はなむけ |
植物を育てるのは嫌いじゃない。 ただそれは、鉢植えを個人的に管理する程度の話だ。 「ほかげさま、おはようございます」 「うん。おはよう」 カカシがアカデミーの花壇に水を撒いていると、まだ小さい生徒が挨拶をしてくれた。 このあたりの花壇は大戦前からイルカがよく世話をしていた。 大戦で全壊したので、今の花壇は新しく作り直したものではあるけれど。 「いつもきれいなお花を咲かせてくれてありがとうございます」 「どういたしまして」 「お母さんがね、カカシさまがほかげさまになってから、里にお花が増えてうれしいって言ってたよ」 「そう」 「ほかげさまはお花が好きなの?」 小さな生徒に嘘をつくのが嫌だったので、無言で目元に笑みを浮かべて返答に替えた。 カカシが花壇の世話をするのは、花が好きだからじゃない。 むしろ、イルカが育てた花は見たくないとさえ思った時期があった。 * * * * * 一番は待機所の窓から。 二番は本部への出入りの際に。 アカデミーの敷地内にある花壇で、イルカの姿を頻繁に見かけた。 あの頃はまだ名前も知らなかったけれど。 校庭で授業をしていたり、受付に入っていたりするので、けして暇な人でもないはずなのに。 素人目に見ても、かなり熱心に育てている様子だった。 季節ごとに異なる花が咲き、彼の花壇から色が絶える事はなかった。 すさんだ任務のあとに眺めていて、癒しを感じた事もある。 最初のうちは、内勤にはカカシにはわからない時間の余裕や気持ちの余裕があるのだろうと思った。 少し羨ましいような、妬ましいような。 どこかで、内勤はラクでいいね、という偏見もあった。 任務でもない土いじりで汗を流し。 きれいな花を咲かせて達成感を得て。 あの人は、命を削り合う任務をしている自分とは懸け離れた世界にいる。 そんな人と薄い接点ができたのが、上忍師を頼まれるようになった頃だった。 自分が向いているとも思えなかったので、カカシが認める下忍が現れれば担当する、という事で話がまとまっていた。 何度目かに突き返す事になる下忍たちの会話に出てきた人物が、あの人の事だ、とぴんときた。 「卒業の時にイルカ先生がみんなにくれたやつ、中身見た?」 「あのお守り、中身って見てもよかったの?」 「え、ダメなの? おれもう見ちゃったよ」 「何が入ってたの?」 「いろんな植物のタネが入ってた。遭難したら育てて食料にしろって事かなぁ」 もしそうなら、ずいぶんとのんきなサバイバル術だ。 ありていに言うなら、趣味の副産物である植物の種子を、卒業記念と称して配っているだけなのではないだろうか。 そうなると完全に公私混同だ。 でも、人違いの可能性もある。 イルカ先生ってどんな人? と下忍に尋ねた。 声がデカい、怒ると怖い、でも優しい、お母さんみたい、授業がわかりやすい、一楽のラーメンが好き。 カカシの望んだ種類の回答ではなかった。 質問の仕方が悪かったのだろう。 続けて、容貌を尋ねた。 黒髪を高い位置で一本に結んでいる、鼻を横切る大きい傷がある、笑顔が暑苦しい。 笑顔が、という部分はわからないが、それ以外はカカシの知っている彼の特徴と合致する。 やはり彼が「イルカ先生」なのだ。 自分がイルカの生徒だったら、アカデミーの卒業時に同じものがもらえていたのだろうか。 別に植物のタネなんてもらっても嬉しくはないけれど。 そもそもイルカはどう見てもカカシより年下だから、自分がアカデミーを卒業した5歳の頃に教師であるはずがないのだけれど。 下忍たちがイルカの話を続けていた。 「笑顔が暑苦しいって、ひどくない?」 「だってなんかイルカ先生が笑ってる顔って、いつも元気いっぱいで熱量が高いっていうか」 「たしかに」 花の世話をして、ラーメンが好きで、元気に笑っていて。 平和ぼけ。 まだ一度も話した事のない相手に対して、そんな言葉が頭をよぎった。 イルカが享受する疑似平和は、危険な任務に就く自分たちの働きによってもたらされている、と思えば少しは気が紛れた。 