ヒカリシダ 改定されたばかりの植物図鑑が、アカデミーの図書室に入荷した。 夏風邪気味だった事もあって、仕事は早めに切り上げて、さっそく見に行った。 目次どおりに、毒用、薬用、食用の順に目を通していく。 その流れで世界の希少植物という章をぱらぱらとめくっていると、あるページでイルカの手が止まった。 見覚えのある植物の写真が大きく載っていたのだ。 その植物の名前はヒカリシダ。 イルカの住むアパートの裏庭に生息する植物と同じものだった。 もう10年以上前に株を分けてもらい、鉢に移したら大きくなったので裏庭に植え替えたら、そこで更に繁殖した。 今では特に世話をしなくても、勝手にすくすくと育って、夜になると発光している。 何年か前に元教え子たちとイルカの家でクリスマス会を開いた時など、女子たちはうっとりと見入っていた。 「イルカ先生」 突然、耳元で囁かれて、肩がびくっとなった。 「ここにいるって職員室で聞いたんで、来ました」 「か、カカシ先生…。わざわざ気配を消して近づく事はないじゃないですか…」 どきどきと高鳴る心音をカカシに聞かれないように、弱々しい声で必死に訴えた。 カカシが口布をしていなかったら、吐息がかかりそうな距離だったのだ。 この近さで、どぎまぎしないほうがおかしい。 カカシに対して特別な感情を抱いている事は隠さないといけない、と思っているから余計に。 「だって、驚いて赤面するイルカ先生って可愛いんだもん」 「からかわないで、下さい…」 「うん、ごめんね。お詫びにメシ奢るんで、これから一緒にどうですか?」 行きたい、と咄嗟に思った。 カカシに誘われたら、奢りかどうかなんて関係ない。 でも、今日は自制しないといけない。 里が誇る上忍に、万が一でも風邪をうつしたら大変だ。 「すいません。今日は体調が優れなくて…」 「もしかして風邪? かすれて色っぽい声になってるのも、そのせい?」 「い、色っぽくなんて…」 イルカがうろたえていると、図書室に新たな顔が入ってきた。 サクラと、公務員の事務服を着た人だ。 「イルカ先生ー、今ちょっといですかー?」 「どうした、サクラ」 「あれ? イルカ先生、風邪ひいてる? ちょっと上向きに口を開けてみてもらえます?」 急に診察が始まって、苦笑しながらも大人しくサクラの言葉に従った。 「あ。その顔エロい」 「なに言ってんのよ、カカシ先生。イルカ先生、あとで薬出しますね」 「ありがとう。それより、俺に用があったんじゃないのか?」 「うん。そうなの。前にイルカ先生の家の裏で見せてもらったヒカリシダの事で」 タイミングの良さに目を瞬かせる。 ちょうど図鑑でヒカリシダのページを開いていた所だ。 「イノたちとロマンティックなデートについて話してたら、それを綱手様が聞きつけてね」 サクラがそこまで言うと、隣に控えていた事務員が一歩前に出た。 「ヒカリシダが里の新しい観光資源にならないか、と綱手様がご提案されまして。つきましては、うみの先生のお宅に調査に入らせて頂けないかと」 唐突な話ではあったが、里に貢献できる機会があるのなら、それをイルカが拒む理由はなかった。 ここ何日か、自宅に人の出入りが増えた。 噂を聞きつけた一般の人たちが、見せてほしいと訪問してくるのだ。 大体が女性グループか男女のカップルで、すぐに帰る人もいれば長居する人もいる。 それが夜間に多いので、気が休まる時間がなかったせいか、サクラに処方してもらった薬を飲みきってしまったら、風邪がぶり返した。 同僚の中には、見物料を取れば小遣いが入るし客も減って一石二鳥だ、と冗談まじりにイルカを心配してくれる人もいたのに。 ある夜、とうとう仕事のあとに本格的に具合が悪くなって家で寝込んでいると、また来客があった。 今まではボランティアで簡単な解説をしていたのだけど、今日は裏庭に通じる縁側に案内するだけでベッドに戻らせてもらった。 