| もだもだクリスマス |
クリスマスイブの夜に、受付でひとり。 恋人のいる同僚から交代を頼まれたら、断れなかった。 ２１時には夜勤と交代できるとの事だったので、まあいいかと思った。 自分には恋人も家族もいない。 好きな人はいるけれど。 たぶんその人は今頃、きれいなおねえさんとよろしくやっている。 特定の相手がいないらしい彼と、特別な夜を過ごしたいと思う女性はたくさんいる。 特に今月は、彼が告白されているというか口説かれているというか、そんな場面を何度も見かけた。 美人ばかりなのは、さすがだった。 勇敢な彼女たちを本当に尊敬する。 自分には可能性がなさすぎて、ゼロでしかなくて、とてもじゃないけれど気持ちを伝えるなんてできそうにない。 たまに飲みに行ったり、食事に行ったり、行き合えば立ち話をしたり、途中まで帰路を共にしたり、そのくらいが関の山だ。 それでも、今日は一縷の望みを抱いてしまう。 実は彼もまだ仕事で、イルカが窓口にいるあいだに報告に来てくれないかな、と。 もし会えたら、最高のクリスマスプレゼントになる。 こんな気持ちになるのは、ずっと室内にかかっているラジオのせいだ。 クリスマスは恋人たちのものだと言わんばかりに、ラブでロマンチックなクリスマスソングばかりが流れてくる。 ぽつりぽつりと報告に来る忍と２人きりだと、とても気まずい。 こんなもさい中忍と、こんな夜に一緒なんて嫌だろうに。 疲れている彼ら彼女らに申し訳なくて、毎回頭を下げて謝った。 笑ってくれる人もいれば、不機嫌になる人もいたし、無反応の人もいた。 それでも、家でひとり、いつもの夜を過ごすよりはよかったのかもしれない。 あと５分。 交代が来たらすぐに帰れるように、足元に鞄を引き寄せた。 「お疲れさまです」 その声に、机の下に向けていた視線を、ぱっと上げた。 「カカシさん！」 嬉しさのあまり、挨拶よりも先にその名前を呼んでいた。 慌てて取り繕う。 「お、お疲れさまです。今日任務だったんですね」 ダメだ。 平静を装いたいのに、顔が緩んでしまうのを抑えられない。 「そうなんですよ。ま、大した内容じゃないんですけど」 差し出された報告書を見ると、紛争地帯を越えなければ辿りつけない国まで、書簡を届ける任務のようだった。 どうしてカカシ級の上忍が駆り出されたのだろう。 そう思ってさらに報告書を読み込むと、今日出立で今日中に返事を持ち帰らないといけないという内容だった。 それだけ急ぎだと、ランクも報酬も跳ね上がるので、たしかにカカシが請けてもおかしくはない。 しかも、昼間に下忍たちの監督をしたあとにこのレベルの任務をこなしてしまうのだ。 やっぱり、かっこいい。 尊敬する。 高揚して、どきどきしていると、もうひとり受付に入ってきた。 交代相手だ。 壁時計を見ると、ちょうど２１時になっていた。 「あ、悪い。お邪魔しちゃったな」 「…何が？」 とぼけて聞き返した。 カカシと２人きり、というイルカだけが得をする状況を揶揄された可能性を排除できなかった。 隠せていると思っていたのは自分だけなのだろうか。 「カカシさんと約束してたんだろ？」 「え？ してるわけないだろ。約束なんて」 「え、そうなの？ いつも一緒にいるから今日もそうなのかと思った。すいません、カカシさん」 「…別に、大丈夫」 「イルカ、時間だから帰っていいぞ」 「あ…、うん。じゃあ、これだけやってく」 耳まで赤くなっている気がして、報告書を確かめるのを口実に顔を伏せた。 読みやすい字に、過不足ない内容。 カカシの完璧な報告書に感動しながら、丁寧に押印して受領する。 「問題ありません。お疲れさまでした」 「うん。イルカ先生、もう帰る？」 「はい。帰ります」 「じゃあ一緒に行こ？」 一緒に。 授業終わりの生徒同士くらい気安い誘いが嬉しすぎて、一瞬幻聴かと思った。 ぽーっとなりかけた頭をさっと振って、足元の鞄を取った。 勢いよく立ち上がる。 「はい！」 にやけてしまうのは、もうどうしようもない。 交代相手に「お疲れ。お先」と声をかけ、カカシと共に受付を出た。 夢じゃないよな。 クリスマスイブの夜にカカシと会えるだけでなく、並んで歩いているなんて。 