とにかくそうやってカカシの中でのイルカの印象は、はじめからよいものではなかった。 イルカを見ると、苛立ちを覚える事が少なくない。 それならば避ければいいのに、勝手に向こうから目に入ってきて、いちいちカカシの胸に引っかかってくる。 ある日、受付に用事があって、それを済ませて退室しようとした時だった。 この時も受付にイルカがいる事には気がついていた。 そのイルカが、アカデミー生らしき子どもに廊下から呼ばれたのだ。 イルカがカカシを追い越して廊下へと出ていく。 「どうした?」 「体力測定と追試、合格しました」 「そうか!」 ちょうどカカシも廊下に出た所で2人が話していて、それを見てしまった。 あの、噂に聞いていたイルカの暑苦しい笑顔を、初めて、こんな近距離で。 暑苦しいなんてものじゃなかった。 健やかで爽やかで瑞々しくて、国宝級の宝石なんて足元にも及ばないくらい、ばちばちに眩しかった。 太陽を直視しているみたいで目が潰れそうなのに、ぜんぜん目が離せない。 かわいい。 なんだ、あれ。 すごくいい。 自分の心臓からは、祭りの最高潮の時に高速で連打される太鼓のような爆音が鳴り響いている。 今までに経験のない身体反応に対処できず、その場に立ち尽くしていた。 「よかったな! 絶対合格できると思ってたよ。おめでとう!」 「ケガで両方とも受けられなくなった時は、もう駄目かと思ったけど、イルカ先生が励ましてくれたおかげです」 まだ真新しいぴかぴかの額当てを、子どもが両手で大事そうに持ってイルカに見せた。 イルカが満面の笑みをたたえたまま、子どもの頭をこれでもかというくらいに何度も撫でている。 あれいいな。 オレもイルカ先生に撫でられたいな。 自分の思考に、はっとした。 やばい。 好きかもしれない。 イルカの事が。 いや、もしかしたら、ずっと好きだったのかもしれない。 だって、イルカを見かけるたびに気になって仕方がなかった。 イルカの印象がどうだとか難癖をつけていたのは、自分の気持ちを理解できなかったからだ。 なんて未熟だったのだろう。 低学年の子が好きな子にいじわるな気分になるのと同じような事じゃないか。 「これ、卒業生みんなに渡してるんだ。任務の時は必ず身につけててほしい」 イルカが下衣のポケットの右からも左からも、色とりどりの小袋をいくつか出した。 それを片手に持ち替えると、ベストのポケットからもいくつか似たような小袋を出した。 常にあんなにたくさん持ち歩いているのか。 「どれでも好きなのを選んでいいぞ」 以前、下忍たちが話していたのと同じものだろう。 思ったよりも薄手の布でできているようだった。 日に当てたら光が透けそうなくらい。 「じゃあ…、これにします。ありがとうございます」 「おう。大変なのはこれからだからな。がんばれよ!」 イルカは子どもの背中が見えなくなるまで見送り、そそくさと受付に戻っていった。 それでもカカシの横を通りすぎる時に、小さく会釈をしてくれた。 気配を消したままだったせいで、少し驚かせてしまったようだったけれど。 そんな細かい事まで、今でも鮮明に覚えている。 * * * * * 性経験は重ねていても色恋に未熟な自分が一歩を踏み出したのは、初めて上忍師を引き受けた時だった。 ナルトたちの担任がイルカだったとわかり、運命だと思った。 イルカの好物も知っている。 食事に誘うくらい簡単な事だろう。 そう思ってから、気がついたら1か月が経っていた。 今日はイルカが忙しそうだとか。 今日は自分の鍛錬があるからとか。 今日はナルトがイルカを誘っていたからだとか。 イルカを誘わなかった理由はいくつもある。 でもある時それが、誘わなかったのではなく誘えなかったのだと気がついた途端、ナルトを恨みそうになった。 なんでナルトは平気でイルカを誘えるのだ。 カカシがためらっているあいだにナルトは3回もイルカと一楽に行っていた。 もう、今日こそ絶対に、イルカを食事に誘う。 そう決めて、イルカの窓口に報告書を提出した。 内容を確認するイルカの髪の結び目を見つめる。 