マグ |
受付で見かけていたイルカと知り合いになったのは、ナルトたちを引き受けてからだった。 人柄に惹かれて、あっという間に好きになった。 若い頃に味わった色恋のわずらわしさにうんざりしていたので、そんな気持ちになる事は二度とないと思っていたのに。 それでも当初はイルカと特別な関係になるつもりはまったくなかった。 なれる気もしなかった。 それが。 「お疲れさまです」 「お疲れさま」 2人でよく行く居酒屋で、そう声をかけ合って、もう何度目になるかわからない乾杯をした時だった。 冷えたジョッキを掴むイルカの手が、ふと、あたたかそうに見えた。 肌が少し日に焼けているからかもしれない。 触ってみたい、握ってみたい、と思ってしまった。 柔らかいのだろうか、骨張っているのだろうか。 しっとりしているのだろうか、さらりとしているのだろうか。 イルカと接しているジョッキの把手が羨ましい。 「カカシ先生? どうかしましたか?」 イルカが不思議そうに尋ねてきた。 黙って手元を見つめていたのがいけなかった。 テキトーな言い訳を考える。 「…いえ、イルカ先生のビールのほうが旨そうだなと思って」 「カカシ先生と同じですよ」 笑ってくれたイルカに胸を撫で下ろした。 でも、妙な焦燥感が停滞していて胸のざわめきが消えない。 止まっていた歯車が、動き出す予感がした。 翌週、またイルカと飲みに行く事になった。 迎えに行った教員室で、イルカ先生、と呼びかけようとした口が固まる。 何か特別な現場を目撃したわけじゃない。 ただ、イルカが古びたマグカップで何かを飲んでいただけだ。 それを見て、カップを羨ましい、と思ってしまった。 仕事中にイルカのそばにいられて、手を繋いでもらえて。 寒い時はあたためてあげられて、暑い時は冷ましてあげられる。 そして、のどを潤した時は、もれなく口づけのご褒美がもらえるのだ。 一瞬、途方に暮れそうになった。 でもすぐに腹をくくる。 たぶん、もう、気づく前には戻れない。 このまま進むしかないのだ。 どうせなら自分の分身としてのマグカップをイルカに使ってほしくて、さっそく次の休日に調達した。 急に物を渡されたら戸惑うかもしれないけれど、なんとか言い訳を付けて受け取ってもらおう。 手に入れたその日のうちに、放課後の教員室へ向かった。 まだ人が多く残っていたので、入口近くの職員にイルカを廊下へ呼んでもらう。 出てきたイルカはどことなく緊張した面持ちをしていた。 「お疲れさまです。お忙しい所すいません」 「いえ、大丈夫です。何かありましたか」 「あの…。これ、よかったら…」 ささやかな包装の施された箱を、隠していた後ろ手から差し出す。 イルカは黙り込んで微動だにしない。 受け取ってもらえませんか、と改めて言おうとした時だった。 「いただいていいんですか…?」 「はい、ぜひ、もらってください」 「嬉しいです…。カカシ先生が知っているとは思いませんでした…。ナルトに聞いたんですか?」 「え…? 何を…」 「え…? 今日が俺の誕生日だって…」 固まった。 まったく知らなかった。 嫉妬を抑えられなくて用意した物が、誕生日プレゼントになるなんて。 365分の1の確率なんて、簡単に当たるものじゃないだろう。 箱を持つ手が震え出しそうだ。 「こんな偶然もあるんですね」 言いながらイルカが箱に手を伸ばしてきたのを見逃さなかった。 取りやすい高さに、さっと持ち上げる。 イルカは、そうっと受け取ってくれた。 日常的に使ってくれるだろうか。 できれば職場で。 きっとイルカは自宅より職場でのほうがカップと過ごす時間が長いだろうから。 いや、贅沢は言わない。 毎日のように使ってもらえれば場所はどこでもいい。 「あけてもいいですか?」 もちろんです、と答えると、イルカが丁寧に包装紙を剥がした。 「マグカップだ…。ありがとうございます。今職場で使っているものがだいぶくたびれてきたので、そろそろ新しくしようかなと思っていたんです」 イルカが求めていたものを用意できたのか。 この一致はもう、奇跡ではなく運命としか思えない。 目の前に1本の道が開けている気がした。 今それを辿らなかったら、男じゃない。 わかっているけれど展開が急すぎて、渇いた咽喉がごくりと鳴った。 イルカは箱からカップを出して、嬉しそうに上下左右から眺め回している。 「…い、イルカ先生…」 こんなに切羽詰まった気分になるのは、ずいぶんと久しぶりだった。 こめかみにも汗が浮いている。 もしかしたら目も血走っているかもしれない。 「…好きなんです。オレと付き合ってくれませんか」 あなたのマグカップになりたいくらい好きなんです、という言葉はかろうじて飲み込んだ。 カップを持つ右手と、箱を持つ左手ごとイルカの手をぎゅっと握り込む。 初めて触れる手は、あたたかくて、少し骨張っていて、さらりとしていた。 このカップはこれから長い時間イルカと一緒にいられるのだ。 その幸せを、贈り主にも分けてくれないだろうか。 恋愛をわずらわしいと思っていた自分が、柄にもなく緊張して告白なんかしたのだ。 なんの捻りもなく、真正面から交際を申し込んだのだ。 だから、どうか。 「…お、俺でいいんですか…」 「イルカ先生がいいんです」 じっと見つめて視線で気持ちを伝え続けていると、イルカが泣きそうな弱々しい声で「お手柔らかに…お願いします…」と呟いた。 心の中で静かにこぶしを突き上げる。 カカシの人生で、きっとイルカが最後の恋人になる。 きっと、永遠の伴侶になる。 それは、予感というよりも確信に近かった。 |