外に出ると、肌に触れる冷気が心地よいと思うくらい顔が火照っていた。 恥ずかしい。 街灯の薄明かりで紛れてくれればいいのだけど。 「イルカ先生、明日早いの？」 「いつも通りです」 「こんな時間だけど、１杯飲みたいなと思ってて。付き合ってくれませんか…？」 「いいんですか！」 イルカの左側を歩くカカシを見ると、目元が綻んでいた。 嬉しい。 ほんとに夢じゃないんだよな。 「あ、でも、予約なしで今から入れる店、ありますかね」 夢でないなら出現してしまう問題だった。 クリスマスイブといっても今日は日曜の夜で、平日より閉店が早い店も多い。 だったら最悪、コンビニ酒を歩き飲み、とかでも自分は構わない。 でも任務終わりで疲れているカカシは嫌だろう。 それに、さすがにこの外気の中で冷たい飲み物を摂るのは控えたい気もする。 せめてコンビニにあたたかい酒が置いてあればいいのだけど。 「少し味気ないけど、コンビニで買って飲みながら帰るのでもいいし」 にや、っとしてしまった。 こんな些細な事がすごく嬉しい。 「俺も同じこと考えてました」 「コンビニにあったかい酒あるかなぁ」 「それも同じこと考えてました」 嬉しさが倍増して、緩んだ口元がもう戻らない。 クリスマスだからといって、こんなにたくさんプレゼントをもらってしまっていいのだろうか。 何かカカシにお返しをしないといけないような気がする。 「カカシさんは今日、プレゼントがもらえるとしたら何がいいですか？」 「プレゼントねぇ…。あー…」 カカシが何かを言いかけた。 でもそれを飲み込んだのがわかった。 「…あったかいものがほしいかな」 本当にほしいものは、イルカには言いたくないものなのだろう。 急にさみしい気持ちになった。 こんなにいい思いをしているのに、どうして満足できないのだろう。 クリスマスイブにカカシに会えて。 カカシと一緒に帰れて。 １杯飲もうと誘われて。 ないものではなく、あるものを数えたら、下降した気持ちが少しだけ持ち直した。 カカシが望むものなんて、イルカがどうこうできる範疇ではないのだ。 もしかしたら、もう手に入らないものなのかもしれない。 例えば、すでに亡くなっている人の手料理が食べたい、とか。 「イルカ先生は？ ほしいもの、あるの？」 「俺は…ほしいもの、もういただいちゃいました」 「何もらったの？」 「ふふっ」 「教えてくれないの？」 笑って誤魔化した。 本当の事なんて言えない。 あなたとの時間が最高のプレゼントです、なんて。 カカシが口布の中で、拗ねたように唇を尖らせているのがわかった。 こういう表情が見える距離にいられるのだ。 充分に幸せじゃないか。 「さっきからやけにご機嫌だったのは、そのせいですか」 皮肉めいたカカシの口調に、笑みと吐息を返した。 そこで、ちょうど通りかかった赤提灯から男女が出てきた。 交代で入れるかもしれない。 「わっ、はたけカカシっ」 驚いたような男性の声だった。 いきなりフルネーム呼び捨てとは失礼な。 ただ、カカシ本人はそれほど気にしていないようだった。 有名人だから、こういう事には慣れているのだろうか。 「すいません。さっき２人で話していたんです。今度会ったらお礼を言わないとって」 「私のこと覚えてますか」 女性の不躾な質問に、カカシの顔が曇った。 男なら一度くらい、こうして突然出会った女性にそんな事を言われてみたいものだ。 「…知らない」 カカシが冷ややかに答えると、男女が顔を見合わせた。 わずかな沈黙を挟んで、わっ、と２人が爽やかに笑った。 「２週間前、カカシさんに告白してフラれた者です」 「それを知って、彼女を口説いた者です」 「クリスマスまでに彼氏がほしくて」 「彼女をフってくれてありがとうございます」 「ありがとうございます」 男女は言いたい事だけ言って、楽しげに歩いて行った。 彼女は可能性に賭けて打席に立ったのか。 カカシはダメだったけれど、新たな相手を見つけて。 その勇気と強さが羨ましい。 告白か。 少しは見習わないと。 「なんか、すいません」 「そんな、全然。このお店、どうします？ 入れるか聞いてみますか？ やめておきますか？」 カカシが嫌なら他をあたろう。 「あんな変な奴らの事は気にしないで。