ラッキーバースデー |
誕生日くらい、ゆっくりさせてほしい。 前日の午後3時すぎに下忍たちとの任務を終えたら、単独での別の任務の依頼書を渡された。 なんとなくイルカがいたら飲みにでも誘おうと思っていたのに。 しかしその時は受付で会えず、粛々と拝命した。 備品課や自宅に寄って装備を整え、すぐに出立する。 内容的に明日の午後、明るいうちには帰れそうだ。 そうなったら誕生日当日にイルカと飲みに行けるかもしれない。 わずかな希望に心が浮き立つのを感じた。 今回の任務は、身勝手な独裁者が治める国に娘を嫁がせた隣国の資産家から、娘一家を資産家の元へ送り届けてほしいという内容だった。 独裁国家は紛争や内戦が絶えず、燃料や医薬品の不足が顕著だという。 娘の夫は国家機関の要職に就いていたそうだが、いよいよ身の危険を感じて亡命を決めたらしい。 娘夫婦と夫の両親、アカデミー生くらいの子ども2人の、計6名での移動。 になるはずだった。 そこに使用人一家、子どもの友人一家2組、両隣の住民一家が加わり、総勢30名と犬2匹に猫3匹となった。 さすがに依頼内容が変わりすぎているので、式を飛ばして里に確認を取ったら。 依頼主が娘の善意に感動して、莫大な報酬を上乗せするから任務を続行してくれ、という事になり。 人手不足で都合がつかず、増援もなくカカシ1人で対応する事が決まった。 久々に疲れる任務だった。 余計なチャクラも体力も時間も使い、へとへとになって里に帰った。 着いたのは夜の10時をすぎていた。 誕生日は、あと2時間弱。 もうイルカに会うのは無理だろう。 そう思っているのに、微かな期待を胸に、真っ直ぐに報告の受付へ向かってしまう。 以前、一度だけ夜の受付にイルカがいた事があったのだ。 消耗していた体に、イルカのぬくもりが沁み渡った。 嬉しくて、誰もいないのをいい事に、無駄に長居をして。 事務仕事をするイルカの邪魔をしないように、会話は極力控えて。 迷惑料の代わりに、途中で飲み物を差し入れたりして。 あの時のときめがきが、夜の受付に来るたびに蘇る。 空振りの確率のほうが圧倒的に高いのに、律儀に毎回。 もう体が覚えていて、期待しないという事ができなくなっているのだ。 受付へ入ると。 案の定、イルカは不在だった。 盛り上がっていた内心が、すん、と一気に冷え込む。 これもいつもの事だ。 今日は加えて、まとわりつくような疲労が、ぶり返してくる感覚があった。 無で報告書を提出して退室する。 イルカに会いたかった。 年に一度の誕生日くらい、ささやかな幸福を味わいたかった。 それすら自分には不相応という事なのだろう。 敵とはいえ、数え切れない人々を傷つけてきた。 救えなかった仲間も大勢いる。 因果応報で、きっと生まれつき人並みの生活はできないようになっているのだ。 虚しいのに、思い至るたびに自虐的な笑みが浮かんでしまう。 イルカ相手に以前、そういう愚痴を零した事がある。 一般的な幸せを掴めそうなイルカなら、幸せになったあともカカシに同情して、たまには酒席を共にしてくれるのではないか、という下心もあった。 そんな思惑とは無関係に、イルカはその愚痴を聞いて急に本気で怒り出した。 里の主戦力である上忍が弱音なんて吐くな、甘えるな、と言いたいのかと思ったら。 『里のために体を張って、危険な目に遭って、大勢の人たちを守ってきたカカシさんが、人並み以上の幸せを掴めないわけがないじゃないですか』 イルカの真剣さから、お世辞でも忖度でもない事が伝わってきた。 たぶん、一生忘れられない言葉になる。 イルカにそんな言葉をかけてもらえただけで、今までのつらい出来事がすべて結実したように思えた。 思い出したら、またイルカに会いたくなってきた。 