「何の説明もないなんて、不親切じゃね?」 小さく不満を零す声が後ろから聞こえてきて、更に疲労が蓄積していく気がした。 そんなこちらの体調とは関係なく、今日は一向に来客が途切れなかった。 ほろ酔いの人が来て、お客さん同士で揉め始めて、慌てて仲裁に入る事もあった。 めまいも、倦怠感も、体の節々の痛みも、どんどん悪化していく。 そして、遅い時間に中高年のご婦人のグループが訪ねてきた。 「なんだ。意外と大した事ないのね」 案内してすぐに、グループの中の一人が呟いた。 声に悪意はないけれど、自分が非難されたようで気が滅入った。 しかも、そういう人たちに限って、延々とお喋りに興じていて、なかなか帰ってくれないのだ。 日付が変わるか変わらないかの時間に、ようやく彼女たちが引き上げた頃には、イルカはだいぶ消耗していた。 さすがにこれでゆっくりできるだろうと思って、ぐったりとベッドに横たわっていた矢先に、また来客があった。 ちょっと泣きそうになってきた。 残り僅かな気力を振り絞って玄関に行くと、少し険悪な男女の声が聞こえてきた。 わざわざイルカの家の前まで来て痴話喧嘩をする事はないじゃないか。 げんなりしながらも、ドアを開けた。 「あ、イルカ先生。夜分遅くにすいません」 カカシだった。 しかも、若くてきれいな女の子を連れている。 弱っている時に見ていられるものではなかった。 じわ、と緩みかけた涙腺を、唇を噛んでなんとか抑え込む。 カカシが用があるのは、イルカではなくヒカリシダだ。 「…どうぞ。ヒカリシダは向こうの窓から見られます。見終わったら自由にお帰り下さって結構ですから」 それだけ言って寝室に戻った。 ベッドに横になった途端、ぽろ、と涙がこめかみを伝った。 こういう時にこそヒカリシダに慰められたいのに、それが見える特等席は今、カカシと彼女が使っている。 きっと二人はヒカリシダの幻想的な光を見て、すぐに仲直りをしたはずだ。 頭から布団を被った。 カカシが彼女に愛を囁いている声なんて、一言だって聞きたくはなかった。 「…すみません、イルカ先生。あの女は帰らせたんで、そちらにお邪魔してもいいですか」 遠慮がちにかけてくる声に、布団から顔を出した。 彼女の事を、カカシは随分と他人行儀な呼び方をする。 「サクラに薬をもらってきたんです。イルカ先生、受付で具合が悪そうだったから」 意外な言葉に起き上がり、のろのろとベッドを降りた。 擦りガラスの引き戸を、おそるおそる開ける。 「ここが…イルカ先生の寝室ですか」 単なる感想なのに、カカシが妙に熱っぽい声で言うから、急に顔が火照った。 「…か、彼女さんだけ帰らせちゃっても良かったんですか…?」 「あの女は彼女なんかじゃないですよ。こんな時間にイルカ先生の家に入ろうとしてたから、夜這いかと思って追っ払ってただけです」 カカシが平然と答えた。 さっきの口論は痴話喧嘩ではなかったのか。 「ヒカリシダを分けてもらいに来たとか言ってたんで、どこかでヒカリシダの伝説を耳にしたんでしょうけど」 「ヒカリシダの伝説?」 「意中の人にヒカリシダを贈ると恋が成就する、っていう伝説です。あれは危険な場所まで自分で取りに行くから価値があるのに」 そんな伝説があったなんて、全然知らなかった。 「オレもね、あんな言い伝えに頼ってばかりなのは、もうやめにします。だって、こんなに株を増やして待っててくれたんだから」 「え…」 「忘れちゃった? イルカ先生にヒカリシダを渡した奴の事」 頭の中に、ものすごい勢いで過去の記憶が蘇ってきた。 下忍になる事を両親に報告しに行った、あの夜の出来事が。 「オレはどんな事をしてでも成就させてみせます」 その力強い言葉のせいか風邪のせいか、頭がぽーっとなって、足元がふらりとよろめいた。 |