ビタミンI






イルカが出張で里にいない。
校長として数か国のアカデミーを渡る視察へと出立してしまった。
さみしい。
会いたい。
たった10日間の辛抱なのに。
しかも、帰里予定日はカカシの誕生日当日だ。
毎年イルカが祝ってくれるようになったおかげで、自分の誕生日が特別な日なのだと刷り込まれてしまった。
というか、すっかり飼い馴らされてしまって、一緒にいられないかもしれないというだけで落ち着かない。
出立前にダメ元で聞いたら、帰里が早まる可能性は限りなく低い、との答えだった。
カカシの現役時代、イルカもこんな気持ちになっていたのだろうか。
火影をナルトに譲ってから自分はわりと自由に過ごしていて、イルカとは毎日のように顔を合わせていた。
住まいも一応は別々に構えているものの、結局は2人でどちらかの家にいる。
イルカが恋しい。
声が聞きたい。
穏やかな表情に癒やされたい。
イルカが標準装備しているほっこりした空気に包まれたい。
お日様の気配がするイルカの匂いを胸いっぱいに吸い込みたい。
情欲と絶対の安心感の両方を掻き立てられる体温に触れたい。
10日間は長すぎる。
あー。
心配でたまらない。
道中、強力な賊に襲われていないか。
怪我をしていないか。
訪問先でよこしまな輩に誘惑されていないか。
生徒くらいの年齢の子に心を砕きすぎて恋愛と勘違いさせていないか。
ちゃんと食事や睡眠はとれているのか。
歳を重ねたとはいえ、イルカはまだまだ活動的で代謝がよく、食生活に気をつけていないとすぐに肉が落ちてしまうのだ。
うー。
もう、お願いだから早く帰ってきて。
待つという事が、こんなにつらいとは思わなかった。
これなら任務を入れられていたほうがよっぽど気が楽だった。
帰ったらイルカに会えると思えば、どんなにきつい任務でも耐えられた。
それなのに、前線から遠ざかっているせいか我慢が利かなくなり、5日目でシカマルに弱音を吐いた。
イルカと帰里日を合わせられる任務をくれないか、と。
ナルトやシカマルなど身近な人たちは、すでにイルカとの関係を知っているので、面倒な説明は不要だった。
しかし、そんな都合のいい任務があるわけもなく。
しかも、元火影が動くと重要事項が絡んでいると周りに邪推されて摩擦の種になるから余計な行動は慎め、と釘を刺された。
正体がバレないように上手くやるくらいなら、まだまだ自信はあるのに。
つらいけれど、待つしかない。
あと3日。
せいぜい、カカシが外務から帰ってきた時のイルカがしてくれたように、手厚くもてなせる準備に時間を費やそう。
いや、でも、自分はそのもてなしを後回しにしてイルカの体を貪ってしまった日もあったか。
とにかく、イルカが望むほうを、どちらでも喜んで引き受けよう。



予定変更がなければ、いよいよ明日イルカが帰ってくる。
午前中から始めていた忍犬たちとの訓練を終えた午後4時すぎだった。
かすかな気配を感じて、感覚を研ぎ澄ませた。
「帰ってきたか」
パックンの声に、うん、と小さく応える。
カカシが待ちわびているとわかっていて、日程を早めてくれたのかもしれない。
ようやくイルカに会える。
とくん、とくん、と急に心拍が早まってきた。
まずは七代目に報告へ行くだろう。
その次はアカデミーに顔を出して、軽く事務処理をして、いよいよカカシの所へ来てくれるだろうか。
いや、もう待つのは終わりだ。
こちらから迎えに行こう。
イルカの顔が見られる。
声が聞ける。
匂いを吸える。
体温に触れられる。
想像しただけで幸せな気分になって、体が熱を帯びてきた。
忍犬たちを巻き物に収めると、意識的に深く息をついた。
高揚と緊張と期待から、頭の中では引っきりなしに稲妻が走っている。
イルカと対面したら、飛びついて、噛みついてしまいそうだ。
興奮する獣をなだめるような気持ちで、さっと瞼を閉じた。
左右の腕を、肩から手首にかけて、自らゆっくりとひと撫でする。
よし。
いきなり火影室に乗り込むのは不躾だろうから、校長室へ向かおう。
どうせナルトがいたらイルカをひとり占めできない。
着いた校長室に入ると、まだ誰もいなかった。
それでも何かイルカの痕跡がないか、室内をうろうろと探し回る。
しかし甲斐なく、イルカ感の濃い新鮮な気配は書類や文具を含めて何ひとつなかった。
座っていようと思っても、じっとしていられず。
立ったり座ったりを繰り返して、20分ほどが経った。
限界だった。
ナルトへの報告が長引いているのだろうか。
すぐに火影室へ飛んだ。
ドアが開いている。
気配を探っても、中を覗いても、イルカの姿はなかった。
「カカシ先生?」
「イルカ先生は?」
いきなり尋ねたのがいけなかったのか、呆れたような顔をされた。
