つめ切り |
カカシは探し物の名人だ。 よく物を失くすイルカをたしなめながらも、いつも笑って手伝ってくれる。 なんといっても、消えるもの第一位は爪切りだ。 今日も使いたい時に、ない。 週明けの明日は、植物学の授業で土に触れるので、爪は短いほうがいいのに。 「カカシさん、爪切りを見かけませんでしたか」 昼食後の居間で本を読んでいたカカシに尋ねた。 「見かけましたよ」 そう言ったきり、カカシは黙って本に向かっている。 先日発売された最新刊に夢中のようだ。 「どこで?」 「台所」 「台所?」 そんな場所に置いた覚えは、まったくなかった。 でも、カカシの言葉を信じて台所へ向かう。 調理台、流し、引き出し、食器棚を隅々まで確認した。 一応、冷蔵庫も覗いたが、目的のものはなかった。 「台所の、どこですか?」 「黒コショウ瓶とナツメグ瓶のあいだです」 カカシは最新刊から一切視線を外さずに答えた。 どうしてそこまで具体的な位置がわかるのだろう。 まるで、ずっとそこにありました、と言わんばかりだ。 これもエリート上忍の特殊能力なのだろうか。 改めて調味料棚を確認すると、言われた通りの場所で爪切りを発見した。 なぜこんな所にあるのだ。 「2週間前のハンバーグの日からありましたよ。肉をこねる前に使って、そのままだったんじゃないの」 イルカの内心を読んだかのように、カカシが説明してくれた。 思いきり心当たりがある。 洋食は時々しか作らないから、調味料も時々しか使わないのだ。 こんな妙な所にあったら、見つかるわけがない。 それを2週間も前から知っていたのなら、ひと声かけてくれればいいのに。 「使ったあとに元の場所に戻さないから、探す事になるんですよ」 ようやくこちらを向いたカカシが、大きな溜め息をついた。 本を閉じ、呆れたように頬杖をついている。 「いつ気づくか楽しみにしていたのに、全然気づかないんだもん。オレがいなかったらどうするの」 カカシがいなかったら。 急に背筋が、ひやっ、とした。 「ヤマトほど機械みたいに整理する必要はないけど、もうちょっとさぁ…」 ヤマトが何事もきっちりとしているのは有名な話だ。 本当はカカシも、そういう人と一緒にいたいのだろうか。 ずき、と胸に何かが刺さった。 カカシのいない生活を考えた事がなかった。 仕事でカカシと関わる時間だって、ヤマトのほうが圧倒的に長い。 ずきん、と、あの何かが胸にめり込んできた。 「でも、ま、次が最後ですから」 「さ、最後って…」 「もう諦めます」 言葉の鋭利な部分が、できたばかりの傷をえぐった。 痛くて、どうしたらいいかわからなくて、気を抜くと涙が出そうだった。 カカシは嘲るような皮肉っぽい笑みを浮かべている。 諦めるって何を、という核心を尋ねる勇気は、いつまで経っても湧いてこなかった。 * * * * * あれは、だらしないイルカへの最終警告だ。 もう、次はない。 ハサミも、印鑑も、もちろん爪切りも、失くしやすいものはきちんと管理するようになった。 使ったあとは、元の場所に戻している。 ちゃんと身に沁みてわかっているはずだった。 わかっている、はずだったのに。 風呂から上がって爪を切ろうとしたら、失くなっていた。 前回使った時は、たしかにテレビ台の引き出しにしまったのに。 どこにいってしまったのだろう。 イルカと交代で入浴したカカシが出てくる前に、見つけないといけない。 残された時間はとても少ない。 まずはテレビ台の周りを慎重に探した。 引き出しをひとつずつ開けていく。 テレビの裏も覗き込んだ。 でも、ない。 「探し物ですか」 びく、と肩が跳ねた。 振り向くと、カカシがタオルで髪を拭いていた。 イルカが何かを失くすと、こうしてカカシはすぐに気がついて、探索に協力してくれる。 