。 そうしたら、少なくても内容には目を通してもらえたかもしれない。 カカシに断られる事はわかっていても、最後の返事ぐらいは直接もらいたかった。 それすら許されない恋をしてしまったという事なのだろうか。 カカシに捨てられたのは、手紙だけど手紙じゃなかった。 イルカの気持ちそのものだ。 なかなか止まらない涙を何とか収めて、トイレで顔を洗ってから受付へ戻った。 訃報の多い受付で、窓口の者が目を腫らしていても、報告に来る忍たちが深入りしてくる事はない。 あとは同僚たちに繕えれば何とかなる。 「あ、お前それ必要なやつだろ」 「え、マジ? 捨てたまま帰るとこだった。危ねぇ」 報告を終えたばかりの若い下忍二人組が、入口脇のくず籠の前で話している声が聞こえてきた。 一方の下忍がくず籠に手を入れて、中のものを拾っている。 それを見て、はっとなった。 咄嗟に待機所に飛び込みたい衝動に駆られたが、報告待ちの列がそれを制した。 くずの収集は朝一番の清掃の時だけだから、急がなければ誰かに拾われてしまうかもしれない。 受付が落ち着いてから、ようやく待機所へ向かった。 待機所のくず籠は2つ。 一方は廊下側の角に、もう一方は対角の窓側だ。 人数は少ないがこの時間だとまだ上忍は残っているので、2つとも素早く中を覗いた。 だが、水色の封筒は見当たらなかった。 本当はくず籠の中身をぶちまけて漁りたいぐらいだったけれど、上忍の集まる待機所でそんな異常行動は起こせない。 仕方なく、誰もいなくなる夜間に出直す事にした。 永遠にも思えるような時間を残業で埋めて、夜9時を過ぎた所で再び待機所へ足を運ぶ。 今度は誰もいなかった。 消えていた明かりを点けて、くず籠を確かめていく。 今度こそ中に手を入れて探すが、どちらにも封筒は入っていなかった。 もしかして、窓から放り投げたのだろうか。 慌てて窓から顔を出して暗がりを見つめる。 そこで冷たい風に頬を撫でられて、ふと我に返った。 ものすごい勢いで虚しさと惨めさが込み上げてくる。 まるで冷や水を浴びせられたような気分だった。 もともと緩みがちだった涙腺から、どっと涙が溢れてくる。 屋上で泣いた時の比ではなかった。 大きな雫が次から次へと頬を伝い落ちていく。 でも、もう一度だけくず籠を確かめてみよう。 それで駄目なら、風に飛ばされてどこかへ行ってしまったのだと思って諦めるしかない。 そう心に決めて、止まる気配のない涙を拭う事もなくイルカが再び窓側のくず籠に手を入れようとした時だった。 「何してるんですか」 びく、と肩を竦ませて、出入口の方に顔を向ける。 そこにいたのは、今一番会いたくない人だった。 くず籠から、ぱっ、と手を離し、すぐにカカシに背を向けて、袖で顔を擦る。 「な、なんでもないです。まだお帰りになってなかったんですね」 酷い鼻声だ。 これでは泣いていた事を誤魔化せそうにない。 「…そりゃあ、イルカ先生の仕事が終わるのを待ってましたから」 「俺に何かご用でしたか」 「こういうの渡しといて、よくそんな冷たい言い方が出来るね」 急に間近から聞こえた声の方に顔を向けると、イルカが探していた水色の封筒をカカシがひらひらと扇ぐように振っていた。 思わず手を伸ばしそうになって、慌てて引っ込める。 こういうの、と言うぐらいだから、カカシは封筒の中身を見たのだろうか。 そうでなければ、差出人がイルカだったという事も知らないはずだ。 でも、まだ何の確証もなくて、半信半疑のままそれを尋ねた。 「…読まずに廃棄されたんじゃ…」 「そんな事するわけないでしょ。宛名の筆跡見ればイルカ先生からだってわかるのに」 ふう、という溜め息のような小さな吐息がカカシから聞こえた。 「オレはただ、手紙の内容を誰にも見られないように部屋の隅に行って読んでただけだよ」 カカシの言葉に目を瞬かせる。 その姿をカカシが捨てに行ったと勘違いしたヤマトの言葉を聞いて、イルカが早とちりをしてしまったのか。 「封筒見ただけで大人の女性だなんてバカなこと言って騒ぐヤマトが、イルカ先生からだって知ったら、もっと騒がれそうだったから」 とにかく、カカシは手紙を読んだのだ。 今更ながらにその事に気付いて、かぁーっと頬が熱くなる。 みっともなく泣き腫らした顔と赤くなった顔を隠すために、その場にしゃがみ込んで膝に顔を埋める。 「手紙、捨てられたと思って探しに来たの? 門の所で待ってたら、急に待機所が明るくなったから何事かと思って来てみたけど」 こくん、と無言で一度だけ首を縦に振った。 手紙が捨てられていなかっただけで。 自分の思いをカカシに伝えられただけで。 それだけで、もう充分だと思った。 これで不毛な恋心にもきちんと終止符が打てる。 頭ではそう思っているのに、一旦は引っ込んでくれた涙が再びぼろぼろと溢れて止まらなくなった。 「オレ、ラブレターなんてもらったの久しぶり。いい年してドキドキしちゃった。だから、これからもっとイルカ先生にドキドキさせてね」 その言葉にゆっくりと顔を上げる。 すると、カカシがとても慎重な手付きで、心臓から一番近い懐のポケットに、水色の封筒を収めた。 「大事にしますから」 すべてを包み込むような深みのある真摯な声だった。 何をですか、と聞きかけた口を噤む。 カカシはたぶん、物としての手紙の事だけを言ったんじゃない。 手紙に込めた思いごと。 手紙を書いたイルカごと。 声と仕草だけで伝わってきたカカシの気持ちに、胸が震える。 何も言えないまま、ぐちゃぐちゃになった顔で泣きながら笑った。 |