黄昏れの校長室 |
最近とみに、浮名がすごい。 もちろんイルカの事ではない。 六代目火影を務め、勇退したカカシの事だ。 渋さに磨きがかかっているそうで、年上好きの若い女性にはたまらないらしい。 街中でも校内でも噂が耳に入ってくる。 もう、その程度で胸を痛めるほど繊細ではないと思っていたのだけど。 いい年をして、本当に情けない。 「ちょろすぎて申し訳ないくらいなんですよ」 校長室のソファーで、ゆったりと脚を組んだカカシが、やれやれ、という様子で呟いた。 はぁ、と、あぁ、の中間くらいの相槌を打つ。 表舞台を降りてから、カカシが時々こうしてふいに訪ねてくるようになった。 イルカが一方的にカカシを飲みに誘っていた頃が嘘のようだ。 まだカカシが七班の上忍師をしていて、自分も若かった。 カカシに会いたくて、少しでも一緒に過ごしたくて、とにかく必死だった。 それでも、里が大変な事になったり、大戦があったりしているうちに、自然と落ち着いていった。 今では、カカシと関わる時に、ちり、と古傷が疼く程度になっている。 「黙ってても寄ってくるんだもん。こっちの体がもたないですよ」 そうですね、と当たり障りのない言葉を返す。 あんなに会いたい人だったのに。 あんなに一緒にいたい人だったのに。 今は、1秒でも早く帰ってほしい。 こういう話を聞いていると、古傷が簡単に生傷に変わってしまう。 特に関心はない、という姿勢を貫くだけで精一杯なのだ。 カカシに対するあの感情は、ただの憧れであって恋や愛ではない、という結論を出していたのに。 「宿代を払うんだったら、温泉とかがいいんですけど」 まったくですね、と応じながら、手元の書類をめくった。 カカシの夜の生活が、まだまだ現役なのは充分にわかっている。 気にならないわけでもない。 週に何回なのか、何人と関係を持っているのか、とか。 でも、とにかく聞きたくないのだ。 これ以上、心を掻き乱さないでほしい。 「…それだけですか」 急にカカシの声色が淡々としたものに変わった。 イルカ相手に話していても、盛り上がらなくて面白くないからだろう。 たぶんカカシは、どんなに素敵な子だったのか、何歳下だったのか、そういう事を語りたいのだ。 一般的に、多くの男性が興味を持ちそうな話題だから、イルカもそうだと見込んだのだろう。 それがわかっているくせに、敬うべき元火影を相手に、ろくな合いの手を入れない自分が悪い。 「すみません。カカシ様の…」 「様はやめて、って」 「すみません…」 謝りながら、気分が沈んでいくのを感じた。 仕事だから、やりたくない事を引き受けなければならない場合もある。 イルカにとっては、カカシの女性関係の話を聞いている今が、まさにそれだ。 でも、それはカカシも同じなのだ。 カカシは別に、好きでこの場所に来ているわけではない。 先代火影として、最低限の顔繋ぎと、情報収集のために、アカデミーの校長に、会いに来ているだけなのだ。 どんなに嫌でも関係を維持しなければ、という考えがあるのだろう。 カカシの雑談を熱心に聞くタイプの校長と、早く交代してほしいと思っているかもしれない。 交代、退職、となれば、いよいよカカシとの繋がりはなくなる。 そうなれば、今度こそ諦めがつくだろうか。 「ああ、もう…。違うんです」 そう言ってカカシが気まずそうに、ぼりぼりと頭を掻いた。 組んでいた脚を解き、膝に肘をついて、今度は考え込むように手の指を組んでいる。 「昔はけっこう、イルカ先生から飲みに誘ってくれましたよね」 「あー…。その節はご迷惑をおかけしました」 カカシの頭が、がくん、とうな垂れるように下がった。 「…なんとも思わないですか」 「何が、でしょうか」 「オレが女の子の話をしても」 「…相変わらずおモテになるんだな、と思っていました」 もう一段、がくん、とカカシの頭が落ちた。 テーブルに額がぶつかりそうになっている。 「…オレがここに来る理由、わかってますか」 「それは…理解しているつもりです」 「言ってみてください」 口ごもった。 失礼に当たらない言い方は難しい。 考えているあいだにも、カカシが「理由です」「言ってください」と急かしてくる。 「先代火影として…」 「違います」 その先は聞かなくてもわかる、と言わんばかりに遮られた。 だったら他にどんな理由があるというのだ。 「オレ、待つのは得意だったんです。あとはちょっと揺さぶるだけで成功してきました。でも、隠居してから時間の感覚が変わってきて、今、非常に焦っています」 なんの話をしているのか、カカシが何を言いたいのか、段々とわからなくなってきた。 現役の頃よりも、今のほうが時間的には余裕があるんじゃないのか。 それでも焦りがあるのなら、こんな所で長居をするのは時間の無駄だろう。 