帰ってきたら会いたくなる人なんてイルカしかいない。 イルカと知り合う前は、任務、休息、鍛錬の繰り返しで、特定の誰かに会いたいと思う事はなかった。 諦めていたのだ。 大切な人はみんな死んでしまったから。 それなのに、どうしてイルカにはこんなに会いたくなるのだろう。 人柄が好ましいという事は言うまでもない。 一緒にいると心地がいい。 声が柔らかくて、あたたかさを感じる。 ずっとそばで聞いていたくなる。 穏やかな眼差しを向けられると、こそばゆくなる。 でもそれが嫌じゃない。 だらだらと廊下を歩きながらイルカの事を考えていたら、疲れが少し和らいできた気がする。 イルカの癒し効果は絶大だ。 そのせいか、イルカには色々な人が近づいてくる。 警戒心が低くて無防備な所があるので、心配になる事もある。 イルカが誰かと親しげに話していると、不安になるというか、苛立つというか。 ただそれは、カカシの一方的なハラハラで、守ってあげたい欲求を刺激されているだけなのだ。 受付で絡まれたり、いわれのない中傷に晒されたりしていても、イルカは慣れた様子で毅然と対応する。 イルカはできるだけ事を荒立てずに丸く収める能力に長けているのだ。 颯爽とイルカを庇って、いい所を見せたくても、カカシに出番はない。 どうしてイルカに対しては、自分をよく見せようとしたくなるのだろう。 最近はイルカの事ばかり意識していて、異性への興味も薄れてきた。 女の人は、こちらが機嫌を取ったり、品物を贈ったり、服装を褒めたり、髪型の変化を指摘したり、しなければいけない事が多すぎる。 化粧品のにおいがするのも嫌だ。 イルカにはそういう億劫さがなくて、自然体でいられる。 だからなのか、イルカにはなんでもしてあげたくなる。 座敷に上がる時は履物を脱がせてあげたいし、おしぼりが来たら手を拭いてあげたい。 もしイルカの好きな温泉に一緒に行けるとしたら、服を脱がせてあげたいし、体を洗ったりもしてあげたい。 忍犬に向ける気持ちに近いのだろうか。 たとえば、大きい食べ物はひと口用に切ってあげたいし、それを口に運んであげたりもしたい。 イルカとなら、ひとつのベッドで抱き合って眠るのもいい。 いや、さすがにそこまで思うのは、ちょっと異常かもしれない。 でもイルカとなら、さまざまな事に抵抗を感じない。 そのとき突然、びくっ、と足が止まった。 ちょうど建物を出た所だった。 目が覚めたように、急に気がついてしまった。 飲み仲間だから、ナルトの恩師だから、同性だから、などという要素に遮られて核心が見えなくなっていた。 自分はまったく異常じゃない。 むしろ正常だったのだ。 今まで気がつかなかった事が不思議でならない。 はじめから答えは自分の中にあったのだ。 ただ、イルカが好きなだけだ、と。 もちろん恋愛という意味で。 同僚とか部下とか友だちとか親友とかの想いの量や熱では全然足りない。 ものすごい勢いで頭が回り始めた。 慎重に戦略を練る任務と同じだ。 でも、焦る事はない。 攻略方法はこれからじっくり考えればいい。 イルカが一般的な幸せを手放してもカカシを選んでくれるような作戦を。 さっと見上げると、アカデミーの教員室の明かりがまだ点いていた。 こんな時間に珍しい。 と思ったのと同時に、もしかしたら、という馬鹿馬鹿しい期待が性懲りもなく込み上げてきた。 誕生日という特別な日に、特別な想いに気がつけたのだ。 それだけで充分なプレゼントだった。 これ以上を求めるのは欲張りすぎだ。 だから、無理だとわかっているけれど念のための確認で教員室を覗いてみよう。 どうせイルカはいない。 それでも階段を上る足取りは軽かった。 にわかに、生きている事が楽しくなってきた。 