ナルトならイルカの待ち遠しさをわかってくれると思ったのだけど。
「見ての通り、いないってばよ」
「入れ違いになっちゃったか」
「…イルカ先生だって、ひとりになりたい時があるんじゃないのかってばよ」
意味ありげなナルトの言葉に一瞬、ひく、と眉間が寄ってしまった。
何年経ってもラブラブな自分たちへの嫌味だろうか。
長く離れていたら、すぐに会いたいと思うに決まっているのに。
自分がそうだから、イルカだって絶対にそうだ。
「何それ? イルカ先生、何か言ってたの?」
「別に。疲れてる時くらい、ひとりでゆっくりしたいんじゃないかなぁと思っただけだってばよ」
「…ふーん」
ナルトなりのイルカへの気遣いなのだろうか。
何か引っかかるものの、現役の火影が簡単に口を割るとは思えない。
仕方なく、じゃあね、と声をかけて、再び校長室へと向かった。
ナルトには入れ違いになったと零したが、あの時点で火影室に残るイルカ感はわずかだった。
イルカはカカシが来るだいぶ前に退室していたのではないだろうか。
それから校長室にも寄らず、カカシの元にも来てくれず。
だから些細なナルトの言葉に心を乱されて、未熟にも表情に出てしまった。
先代火影の自分がそんな失態を晒してしまったのは、ひとえにイルカ成分が不足しているからだ。
そのイルカ成分の事は心の中で以前から密かに『ビタミンIRUKA』、通称『ビタミンI』と呼んでいた。
『I』と『愛』が同音なのも気に入っている。
カカシの生命を維持するためには必須の栄養素だ。
過剰摂取は問題ないが、欠乏すると様々な症状が現れる。
悪化する前に、早く補いたい。
そう思って校長室に着いたものの、やはりイルカはいなかった。
さすがにちょっと不安になってきた。
今度は慎重にイルカの気配を探る。
あれ?
おかしい。
里の警備上、入管時の身分証明としてチャクラで個人を識別する際に漏れる気配は、たしかにイルカを感じた。
だが、今はどこにもない。
里に戻ってきたのに、わざわざ気配を消しているという事だ。
なぜだ。
カカシを避けているのだろうか。
いや、そんなわけがない。
もしかしたら、ケガでもして病院に行っていてカカシに心配をかけないように、という配慮かもしれない。
いても立ってもいられず、すぐに病院へと飛んだ。
院内の事に通じているサクラがいれば、イルカが来ているかどうか、カカシになら教えてくれるはずだ。
受付で居場所を尋ねるまでもなく、待合場にサクラがいた。
目が合うと、向こうから駆け寄って来てくれた。
「どうしたんですか? 病院嫌いのカカシ先生が来るなんて珍しい」
「イルカ先生来てない?」
「え? イルカ先生ですか? 来てませんけど、さっきイノがお花の配達で来た時に、イルカ先生を商店街で見かけたって」
「商店街…」
「イルカ先生がウキウキしててかわいかった、って言ってましたよ」
にこにこ笑顔でスキップでもしていたのだろうか。
イルカがウキウキする理由なんて、久々にカカシに会えるからに決まっている。
9日ぶりになるカカシとの食事を楽しむために、商店街で何かを仕入れてきたのかもしれない。
もしくは、明日のための準備を早めにしてくれていた、とか。
サクラに礼を言って病院を出た。
妙な胸騒ぎがする事からは目を背けて、イルカの家へと飛んだ。
あちこち回らずに、最初からこうしていればよかった。
着いたイルカの部屋には、なんとすでに明かりが点いていた。
なんだ。
帰宅していたんじゃないか。
色々と心配して損した。
でもそれならどうして気配を断っていたのだろう。
いや、イルカが無事ならそれでいいのだ。
ドアを開けようとすると、鍵がかかっていた。
すぐにカカシが来るとわかっているはずなのに。
そんな日もあるか、とは思いながらも、少なからずさみしさを感じながら、合鍵を使った。
イルカの家に着いてから、今ドアを開けるまで、たぶん1秒もかかっていない。
「おかえりなさい!」
外から入ってきた側が言うのはおかしいけれど、室内に向かって叫びながら、居間兼食卓へと直行する。
わずかなあいだに抱擁と口づけの準備として、手甲を取り、口布を下げる。
がさ、と何か慌てたような音がした。
イルカは食卓の椅子には座らず、卓の横に立っていた。
ひとりなのに不自然じゃないか。
カカシを見て泳いだ目が、斜め下に逸らされる。
何それ。
「戻りました。カカシさんもおかえりなさい」
伴侶と9日ぶりに再会したわりには感動の薄い、いつも通りのイルカの声だった。
何か隠し事、していませんか。
よく見ると、いつもよりイルカの唇が艶っぽくなっている気がした。
この部屋で嗅いだことのない匂いもする。
まさか。