早く言わないと。 言うなら今だろ。 心臓が胸を突き破りそうなくらい激しく打っている。 タイミングを逃したという言い訳は、もういい。 どんな困難でも今までちゃんと乗り越えてきたじゃないか。 とにかく言わないと何も始まらないのだ。 「…今度、メシでも行きませんか」 日頃の鍛錬のおかげか、声はなんとか震えずに済んだ。 何か返事を、何か反応を、お願いだから。 1秒にも満たない時間すら永遠に感じていたら、イルカがゆっくりとこちらを向いた。 一瞬ぽかんとした顔をした直後に一転して、にっこりと嬉しそうに笑ってくれた。 頭の中で爆竹が連続で弾けたみたいに火花が散る。 苦しい。 やっぱり笑顔が最高にかわいい。 嬉しそうな表情に見えたのは思い込みじゃないよな。 イルカの笑顔に目がくらんでいて、今は正確に表情を読む自信がない。 「いいんですか」 イルカの嬉しそうな声が返ってきた。 そう聞こえたのもカカシの願望によるものなのだろうか。 もう何もわからない。 「あ、でも、カカシ先生、お忙しいですよね」 「そんな事ないです、いつでも大丈夫です、イルカ先生に合わせます」 必死なのが伝わってしまったかもしれない。 いつでも大丈夫、というのはさすがに言いすぎた。 でも正直、そんな事はどうでもよかった。 己の人生がかかっているのだ。 「なんか…申し訳ないです」 「全然そんな、本当に気にしないでください」 「そうですか…? 俺、平日はアカデミーと受付が終わる18時以降だったら、大体いつでも大丈夫なので」 「え、じゃあ今日はどうですか?」 社交辞令で流されなかった喜びと勢いに任せて、拙速に尋ねていた。 言ってしまってから焦ってくる。 珍しく、手甲内に意図しない湿度を感じた。 「大丈夫です」 「そ、それなら、18時になったら迎えに行きます。どこにいますか」 「ここに、受付にいます」 「わかりました」 それから報告書の確認が終わるまで、足元がふわふわして自分がどこにいるのかわからなくなりそうだった。 確認が終わり、またあとで、と挨拶をして待機所へ向かいながら、18時に受付、と声に出さずに何度も何度も唱えていた。 約束通りにイルカと合流して、どこに行くかという話になった。 当然、一楽だろう。 イルカが好んでいると聞いて、一度だけひとりで食べに行ったから、場所も知っている。 カカシの提案にイルカは驚いた顔をしたけれど、今度は間違いなく嬉しそうに笑ってくれた。 苦しい。 イルカの笑顔を見ると、胸いっぱいに何かが詰まったみたいに息が苦しくなる。 今日だけで何度、意識的に呼吸を整える事になったかわからない。 一楽でイルカがラーメンをうまそうに食べている姿を、隣という特等席で見ているあいだも、なんだか夢心地だった。 それなりに空腹だったはずなのに、味がしないし。 たったひと口か、ふた口で、満腹感さえあって。 それでも残すのは恥ずかしいから、機械的に平らげた。 イルカが食べ終わるのを待っていたら、ふいにイルカが席を立った。 慣れた様子でそそくさと1人分の会計を済ませている。 初デートの記念に2人分の料金を払いたかったのに。 イルカが、ごちそうさまでした、と店主に声をかけてのれんをくぐった。 こちらも急いで会計を済ませてイルカを追う。 もう食事が終わってしまった。 どうしよう。 せっかくイルカと2人きりなのに。 まだ一緒にいたい。 イルカが店の前で満足げに両腕を上げて、んー、と大きく伸びをした。 「もう帰りますか? まだ大丈夫だったら、もう少し話しませんか」 イルカの後ろ姿に尋ねた。 正面からでは言えなかった気がする。 振り返ったイルカは、いたずら小僧が何かを企むみたいな顔をしていた。 「飲みにでも行きますか」 にや、とイルカが片側の口角を上げて笑った。 苦しい。 こういう笑顔もかわいい。 行きましょう、と即答した。 「静かに飲める店があるので、そこでもいいですか」 「はい。でも、あの…あまり高級な所じゃないと助かります」 「支払いは任せてください。