愛読書の最新刊が出た、あの日だけが例外だったのだ。 「いえ…、そういうわけじゃ…」 「はさみ? 消しゴム? 赤ペン? あ、認め印ですか?」 どれも、過去に何度となくカカシに見つけてもらってきたものだった。 助けてくれるままに、何も考えずに甘えていた。 そんなだから、ヤマトと比べられて、別れをほのめかされるのだ。 「なんでもないんです」 「無理しないで。オレが探したほうが早いんだし」 「本当に、大丈夫ですから」 水を取りに行くフリをして、台所へ逃げた。 ダメ元で、調味料棚を凝視する。 ここにもない。 怪しまれないようにコップに水を入れて、居間へ戻った。 座布団に正座をして、膝の上で両こぶしを握る。 こうしていれば、伸びかけている手足の爪をカカシに見られる事はない。 姑息な、その場しのぎだ。 でも、どうしてもやらずにはいられなかった。 だって、カカシを失いたくない。 優しくて繊細なこの人を、ずっとそばで支えていたいのだ。 「ああ、爪切りですか」 無情にも、後部頭上から断定的な声がした。 たぶんもう、どんな言い訳をしても無駄だ。 カカシに隠し事はできない。 体が硬直したみたいに動かなかった。 カカシがどんな顔をしているのか、わからない。 笑っているのか、怒っているのか、困っているのか、無表情か。 はぁ、と残念がるような溜め息が聞こえた。 「次が最後だって、言いましたよね…」 カカシがもう一度、溜め息をついた。 足音がゆっくりと遠ざかっていく。 そのまま、出ていってしまった。 急に部屋が、しーんとなる。 空気がひんやりとしていた。 電気が点いているのに、明るさを感じない。 こんなにあっさり終わってしまうなんて、今まで2人で積み重ねてきた年月はなんだったのだろう。 それがどうでもよくなるくらい、イルカのだらしなさが許せなかったのか。 咽喉がひりひりする。 正座で痺れているわけでもないのに、手足の感覚がない。 カカシはもう、二度とこの家には来ないのだろうか。 私物だって、あちこちに残っているのに。 愛読書も、未開封の歯ブラシも、服も、目覚まし時計も。 別れたのだから、送るにしても処分するにしても、まとめておいたほうがいいのだろう。 現実に向き合うのがつらすぎて、些末な事を考えて逃避しようとしている自覚はあった。 なかった事にしたいのだ。 でも無理だという事もわかっている。 カカシのいない人生なんて嫌だ。 でもカカシはイルカのいない人生のほうがいいのだ。 イルカの事が嫌になったのだ。 風呂と食事と寝床くらいしか提供できるものがないくせに、調子に乗るな、もう限界だ、と思ったのだろう。 カカシほどの人なら、イルカより条件のいい相手がいくらでもいる。 それは付き合い始めた時から思っていた事だった。 つまり、復縁の可能性はない。 ぽろ、と涙が零れた。 次々と溢れてきて、こぶしや太ももの上に、ぽたぽた、ぽたぽた、と落ちてくる。 「まだ乾かしてないの?」 突然のカカシの声に、心臓が、どくん、と大きく脈打った。 慌てて顔をこする。 これ以上嫌われたくないと思ったら、嘘みたいに体が動いて、さっと立ち上がった。 唇を噛んで、硬く引き結ぶ。 台所から大きめの紙袋を取ってきて、足早に寝室へと向かった。 箪笥を開け、紙袋にカカシの私物を詰めていく。 止まらない涙を拭うより、荷造りが先だ。 最後くらいカカシの手をわずらわせたくない。 「先に髪乾かしませんか。風邪ひきま…、えっ、ちょ、なっ…、なんで泣いてっ、なんでオレの服っ…」 寝室に入ってきたカカシに手首を掴まれて、遮られた。 イルカが首からかけていたタオルで、涙を拭われる。 こんな時まで優しい。 