あなたは先生 待機所でイルカを待つ時間は、まったく苦にならない。 これから一緒に過ごせると思うだけで、気持ちが浮き立つ。 イルカが酔った所を想像していると、つい、顔がにやけそうになる。 普段の教師然とした生真面目さが緩んで、なんとも言えない危うげな隙ができるのだ。 とことん付け入りたくなるような、誰もいない所に隠したくなるような、そんな隙が。 「す、すみませんっ、カカシ上忍っ、少しだけお時間よろしいでしょうかっ」 見た事のない若いくの一が、急に声をかけてきた。 締りのなかった顔を、一応は取り繕う。 口布や額宛てで覆われたカカシの顔から些細な表情の変化を読み取れる存在は少ないけれど、大人の礼儀として。 なに? と相手を促すと、彼女が意を決したように口を開いた。 「ずっと好きでしたっ、お友だちからでもいいのでっ、お付き合いしてくれませんかっ」 こういう輩は、時々カカシの前に現れる。 前回イルカと飲みに行く約束をした日にも現れ、なぜか突然イルカが帰ってしまった。 そういう事は今までに何度もある。 もしこの現場をイルカに見られたら、また突然帰ってしまうかもしれない。 2回続けてなんて、いくらなんでも勘弁してほしい。 そう思いながらも、なんとなく嫌な予感がして、待機所の入口に視線を移した。 どうしてこんな時に限って、嫌な予感は当たってしまうのだろう。 イルカは、ぼんやりとした顔でこちらを見つめていた。 だがすぐに、はっとしたように目に正気が戻った。 慌てて作ったみたいな笑みが浮かぶ。 イルカの笑顔は大好きだけど、そういう笑い方はあまり好きじゃない。 それを見た時は、かなりの頻度で望ましくない展開が待っているから。 『今日は帰りますね』 はっきりと、でも声には出さずに口を動かすだけで宣告された。 読唇を心得ているとはいえ、声も聞かせてくれずに一人で帰ってしまうのか。 前回が中止になった分、今回は何日も前から楽しみにしていたのに。 情けない事に、がっかりの溜め息が零れるのを止められなかった。 しかも、カカシの溜め息が合図にでもなってしまったかのように、イルカが会釈をして踵を返した。 少しだけ見えた横顔は、いつもと同じく凛々しかったけれど、どこか寂しげだった。 胸が、ちくっとした。 理由も言わずに帰ってしまったのはイルカのほうなのに、どうして自分が罪悪感を覚えているのだろう。 人間関係の機微は、複雑な忍術を習得するよりも遥かに難しい。 忍の世界で長年、精神を鍛えてきたのに、イルカの事になると簡単に感情が揺れてしまう。 「…振り回される、ってこういう事なのかね…」 自分のふがいなさに思わず呟くと、目の前の物体が僅かに身じろいだ。 「あのっ…、今の中忍ですかっ、受付のっ」 言葉の意味がわからなくて黙っていたら、彼女がいきなり走り出した。 初対面の相手の奇怪な行動を警戒して、様子を窺う。 すると彼女が、待機所を出てすぐの所で誰かを呼び止めた。 「すいませんっ! カカシ上忍に迷惑をかけるのはやめてもらえませんかっ!」 「え…? 迷惑、ですか…?」 小さく聞こえた戸惑いの声はイルカのものだった。 「今さっきカカシ上忍がおっしゃっていたんですっ…!」 は? いつ、誰が、何を言ったって? 「そう、ですか…。ご本人には今度お会いした時に直接謝っておきま…」 「あなたと会う事自体がカカシ上忍には迷惑かもしれないじゃないですかっ!」 聞き捨てならない話に、咄嗟に体が動いた。 勝手な事を言い触らす口を止めるために待機所を飛び出す。 どうしてイルカは、どこの馬の骨とも知れない人の言葉を鵜呑みにして、何も問いたださずに「謝っておく」なんて言うのだ。 イルカが何かしらカカシに迷惑をかけている心当たりがある、という事じゃないか。 自分がイルカを迷惑に思った事なんて、一度もないのに。 何か勘違いをしているのなら、一秒でも早く訂正したい。 出た廊下では、イルカと彼女が向かい合っていた。 そのあいだに、無理やり割り込む。 「ちょっと…! 迷惑だなんて言ってないでしょっ!」 「でも、この中忍に振り回されてるって、おっしゃったじゃないですか」 「なんでそれが迷惑って話になるの! 