今日いきなり誘ったのにイルカ先生が付き合ってくれたから」 「そんな、食事くらい、いくらでも付き合いますよ」 いくらでも付き合います、いくらでも付き合います、いくらでも付き合います。 頭に響いたその言葉に感動して、涙が出そうだった。 こんなに嬉しい事があるだろうか。 今まで死ななくてよかった。 イルカに出会えてよかった。 思い切って誘ってよかった。 「…ありがとう」 ありふれたこの単語を、こんなに心の底から口にしたのは初めてだった。 幸せを噛みしめながら向かったのは、何度か使わせてもらった事のある店だった。 庭が広くて客間同士も離れているので、機密度の高い話をしやすい所が気に入っていた。 唐突な訪問だったのに、女将が手頃な個室を用意してくれた。 間もなくして酒と軽い肴が揃い、おちょこで乾杯をする。 「料亭って初めて来ました」 「オレも仕事以外で来たのは初めてです」 床の間に飾られている花が目に入った。 名前は知らないが、里にいると時々見かける薄紫の素朴な花。 あの花もイルカの花壇に咲いていた事があった気がする。 「イルカ先生って、植物がお好きなんですか」 「植物ですか? まぁ、嫌いではないですかね」 思ったよりも声の温度が低かった。 実はそれほど好きではなかったのだろうか。 それとも、植物だと範囲が広すぎたのだろうか。 「じゃあ、花がお好きなんですか?」 「花も、嫌いではないですよ」 やっぱりどこか素っ気なかった。 いつもあんなに熱心に世話をしているのに。 カカシがその事を知らないと思っているのだろうか。 「下忍たちがアカデミーを卒業する時、任務中は身につけるようにって、イルカ先生から花のタネをもらったと言っていたので、てっきりお好きなのかと」 「ああ、それで…」 なんとなくイルカの口が重い気がした。 聞かれたくない事なのだろうか。 カカシにとってはイルカを認識する事になった大切な要素だけど、イルカが嫌ならあまり触れないほうがいいのかもしれない。 それならば、次の質問で植物に関する話題は最後にしよう。 「あの…、どうして下忍たちにタネを?」 ずっと気になっていた事だった。 以前彼らが考察していたように、新手のサバイバル術なのだろうか。 それとも深い意味はないのだろうか。 でもそれなら、任務で身につけろなんて言わないだろう。 どちらにしても以前から、カカシにもひとつくれないかなと思っていた。 イルカが大事にしている植物の一部を。 「…みんなが寂しくないようにと思って。任務で命が尽きた時に、たとえひとりだとしても、渡したタネから花が咲けば」 思ってもいなかった答えに、息を呑んだ。 胸のあたりが強張って、気の利いた言葉は何も出てこない。 「里で見慣れた花が別の植生の中で咲いていれば、捜索の目印にもなるじゃないですか。体だけでも必ず里に連れて帰るから、安心して全力で頑張れっていう、俺にできる最後のはなむけなんです」 イルカの口調には、悲しみと諦めを昇華した力強さと、分厚い透明感があった。 アカデミーの教師という職業を甘く見ていた。 腹の括り方も、肝の据わり方も。 平和ぼけなんて。 余裕があるなんて。 内勤がラクだなんて。 穏やかさを纏うイルカを見て、頭の中をお花畑にしていたのはカカシのほうだった。 大切に丁寧に愛情をかけて育てた子どもを戦場に送る仕事が、ラクなわけがない。 平和を享受して呆けているだけで済むわけがない。 命懸けの危険な任務から生還する事だけが、命に責任を持って、命と向き合う事じゃない。 イルカは日々、カカシが接するよりも複数の幼い命への責任を負い、その命と向き合っているのだ。 それは、これから送り出す子どもたちも、これまでに送り出した子どもたちも。 対象が増える一方なのに、どうして余裕があるなんて思えたのだろう。 自分は今までイルカの何を見てきたのだろう。 イルカがこんなにも器の大きい人だなんて気づきもしなかった。 気づいてしまったら、もう気づく前には戻れない。 なんの根拠もなく下だと思っていた人が、実は自分よりも遥かな高みにいた。 