かなわない人 |
僕の指導教官と、僕の先輩は、とても仲がいい。 毎日のように一緒に帰っている。 先輩が教員室に迎えに来る事もあれば、イルカ先生が待機所へ迎えに行く事もある。 それを知ったのは、4月のあいだだけアカデミーで教員実習を受ける事になったからだ。 イルカ先生が受け持つ新2年生の学級にお邪魔させてもらう事になった。 もともと好意と尊敬を抱いている人が指導教官になったので、心配は何もなかった。 始業式を終えて教室に戻ってきた生徒たちは、初めて対面する僕に少しざわついていた。 教卓に着くと、すかさずイルカ先生が「静かに!」とよく通る声を披露してくれた。 「みなさんに新しい先生を紹介します。短いあいだだけなので、気になる事はどんどん聞いて仲良くなってください」 アイコンタクトを受け、イルカ先生と場所を交代する。 「今月だけお世話になるヤマトといいます。好きなものは建築とくるみです。得技は木遁です。よろしくお願いします」 わぁー、と騒ぎ始めた生徒たちを、イルカ先生は再びの一喝で大人しくさせた。 さすがの手腕に、ただただ脱帽しながら、またイルカ先生と場所を交代する。 「これから新しい教科書を配ります。自分のものにはきちんと名前を書いてください」 イルカ先生が説明を始めたので、僕も教科書の包みを開け始めた。 「イルカせんせー。もし教科書に名前を書かなかったらどうなるの?」 「誰かに取られてボロボロにされても文句は言えないな。それに、一度失くしたらもう二度と戻ってこないかもしれないぞ」 「えー、やだー」 殺伐としたやり取りに慣れた耳には、とても新鮮で、とても微笑ましい会話で、思わず目を細める。 その時ふと気配を感じて、窓のほうを向いた。 イチョウの木に銀色のトカゲがいた。 目の色が左右で違っていて、しかも片側には傷がある。 たぶんカカシ先輩だ。 爬虫類に化けるなんて珍しい。 いつからいたのだろう。 何をしているのだろう。 そう思った途端、するすると木を下りて姿を消してしまった。 イルカ先生は配布用紙を数えていて、まったく気がついていないようだった。 「ヤマトせんせー、早く教科書見せてー!」 待ちきれなかった生徒に急かされ、慌てて教科書を掴んだ。 * * * * * 始業式から数日後、初めてイルカ先生と飲みに行く事になった。 一緒に教員室を出ようとしたら、イルカ先生だけが他の先生に呼びとめられた。 ひとりで廊下で待っていると、先輩がのんびりと歩いてきた。 「お疲れさまです。イルカ先生を迎えに来たんですか?」 「そうだよ」 「聞いてないですか? 今日は僕と飲みに行くって」 「聞いてるよ。だからオレも混ぜてもらおうかと思って」 「…そう、ですか」 がっくりと肩が落ちそうになった。 だって、先輩が来たいと言ったら、イルカ先生なら絶対に歓迎する。 本当は2人きりがいいけど、僕が嫌がったらイルカ先生に気を遣わせてしまう。 「残念だったね」 なぜか先輩が勝ち誇ったように言うから、悔しくて仕返ししたくなった。 「…先輩、始業式の日に教室を覗いてましたよね。何をしていたんですか」 「ああ…。まぁ、ちょっと、ね」 歯切れが悪い。 という事は、あまり聞かれたくない理由があるのだ。 「慌てて逃げてましたけど、イルカ先生に知られるとマズい事ですか」 「…いや、別に」 ますます先輩の口が重くなった。 これは使えそうだ。 「イルカ先生には黙っておいたほうがいい事ですか?」 「黙っててほしかったら今日は帰れ、とか言いたいのかもしれないけど、告げ口されても別に困らないから、したかったら勝手にすれば」 「…そんなこと言わないし、告げ口もしませんよ」 思いきり図星を指されて否定するしかなかった。 ここで肯定したら、とても性格の悪いヤツになってしまう。 先輩との会話はイルカ先生に筒抜けだと思ったほうがいいので、自分が不利になる言動はできるだけ避けたい。 こういうやり口も含めて、先輩のしたたかさにはいつまでも敵わない。 「…僕はただ、3人で飲む時に出しちゃいけない話題を確認しておきたかっただけです」 念のために言い訳をしておいたけれど、先輩からは「ふーん」という気のない返事があっただけだった。 「お待たせしてすいませ…、あ、カカシさん、お疲れさまです」 イルカ先生の声が急に弾んだ。 僕と一緒の時には聞いた事のない声に、つい口元が歪んでしまいそうになる。 「お疲れさまです。ヤマトと飲みに行くんですよね? オレも一緒していいですか?」 「俺はいいですけど…。ヤマトさんが…」 「ヤマトもいいみたいですよ。なぁ?」 わざとらしく尋ねてきた先輩に、内心で歯を食いしばる。 それでも、渋々、というのが顔に出ないように気をつけながら、にこやかに「もちろんです」と答えた。 向かったのは、2人がよく行くという居酒屋だった。 4人掛けのテーブル席に通される。 