自分の未熟さを反省してただけでしょ!」 「反省…?」 イルカと彼女の声が重なった。 他人でしかないくの一が何を思おうとどうでもいいけれど、イルカが疑問に思う点はきちんと説明しておきたい。 イルカに向き直り、あなたに対してはいつでも誠実です、という気持ちが伝わるように、精一杯に背筋を伸ばす。 「もう長いこと上忍やってるのに、イルカ先生の事になるとすぐに動揺して駄目だな、って反省です」 自分の弱みを吐露すると、胸の中が少しすっきりした。 そのせいか、イルカに対して妙に強気になっていく自分を感じた。 「…でも、さすがに2回続けてドタキャンはひどくないですか」 「え…」 「この際だから言わせてもらいますけど、イルカ先生って時々そういう事するよね。なんでですか。オレと約束した日に急にお腹痛くなったりするんですか」 内心にわだかまっていたものが、次々と口から零れていく。 カカシの真剣な訴えを聞いても、イルカはただ、ぽかんとしていた。 「オレと2人で会う事って、そんなにストレスですか。イルカ先生の負担になってますか」 「そんな…、負担だなんて…」 「オレの事が嫌いなら、はっきり言ってください。オレ、人の気持ちを察するのとか、苦手なんです」 すべてを受け止めてくれるような深い色をしたイルカの瞳を、真っ直ぐに見つめる。 どうか、はぐらかさないで答えてほしい。 イルカの唇が動きかけた時、自分が柄にもなく緊張している事に気がついた。 「…嫌いじゃない、です」 「じゃあ、好きですか」 咄嗟に聞き返すと、イルカがはっきりと狼狽えたのがわかった。 それから一瞬、考え込むような顔をして、でもすぐに意気込むような強い目つきに変わった。 「すっ、好きですっ…!」 思いのほか大きな声が返ってきた。 イルカはひどく力んでいて、肩を上下させて息をしている。 まるで、思いの丈をすべて吐き出したあとのような消耗ぶりだった。 「よかった。オレもイルカ先生が好きなので」 ほっとしたのと嬉しかったのとで、ふにゃ、と頬が緩んだ。 イルカも同じだったのか、ほんのりと頬を染めて照れたような笑みを浮かべた。 こういう笑顔は本当に好きだ。 イルカを腕の中に囲い込んで、もっと至近距離から見ていたくなる。 「あのっ、カカシ上忍! わ、私の事は好きですかっ?」 すっかり存在を忘れていた人に、後ろから声をかけられた。 「あなたの事? 別になんとも思ってないですけど。好きでも嫌いでもない」 初めて会った見ず知らずの人なのだから、当然じゃないか。 ひく、と肩を震わせた彼女が、頼りない足取りで廊下の奥に消えていった。 その後ろ姿を、なぜかイルカは気の毒そうな目で見送っていた。 「すいません、イルカ先生。話を戻してもいいですか。今日もそうですけど、急用でも入ったんですか。だから突然帰るなんて言うんですか。オレと約束した日はよく急用が入るんですか」 過去を思い出しながら言っていたら、なんだか悲しくなってきた。 自分の力ではどうにもならない大きな流れのようなものに、イルカとの仲を遮られている気がして。 「…カカシさんに急用が入ったと思っていたんです」 「オレに、ですか…?」 「俺と約束をしていても、女の人から声をかけられた時は、てっきりそのかたと過ごすものだと思っていて…」 「どうして? オレはいつでもイルカ先生が最優先なのに」 本心を告げると、またイルカが素敵な笑顔を見せてくれた。 ああ、可愛い。 抱きしめたい。 イルカの顔中にキスをしたい。 「あの…、俺からも訊いていいですか」 「ん? なに…?」 「…カカシさんの言う好きっていうのは、その…、どういう意味の『好き』なんでしょうか…」 「えっ! 好きって色んな意味があるんですかっ?」 新たな情報に素朴な質問を返しただけなのに、イルカは言葉に詰まってしまったようだった。 しばらくして、それでもかなり躊躇った様子でイルカが口を開いた。 「…いえ、ひとつの意味しか…ない…はず、です…」 顔を真っ赤にしているイルカに、なんだか、たまらない気持ちになった。 ああ、もう。 たぶん、「愛しい」という言葉は、今イルカに対して込み上げているものを指すのだ。 |