「帰ってきたら、まだイルカ先生が同じ姿勢でいるから、変だなとは思ったけど、どうしたんですか…」 「だって…俺と別れるから私物を取りに来たんでしょう…」 カカシの持っていた袋が、どさ、と床に落ちた。 随分と重たい音だった。 「は…? えっ…? えっ、ちょっ、待っ、やだっ、別れないしっ…! なんでっ、オレ何か言いましたかっ、イルカ先生にそう思わせるような事っ…」 「…この前…次が最後って…諦めるって…。次に失くし物をしたら最後って、俺の事は諦めるって…」 「ちがっ、違いますっ…! あれは誕生日プレゼントの事でっ…!」 誕生日プレゼント? まったく予想していなかった単語に、ぴた、と涙が止まった。 取り落とした袋を拾ったカカシが、中から百科事典を重ねたような大きさの箱を出した。 包装されていて、控えめなリボンがついている。 両手で受け取ると、ずっしりと重みがあった。 丁寧に包みを解いて、箱を開ける。 そこには、大量の爪切りが入っていた。 「こんなのもらっても嬉しくないだろうから、他の物にしようかと悩んでいたんです。でも、もしまた失くなったら、諦めてこれにしようって」 次が最後、諦める、というのは、そういう意味だったのか。 数えると、36個もあった。 これだけあったら、いつでも使いたい時に爪が切れる。 「ひと月に3回として、1年分。使うたびに失くしても困らないように。ご両親には、甘やかすな、って怒られそうだけど」 「嬉しいです。ありがとうございます」 「よかった…。急に別れるとか言い出すから、すごい焦った…」 ふわりと抱きしめられた。 イルカの欠陥ごと、すべてをありのままに包み込まれている気がした。 なんて優しい人なのだろう。 「一生懸命に探し物をしているイルカ先生はかわいいし、オレを頼ってくれるイルカ先生もかわいいし。最近出番がなくて寂しかったんですよ」 なぐさめるような、なだめるような穏やかな手つきで頭を撫でられた。 促されてベッドに並んで座ると、髪の余計な水分をタオルで丹念に拭われる。 「惚れた欲目っていうか、イルカ先生の事だとなんでも許せちゃう自分が、バカだなって思う時もあるけど、幸せだからいいやってなるんですよね」 カカシが自嘲気味に笑った。 この前ヤマトの名前が出た時と同じ笑い方だった。 あの時も、今カカシが言ったのと同じような気持ちだったのだろうか。 「ちょっと早いけど、お誕生日おめでとう。生まれてきてくれてありがとう」 耳元で囁かれた。 心も体も、とてもくすぐったい。 「あったかいお風呂、あったかいごはん、あったかいベッド、それ以外でも全部から、日々イルカ先生の愛を感じています」 「そんな…、俺のほうこそ…いつもカカシさんのご厚意に甘えてばかりで…」 「もっと甘えてくれていいんですよ。その代わり、オレがいない時に他の奴を頼らないで」 ほんのりと、仮想の誰かへの嫉妬の気配を感じた。 カカシがいなかったらどうする、という言葉にはそういう意味が含まれていたのだろうか。 いる時は甘えてよくて、いない時はしっかりしなくてはいけない。 難しい注文に、思わず笑みが零れた。 笑い返してくれたカカシに、そっとベッドに倒される。 途端にカカシから、「あ」という短い声が上がった。 枕元を見ている。 カカシの視線を追うと、ベッドの脇机の上に、爪切りがあった。 「ごめん。オレが置きっぱなしにしてたんだ」 「珍しいですね」 「おとといのエッチの前だ。イルカ先生が風呂に入ってるあいだに使って、出てきたらすぐに始まって夢中になっちゃったから、忘れてた」 今までも、そうやって密かにイルカの体を気遣ってくれていたのだろうか。 なめらかに切り揃えられたカカシの指で、甘く体を開かれていく感触が、急に生々しく蘇ってきた。 恥ずかしくて、いたたまれなくて、ぎゅ、とカカシに抱きついて顔を隠した。 |