先輩はイルカ先生の隣に、僕はイルカ先生の正面に座った。 輝いた目で品書きを見つめるイルカ先生のあどけなさに、思わず頬が緩む。 「オレはいつもので」 先輩がいかにも得意げに、いつもイルカ先生と来ている事を強調するように言ったのを聞き流す。 僕が注文するものは最初から決まっていた。 品書きを見るまでもない。 「俺はビールと…、あと、ぼんじりとカワを塩で。ヤマトさんはどうしますか?」 「僕もイルカ先生と同じもので」 ちょうど店員が来たので、そそくさと注文をする。 「媚び売っちゃって」 先輩が目聡く呟いた。 同じ品物を頼む事でイルカ先生に少しでも親しみを感じてもらえたら、という下心は確かにあった。 でもやっぱり、言い訳せずにはいられない。 「初めての店だから、ご常連さんの真似をさせてもらっただけです」 「ここのカワは絶品ですよ」 先輩の嫌味を浄化してくれるイルカ先生の純粋な笑顔に、僕の表情筋は簡単にとろけそうになる。 脂っけの強いものは本当は苦手だけど、便乗させてもらってよかった。 「イルカ先生、あんまり飲みすぎないでくださいね。…夜は長いんですから」 にやにやと、いやらしい笑みを浮かべた先輩がイルカ先生の顔を覗き込み、わざわざ至近距離で見つめながら言った。 まだ飲んでもいないのに、イルカ先生の顔が、さっと赤くなる。 先輩の整った顔には、性別に関係なく相手を狼狽えさせる力があるのだ。 「イルカ先生、朝は強いのに夜は弱いですもんねぇ。オレとは真逆で」 「か、カカシさん…」 イルカ先生に下ネタを言うな、と先輩に向かって咄嗟に命令口調が出てしまいそうになった。 当のイルカ先生は下ネタには気づいていないようで、それよりも先輩の顔が近い事に戸惑っている様子だった。 「カカシ先輩、イルカ先生が困っているじゃないですか」 「あー、ごめんね、イルカ先生。怒りました…?」 やけに甘ったるい声で謝った先輩が、イルカ先生の肩を引き寄せて、さらに顔が近づく。 いくらなんでも、べたべた触りすぎだろ。 馴れ馴れしい。 セクハラじゃないか。 そもそも近すぎるんだよ。 罵詈雑言が溢れそうになった時、3つのジョッキが運ばれてきた。 煮えたぎる内心をひた隠して、丁寧に乾杯をする。 そうやって苛立ちで始まった酒席だったけれど、イルカ先生の酔っていく姿はかわいらしくて、いつまでも見ていたいくらいだった。 でも、お開きの時間は必ずやってくる。 お会計のあと、もう少しイルカ先生と一緒にいたくて送っていこうとしたら、最後まで目聡い先輩に先を越されてしまった。 翌日、教員室で会ったイルカ先生は、どことなく疲れた顔をしていた。 今日はこれから屋外演習が入っているから、ちょっと心配だ。 「イルカ先生、二日酔いですか? あまり顔色が」 「あ…。すみません、大丈夫です。昨日帰ってから夜ふかしをしてしまって、少し寝不足なだけですから」 生徒や授業の事でも考えていて遅くなったのだろうか。 いい先生だなぁ、と改めて思いながら屋外演習に入った。 演習が終わって更衣室へ行くと、僕より先に戻っていたイルカ先生が着替えを始めていた。 上半身が露わになっていて、どきっとする。 見てはいけないと思いながらも、爽やかさと妖しい色香を併せ持つ体から目が離せない。 「…屋外演習って、いつもあんなに大変なんですか」 さりげない質問で平静を装った。 心を鎮める努力をしながら、僕に当てがわれているロッカーへ向かおうと、イルカ先生の後ろを通りかかった時だった。 イルカ先生の背中いっぱいに黒いものが広がっていて、息を呑む。 「今日は泥地がなかったので、まだいいほう…」 背中を見て固まっている僕に、イルカ先生もすぐに気がついた。 自分の背中に何かが付いている事も悟ったようで、慌てて姿見の前へ行った。 「かっ…」 途端にイルカ先生から短い悲鳴のような声が上がった。 イルカ先生の背中には、黒墨ででかでかと「はたけカカシ」と書かれていたのだ。 『自分のものにはきちんと名前を…』 『誰かに取られてボロボロにされても文句は言えない…』 『一度失くしたらもう二度と戻ってこない…』 あの日、先輩が教室を覗いていた時のイルカ先生の台詞が次々と頭をよぎった。 イルカ先生は先輩のものだというのか。 僕には叶わない人だというのか。 そんな事はないだろう。 素早く上着を被ったイルカ先生は、顔だけでなく耳や首まで真っ赤にしていた。 それでもまだこの時は、酔った先輩がいたずらをしたのかもしれない、という希望があった。 先輩がお酒で酔う人じゃない事も、そんないたずらをする人じゃない事もわかっていたのに。 だってイルカ先生は、このあとしばらく先輩に冷たい態度を取っていた。 でもある日、暗部のロッカー室で着替えた時に先輩の背中に「うみのイルカ」と小さく書かれているのを見てしまった。 僕はこの時、生まれて初めて絶望を知った。 |