「いくら待ってても来てくれないから、自分から行ったら邪魔をする事しかできないし」 うな垂れた低い位置から、カカシが顔だけをこちらへ向けた。 瞳が不安げに揺れている。 もしかしてカカシは、イルカの事を言っているのだろうか。 邪魔をしている、という気持ちがあったのだろうか。 「今オレには時間がいっぱいあるけど、イルカ先生は忙しい。今はここに来れば仕事の合間に会えるけど、じゃあイルカ先生が引退したら? どこで会えるの? いつ会えるの?」 ぶる、とカカシが震えたように見えた。 今度は頭を抱えて俯いてしまう。 じわじわと顔が熱くなってきた。 気のせいか、もっと会いたいんだ、とカカシから熱烈に告げられているように聞こえた。 そんなわけがない。 さっきまで、カカシがどれだけ若い女性に人気があるか、を誇らしげに話していたじゃないか。 すぅー、と顔の熱が引いていく。 アカデミーの校長を経験した者に、元火影として何か頼みごとがある時には、ただちに会いたい、という意味なのだ。 すべてを聞く前に否定していたけれど、他に理由なんてあるわけがない。 「引退なんて50年後かもしれないけど、明日かもしれないでしょ…。手遅れになる前に、絶対に切れない接点を結び直しておきたいんです」 「式を飛ばしてくだされば、こちらから六代目の所へ伺いま…」 「それじゃあ仕事でしょうっ!」 カカシが突然、声を荒らげた。 驚いて、目を見開いたまま固まる。 これまでの細くて長い付き合いの中で、カカシが感情的になったのは初めてだった。 「すいません…。オレをひとりの男として見てくれませんか…。上忍も、火影も、仕事も、関係なく…。前みたいに、カカシさんって呼んでくれませんか…」 打って変わって、消え入りそうな弱々しい声だった。 呼び方は、意識して変えていた。 周りに示しがつかないし、もう雲の上の存在なのだと自分に言い聞かせるために。 「イルカ先生が好きなんです…。好きで好きでたまらないんです…。イルカ先生もオレを恋愛対象として見てくれているんだと思っていたけど、違いましたか…」 違わない。 ばれていたのか。 カカシとの関係を深めたくて、もがいていた頃の事が。 恥ずかしい。 でも、それはもう、過去の話だ。 カカシは今、現在の話をしている。 そんな事、信じられるわけがない。 笑えない冗談はやめてほしい。 深刻そうにまでしてイルカをからかって、タチが悪い。 「…男として見る見ないも、呼び方も、好意の種類も、今更どうでもいい事じゃないですか」 冷ややかに言うと、まるでカカシが傷ついたみたいに眉間を寄せた。 泣きたいのは、泣きそうなのは、こっちのほうなのに。 「少なくても俺は、本当に好きな人の前で、他の誰かと関係を持った話なんてしません」 いさめるなんておこがましいけれど、抑えられなかった。 元火影だからといって、何をしても許されるわけではない。 「嫉妬してくれると思ったから…! 嫉妬してほしかったからっ…! 好きな人に構ってもらう方法を他に知らないんですっ! 待ってれば勝手に寄ってきたからっ…」 えっ…、と零れそうになった戸惑いを飲み込んだ。 嘘に決まっている。 この恋愛経験豊富な色男が、そんな子どもじみた手段しか身につけていないなんて、あり得ない。 「精力を持て余すような歳でもないし、もう何年も、女の子は遊びで釣って、何もしないで宿代を置いて帰るだけです」 「そんなわけ…」 「残りの人生、限られた時間、自分で選んだ大切な人と、一緒に過ごしたいんです」 カカシの言葉が、即効性の猛毒のように急激に体に染み込んできた。 嘘じゃない。 冗談でもない。 からかってもいなかった。 全部、カカシの本心だったのだ。 ずっと好きだった人に、好きだ、と、大切な人だ、と言われているのだ。 残りの人生を一緒に過ごしたい、とも。 事の重大さに、肌がぞわぞわと粟立ってくる。 心臓が、どきどき、どきどき、とうるさく鳴り始めた。 顔に、かぁーっと熱が集まってくる。 「だからこうしてイルカ先生の所に、疎まれない頻度で足繁く通っているんじゃないですか」 「す…、すみません、俺…」 今更どうでもいい、なんてひどい事を言ってしまった。 撤回できるなら、させてほしい。 「すみませんって、断っているつもりですか。それで諦めるとでも思っているんですか。もうおわかりでしょうけど、オレはしつこくて重たい男なんですよ」 ああ、ダメだ。 この状態では上手く話せる気がしない。 一度、仕切り直したい。 ひと息入れようと、お茶の用意をするために腰を上げた。 「逃げるんですか。逃がしませんよ」 「逃げたりしません…」 カカシの執着が甘くて、むず痒くて、ちょっとだけ、くせになりそうだった。 |