細胞と細胞のあいだに糸を通すくらいに神経を尖らせて、家中の隅々まで気配を探る。
この愛の巣に、自分とイルカ以外の誰かが侵入したのではないのか。
その誰かと唇を合わせていたのではないのか。
ウキウキしていたのも、そいつとの逢瀬があったからで。
「…ごめんなさい」
殺気立ったカカシの不機嫌さを察したイルカが、急に謝ってきた。
どうして。
認めるのか。
浮気を。
ずっとカカシがイルカを恋しがっているあいだに、イルカは他の奴と情を交わらせていたなんて。
ダメだ、泣きそう。
そう思った時には手遅れだった。
涙が頬を伝う感触と、板張りの床に雫がぶつかる音。
「ご、ごめんなさい…。明日の当日はちゃんとカカシさんの好物を用意しますから…。ね…? そんな泣かないでください…」
当日というのは誕生日の事か。
浮気をしても誕生日は覚えていてくれたのか。
それが免罪符になると思っているのか。
さっと距離を詰めてきたイルカが、手ぬぐいを頬に当ててきた。
優しい力で背中をとんとん撫でるように叩いてきて、なだめるように頭をよしよしとぽんぽんしてくれる。
その手を、振り払えるわけがない。
だって、待ちに待っていたのだ。
たまらず、ぎゅう、とイルカを抱きしめた。
瞬間、イルカが少し痩せている事に気がついた。
たった9日で。
悔しさと悲しさと心配でぐちゃぐちゃになった心と頭に、イルカの優しさと慰めと誕生日を覚えていた安心感が加わっても、気持ちが中和する事はなかった。
どうしたらいいかわからなくて、目を瞑ってイルカの首筋に鼻を押し当てた。
思い切り匂いを吸い込む。
オレのビタミン。
オレの必須栄養素。
しばらく無言で摂取していたら、感情の波がいくらか穏やかになってきた。
ようやくぼんやりと開いた涙目が真っ先に捉えたのは、卓上にある揚げ物の山だった。
え?
コロッケ、フライドポテト、魚のフライ、とんかつ、鶏の唐揚げ、球体はメンチカツか。
天ぷらは、えび、あなご、なす、舞茸、蓮根、さつまいも、とうもろこし、ししとう、ちくわ、かき揚げ。
え?
知らない匂いって、これ?
ひょっとして、イルカの唇の艶も?
「訪問先があまり豊かな国ではなかったので、食事が質素で…。カカシさんが揚げ物苦手なのはわかってるんですけど、どうしても食べたくなってしまって」
だから気配を消していたのか。
その「ごめんなさい」だったのか。
たぶんナルトには本当の事を告げたのだろう。
ナルトがカカシに、イルカの「ひとり」を強調していたのも、事情を知っていたからか。
でもそれは、揚げ物を避けがちなカカシのためでもあったのだろう。
なんだよ、もう。
イルカのウキウキの理由がカカシでなくても、揚げ物に負けるくらいなら我慢できる。
自分はそこまで器の小さい人間じゃない。
だって、イルカを愛している。
不貞でなければ万事、問題はないのだ。
そんな不誠実な事をイルカがするわけがなかった。
イルカが好きすぎて、そこにイルカ不足が重なって、悪い考えに取り憑かれてしまった。
揚げ物でもラーメンでも、イルカには体を戻すために、まずは好きなものをたくさん食べてほしい。
「…すぐに会いたかったのに連絡もくれないし、どこにもいないし、気配まで消してるし、ナルトに口止めしてるし」
「あ…。口止めってほどじゃなかったんですけど、ナルトが気を回してくれたみたいで、ごめんなさい」
子どもっぽく拗ねて愚痴っても、イルカは余裕たっぷりに受けとめてくれる。
だから安心して甘えられる。
イルカの前だと強がらないでいいし、頑張らないでいられる。
カカシにとって最高の伴侶だ。
「俺もすぐに会いたかったんですけど、カカシさんを嫌な気持ちにさせるのが申し訳なくて…。10日ってけっこう長いですね」
「うん…。すごく長かった…」
「移動中に統廃合が決まって訪問が1校キャンセルになったので、これでも少しだけ早く帰ってこられたんですけど」
「…1日でも早く会えてよかったです。オレやばかったんです。ギリギリだったんです」
ふわ、とイルカが笑った気配が、かすかな吐息で伝わってくる。
冗談っぽく大げさに言っている、と思ったのだろう。
全然、冗談でも大げさでもなかったのだけど。
「カカシさんもひとつくらい食べてみませんか。商店街に新しくできたお惣菜屋さんなんですよ」
「うん…。でもその前に」
イルカをじっと見つめて、視線で同意を得る。
望まれたほうを引き受けると決めていたけれど、揚げ物は一旦後回しにさせてもらう。
ゆったりと唇を寄せ、そうっと触れ合うと、甘くて、香ばしくて、幸せな気分になる、滋養に富んだイルカの味がした。






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2023.09.27