目的の階を進むと、教員室の横引きのドアが1枚分開いているのが見えた。 室内は今も明るいものの、人の気配は希薄だ。 遅い時間にイルカがいる確率はかなり低い。 それでも、もし在室していたら。 今日が最高の日になる。 ドアの脇に立つと、ひと呼吸置いて、そっと顔を覗かせた。 * * * * * あたたかくて柔らかい何かが触れている? そう思った直後、かち、と微かに金属同士が触れるような音がした。 ばっ、と目を開けたけれど、そこには薄暗い世界が広がっているだけだった。 額当てだ。 10分だけと決めた仮眠のために、アイマスク代わりに目元へずらしていたのだ。 それを慌てて首元まで引き下げた。 でもその時にはもう、唇にあったはずの違和感は消えていた。 右、左、上、下、もう一度右、と周りを見渡す。 残業している自分以外、誰もいない。 今日は夕方の受付が混雑していて、なかなか抜け出せなかったのだ。 10月上旬の運動大会に向けて、いつもより業務が増えている、この忙しい時期に。 おかげで、こんな時間になってもまだ目処がつかない。 鼻歌? ほのかに聞こえた気がして、左後ろを振り返る。 誰もいない。 しかしやはり鼻歌? が聞こえた気がして、声のほうを向いた。 生徒が入りやすいように常に開けているドアの奥。 その廊下に一瞬、銀髪が見えた、気がした。 カカシさん? いや、カカシがこんな場所にいるわけがない。 帰還予定は今日の午後だった。 イルカが受付にいるあいだには報告に来なかったので、早めに任務を終わらせたのだろう。 紛争地域からの護衛任務だったはずだ。 好きな人の予定は、つい確認してしまうので知っている。 ランクはBでもよさそうな内容だったが、安全性を高めたいという依頼主の強い要望によりAランク扱いになった、というような案件だった。 しかも、上忍師としてナルトたちの任務を監督したあとに、単独での強行軍で0泊2日。 できれば今頃はゆっくり休んでいてほしい。 人手不足が原因なのだけど、カカシ以外だと数人で隊を組まないといけないので、さらなる調整が必要になってしまう。 結果、能力の高い人にしわ寄せが行く事になる。 申し訳ないと思っても、自分では代われないのが歯痒い。 本当に尊敬する。 強くて、かっこよくて、責任感もあって、優しくて、仲間想いで。 いつの間にか、異性にしか抱いた事のなかった部類の好意を初めて同性に対して抱いてしまっていた。 カカシのそばにいられるだけで幸せな気分になる。 その幸せを、家でひとりでいる時に思い返して噛みしめる事もある。 特に、夜の受付での勤務中にコーヒーを差し入れてもらった事は一番の思い出だ。 渡されたのは、ミルクも砂糖もたっぷりと入った飲料だった。 普段は無糖にミルク派なので、衝撃的な甘さに一気に目が覚めた。 思い返すたびに、笑いが込み上げてくる。 些細な出来事ひとつでさえ、こんなに大切にしている状態では、とてもじゃないけれど思いを告げるなんてできない。 飲みに行くのも、カカシに誘われた時だけだ。 こちらから誘うなんて禁忌に近い事だとわきまえている。 里のために頑張って、尽くしてくれている人に、余計な負担をかけるわけにはいかない。 だから、誘われた時は他の用事があっても必ずカカシを優先している。 次がいつになるかわからないから。 もう二度とないかもしれないから。 会いたいからといって会える人ではないのだ。 そばにいたくてもいられる人ではないのだ。 話がしたくても、声が聞きたくても、簡単にできる人ではないのだ。 わかっているから、すべてはただ唇を噛みしめて飲み込んでいる。 「随分ご機嫌じゃねぇか」 アスマの声だった。 廊下で誰かに話しかけているようだった。 「…気色悪ぃ」 戸口に立ったアスマが廊下の奥を見つめて呟いた。 