コインランドリーの妖精







これ、どうしたらいいの。
立ち尽くす以外に何もできない。
目の前で動いている業務用ドラム式洗濯機から、大量の泡が溢れて止まらない。
数々の面倒な事を避けようとした報いとしか思えない。
外務から帰ってきて、溜めてしまっていた洗濯を一気に済ませようとした事とか。
天気がいいのに乾燥機を使おうとした事とか。
知り合いに会いたくなくて、少し離れたランドリーまで来た事とか。
サンダルもスエットの裾も、すでにびしょびしょだ。
もう泣きそう。
というか、この世界から今すぐ消えてなくなりたい。
仕事はできるほうなのに、どうして日常生活はこうもままならないのだろう。
「あーあ」
入口のほうから楽しげな男性の声がした。
ぎぎぎ、と首を軋ませて振り向く。
短めの長髪をひとつに束ねた軽装の人だった。
顔の真ん中に、鼻を横切る一文字の傷がある。
呆然としたまま、無言で彼を見つめた。
上忍になってだいぶ経つせいか、誰かに助けを求める方法を忘れていた。
彼がすたすたと入って来て、泡を吐き出す洗濯機のどこかに触れた。
がこん、と音を立てて洗濯機が止まった。
泡の増殖も止まった。
助かった。
そう思ったら、また泣きそうになった。
彼は奥の戸を開け、モップやバケツを出した。
バシャバシャと豪快に、そして慣れた手つきで泡と石鹸水をどんどん排水溝に送っていく。
自分ではどうにもならなかった事態を、いとも容易く解決していく姿が、神々しく輝いていた。
その様子を、ぼうっと眺めていると、彼がこちらを向いて、にこっと微笑んだ。
かぁーと体が熱くなる。
菩薩の加護により、すべての失敗を赦された気持ちになった。
場違いとはわかっているのに、今にも雄々しい勝ち鬨を上げてしまいそうだった。
だが、すぐに自分が何もしていない事に気がついて、慌ててモップとバケツを取りに行った。
写輪眼を使わず見よう見まねで作業を手伝いながら、光り輝く彼をちらちらと盗み見る。
「2人だと早いですね」
この状況が初めてではないのだろうか。
ひとりで作業した事があるのだろうか。
その時は彼の洗濯物だったのだろうか。
今のように他人の不手際の後始末だったのだろうか。
もしそうだったら、その他人は彼の親しい人物だったのだろうか。
「俺も泡だらけにした事があるんです。洗濯物が8キロ未満の時に、大型機で布団モードを選ぶと、こうなるみたいで」
「そう、でしたか…」
よく見れば、洗濯機の近くに注意書きが貼ってあった。
大型のほうがいいだろう、モードなんて大差はないだろう、と安易に考えて、テキトーに操作したのがいけなかった。
泡が片付いてきて、彼がバケツに汲んだきれいな水をさらりと流した。
仕上げのように雑巾で床を拭いている。
這いつくばる姿まで尊い。
また見惚れている事に気がついて、あたふたと乾拭きの雑巾を探す。
そのうちに彼が、すっと立ち上がって額を拭った。
「よし」
嬉しげな声と共に向けられた笑顔のまばゆさに、思わず目元に手をかざしそうになった。
磨きたての床が、彼のすさまじい光量で霞んで見える。
なんてすごい人なのだろう。
こちらの素性も知らないのに、こんなに親切にしてくれて。
とてもじゃないけれど、これほどの神聖さを備えた人間がいるとは思えない。
きっと彼は、神や、天使や、妖精に近い存在なのだ。
「次はあなたが誰かを助けてあげてくださいね」
いかにも善行を広めようとする彼の言葉で確信した。
彼は神の使いだ。
今は何か事情があって人の姿をしているだけで。
その事情というのは、困っていた自分を助けるため、だったのではないだろうか。
彼が颯爽と立ち去ろうとしたのを、咄嗟に腕を掴んで引きとめていた。
「また会えませんかっ」
自分の求めに、彼は初めて人間的な困惑した表情を見せた。
しまった。
助けてくれたのに、お礼も感謝もまだしていない。
素早く頭を下げる。
逃げられないように、手だけは離さないまま。
「違うんです、オレひとりじゃ何もできませんでした、助けてくれてありがとうございます、お礼をしたいので今度食事でもいかがですか」
聖なる存在は食事なんてしないのかもしれない。
でも、他に言葉が浮かばなかった。
矢継ぎ早にまくし立てておきながら、すぐに返事が聞きたくて、さっと顔を上げた。
彼は考え込むように視線を斜め上でさ迷わせていた。
かわいい。
何気ない仕草なのに、たまらなくかわいい。
わずかに窄められた唇の悩ましさだとか。
ぴんと張った首筋の瑞々しさだとか。
好きです、と思わず先走りそうになった口を、慌てて引き結ぶ。
別に、変な意味の「好き」ではない。
一目会っただけで恋に落ちるなんて、物語の中だけで現実にはありえないのだ。
どんなに彼が好ましく、感じのいい存在であったとしても。
もっと彼の事を知りたいとか、できればこのまま一緒にいたいとか、そう思わなくもなかったとしても。
これは畏怖や尊敬の念なのだ。
自分だって過去に、それなりに浮き名を流してきた分の経験は積んでいる。
恋や愛は肉体関係を楽しむための幻想でしかない、と心得ている。
見誤るはずはない。
恋愛感情も、下心も、劣情も、彼には抱いていない。
特に劣情なんて、初対面でそんな下品な事を言い出したら気味悪がられるだけだろう。
その健康的でつややかな肌を撫でてみたい、なんて一番の禁句だ。
「…お礼はいりません」
「ぅ、えぇーっ」
「あなたが次に誰かを助けてくれたら」
変な声が出てしまうほど、動揺が振り切れていた。
嘘だろう。
だって自分は、ビンゴブックに載るほどの上忍なのだ。
精神面の制御には自信がある。
「おっ…、お願いですっ、お茶だけでもっ、一度でいいんですっ…」
掴んだ腕に力を入れてしまいそうになって、ぱっと反射的に手を離した。
何を必死になっているのだ。
ばかばかしい。
それでも、腕組みをして再考に入ってくれた彼の姿に、安堵の吐息が零れた。
またその、ちょっと傾げ気味な上目遣いが、食べてしまいたいくらいに愛くるしい。
あざとさからは懸け離れたこの無防備さが、自分の男心を無性にくすぐるのかもしれない。
そう解釈する事で、自分を納得させた。
頼むから、お願いだから、どうかまた彼に会わせて。
あくまで、お礼と尊敬を示すだけだから。
彼に特別な誰かがいたとしても問題はない。
許せないとか、我慢できないとか、奪えばいいとか、頭の隅を過ぎった事は黙っていればわからない。
「…お茶、くらいなら」
「ぅ、しゃぁ…!」
この時、一度断られても諦めなかった自分を、一生誇りに思うだろう。






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2020.05.31