自分がどれだけ小さくて、傲慢で、浅慮だったかを突きつけられた。 もう抗うすべがない。 たぶん、イルカには一生、敵わない。 それだけは揺るぎない自信があった。 「タネを入れる袋の素材も、光と水の入りやすさとか、花壇で研究したりして」 「…イルカ先生」 2人を隔てていた座卓を、さっと半畳ほど横に滑らせた。 イルカは突然の事に、おちょこを持ったまま固まっている。 つまり、確実にカカシを見ている。 素早く座椅子と座布団から降りた。 崩していた足を整え、正座をして背筋を伸ばす。 両手で三つ指をつき、畳すれすれまで一気に頭を下げた。 「参りました。オレとずっと一緒にいてください。お願いします」 「えっ…」 「イルカ先生が好きなんです。お願いします。なんでもしますから」 心のままに言葉を発していて、すっかり言い切ってから、ずいぶんと情けない告白だったかもしれないと思い至った。 でも、背に腹はかえられない。 袋の研究までして用意しているタネを、イルカは誰よりもたくさん携帯しているのだ。 子どもたちに渡しても余りある数を。 それは、イルカ本人の命がいつどこで尽きてもいいように、という事じゃないのか。 そんなの絶対に駄目だ。 到底受け入れられない。 頭をよぎる事すら嫌だ。 だから、イルカの花壇が目に入るのがつらい時期があったのだ。 イルカがタネを携帯する理由が浮かぶから。 だから、自分が火影になった時、イルカがタネを携帯しなくてもいい世界を作りたいと思った。 イルカが花を育てて継続的にタネを作らなくてもいい世界を。 里に花を増やしたのも、イルカがタネを携帯する意味をなくすためだった。 イルカが携帯しているタネがすべて開花した程度の花の量が、どこでもありふれた景色になってしまえば、もう目印にはならないから。 それでも一度だけ、イルカにあの小袋を分けてほしいと頼んだ事があった。 大戦の部隊長を任された時だ。 少しの間があったけれど、その場で小袋を出したイルカが、中身をカラにしてからカカシに渡してきた。 たしかに、花のタネではなく、小袋がほしいと言ったのだけど。 でも、それで充分だった。 あの状況で言葉にするのは重すぎた。 それに、言葉にしなくてもイルカの気持ちはちゃんと伝わった。 それまでたくさんの命と向き合ってきたイルカの、花を咲かせるような事はしないで、という核心の気持ちが。 卒業生に渡す時も、きっと同じ気持ちだったのだろう。 「カカシ様」 半分笑いながら呼びかけてくる声がした。 そう呼ばれる事をカカシが嫌がると知っているからだろう。 それがわかっていても、頬が不満によって口布の内側で膨らむ。 でも生徒の前で呼び方の訂正を求めたら逆に注意されるので、ぐっと飲み込むしかない。 「こっちの畑にも、お水をお願いします」 「はいはい。まったく教頭先生は人使いが荒いんだから」 花壇の横には、花壇の倍ほどの広さの畑が整備されている。 今、里中の花壇は本部の新しい部署で管理されており、畑は食育を理由にイルカと生徒が世話をしていた。 もうイルカは花を育てていない。 小袋の研究もしていない。 「教頭先生、おはようございます」 「はい、おはようございます」 「教頭先生は畑で何を作ってるの?」 「野菜だよ。ナス、トマト、きゅうり、オクラ、いんげん、ピーマン。今日の授業で収穫してもらいます」 「えー。ピーマンいらなーい」 生徒が逃げるように校舎に駆け込んでいった。 イルカは月日が経ってもまったく色褪せない素敵な笑みを浮かべて見送っている。 その視線がこちらへ戻ってきた。 「人使いが荒くてすみません」 「いいんです。なんでもするって言ったのはオレですから」 「カカシ様って呼んでごめんなさい。今日はナスの味噌汁にするから許してください」 「…うん」 好きな人からのそんな言葉で、自分の機嫌は簡単に直ってしまう。 完全にイルカの手のひらで転がされている。 でも、それでいいのだ。 いつでもどこでも誰にでも、天国へでも、自分は今幸せだと胸を張って叫べるから。 |