こちらに向き直ると、何かの紙をヒラヒラさせながら教員室に入ってくる。 「明日の書類に混ざってたから持ってきた」 慌てて駆け寄った。 火影の血筋で、上忍でもあるアスマに、わざわざ手間をかけさせてしまった。 受け取ると、途中まで下書きしていた運動大会の進行表だった。 「わっ、すみませんっ、ありがとうございますっ、助かりますっ」 余裕があれば受付でやろうと思っていた仕事だった。 忙しなく窓口業務をこなしているうちに混ざってしまったのだろう。 何度も頭を下げる。 「お手数をおかけして申し訳ないです」 「いや、別にこれくらいいいんだけどよ。…今、なんかあったか?」 「今、ですか…? 実は仮眠から起きたばかりで…」 「それで、か」 首にかかっていた額当てを、アスマが指差した。 照れ隠しに頬を掻いたら、ひとつ思い出した。 「そういえば、鼻歌が聞こえた気がします」 「ああ、カカシのだな」 「カカシさんのですか? いたんですか?」 「なんだ、会ってないのか。まぁいいか。イルカもあんまり遅くなるなよ」 「ありがとうございます」 じゃあな、と言い置いてアスマが出ていった。 わずかに感じたカカシの気配は本物だったのだ。 イルカに用事でもあったのだろうか。 寝ていたから声をかけずに行ってしまったのだろうか。 惜しい事をした。 ひと目でも会えたら、残業の活力になったのに。 なんて、過ぎた事をぼやいていても仕事は減らない。 それからは淡々と働き、結局は11時半頃に帰路についた。 翌日。 夕方の受付を終えて廊下に出た所で、突然カカシに呼び止められた。 「告白する以外に思いつかないくらい、イルカ先生が好きです。オレと付き合ってください」 嘘だろ。 信じられない。 ここをどこだと思っているのだ。 公衆の面前で、それなりに人通りのある廊下だぞ。 はっとして、すぐに「解」と唱えた。 でも、幻術じゃなかった。 「どうしたんですか、急に。イタズラですか。何かの罰ゲームですか」 ひそめた声で尋ね、四方八方を見回す。 どこかで撮影されているか、誰かが見ているのではないかと思った。 「違います。本当にただイルカ先生が好きなんです。オレと付き合ってください」 さらにびっくりして、だけど嬉しくて、嬉しすぎて、頭がおかしくなりそうだった。 混乱の中で、ぶわっ、と溢れた涙が止まらなくなる。 カカシが好きだと言ってくれた。 夢でも、妄想でも、幻術でもなく。 「…おれでよければ…よろしくおねがいします…」 俺もカカシさんが好きだったんです、と言おうとしたら、その口をいきなりキスで塞がれた。 額当て同士が触れた、かち、という微かな金属音と、独特の柔らかさ。 思いきり既視感があった。 「きのうのっ…!」 「すいません、すいません。唇だけ出しててかわいかったから、つい」 「つい、って…!」 「昨日は誕生日だったから欲張ってしまって」 「誕生日っ? お、おめでとうございます…っ」 出る声、出る声が、ことごとく裏返っていた。 カカシだって謝ってきたのだから、黙って口づけた事を悪いと思っているはずなのに、まったく悪びれた所がない。 今も、こんな所でキスなんかして。 反省の色がないばかりか、見た事のないデレデレの顔で笑っている。 「ありがと」 すいません、でも、ごめんなさい、でもなく。 でも、おめでとう、の返答が、ありがとう、なのは何も間違っていなくて。 誕生日のキス程度で欲張ったと言う人で。 カカシのこれまでの多難さが垣間見えたようで、急に胸がじんとしてしまって、また涙が溢れてきた。 もうこれからは、馬鹿みたいに大切にカカシを愛そう。 まずは1日遅れの誕生日会からだ。 カカシがうんざりするほど祝って祝って祝いまくってやるんだ。 |