聞いてみましょう」 カカシが引き戸を開けようとするので、ここは自分が率先してやらねばと思い、カカシの前に割り込んだ。 「あのー、２人なんですけど…」 「すいません、今日はもう終わりなんです」 すぐにカウンターから店主らしき人の声が飛んできた。 了解です、と応じて戸を閉めた。 それからも何軒か店を覗いたが、やはりどこも同じような状況だった。 これはいよいよコンビニ酒だな、と思い始めた頃だった。 路地の奥、建物のちょっとしたくぼみに、オレンジ色の灯りを放つ屋台があった。 「行ってみますか」 同じ事を考えていたカカシに嬉しくなった。 屋台に近づくと、それなりににぎわっていた。 椅子は埋まっている、けれど。 「座れなくても大丈夫ですか？」 「オレは大丈夫。イルカ先生は？」 「俺は全然、どこでも大丈夫です」 カカシと一緒なら。 のれんの端をめくった。 「すいません、２人なんですけど、まだ大丈夫ですか」 「立ち飲みでよければ」 念のため振り返ると、カカシが無言で頷いた。 「お願いします」 大将に伝えると、屋台の奥を差された。 重ねたビールケースに板を乗せただけの席がある。 「そちらどうぞ」 奥に移り、天板にぺらりと乗っていたメニューを見た瞬間、注文は決まった。 「オレ熱燗で」 「俺熱燗にします」 ２人の声がきれいに重なった。 さっきの男女と同じく、顔を見合わせて笑う。 「だよね」 「はい。すいませーん、熱燗２つお願いします」 大将の返事があって間もなく、把手の付いたブリキのカップ２つが届いた。 お疲れさまです、とカップを当て鳴らす。 ぐび、と３分の１ほどを流し込んだ。 ほかぁ、と一気に体があたたまると同時に早くも、くらぁ、と酔いを感じた。 毒耐性の高いカカシには、この感覚はわからないだろう。 もう一度、３分の１ほどを流し込む。 「イルカ先生、ペース早くない？ 大丈夫？」 「いいんです。大丈夫じゃないけど」 へら、と笑う。 「…ほんとに今日はご機嫌なんだね」 また、皮肉めいた口調。 イルカだけ楽しそうにしているのが鬱陶しいのかもしれない。 残りの３分の１も流し込んだ。 もう１杯頼むか迷って、ほのかなぬくもりを宿したままのカップを頬に当てる。 まだ頬のほうが冷たかった。 「ねぇ、プレゼントって何もらったの」 「秘密です」 「誰にもらったの」 「内緒です」 ずっとへらへら笑いながら喋っていたら、それまでちびちび飲んでいたカカシが急にカップを呷った。 からになったカップが天板に置かれて、カン、と軽い音がした。 やけにさみしい響きだった。 「１杯、付き合ってくれてありがと」 終わりの言葉だ、と気がついた。 「今日はおごらせて」 「そんな、今日は俺が出します」 「絶対やだ」 言い合っているうちに、カカシがそそくさと支払いを済ませてしまった。 ごちそうさま、と言ってカカシが歩き出した。 自分もカカシに倣って大将に伝え、カカシの背中を追いかける。 少し走ったら余計に酔いが回ってきた。 「すいません、ご馳走になっちゃって」 「いいえ。安いプレゼントですいませんね」 またカカシにもらってしまった。 お返しをしようと思ったのに。 「カカシさん」 呼びかけて、足を速めた。 自分にできる事は限られている。 カカシの前に立ちはだかり、両腕を広げて進路を塞いだ。 「ほしがっていたプレゼント、あげます」 酔っている自覚はあった。 というか、酔わないとこんな事はできない。 空振りでも、死球でもいいから、一度打席に立ってみよう、なんて。 「俺、体温高いんです。酔ってるし」 正面から、カカシを抱きしめた。 よけられなかった事に安堵して、ぎゅ、と腕に力を込める。 「あったかいでしょう？」 自分の行動の拙さと酔いも手伝って、じわじわと笑いが込み上げてきた。 喜ばれる事も報われる事もない虚しさから、全身全霊で目を背ける。 多くは望まない。 クリスマスイブの夜なのにどことなく不機嫌なカカシが、酔っ払いの奇行で機嫌を直してくれたら、もうそれだけで。 「ははっ…！ こんなプレゼントいらないですよね。迷惑かけ…」 迷惑かけてすみません、と冗談めかして謝って離れようとしたのに、声が出せなくなった。 骨が砕けて、肉が千切れて、体がバラバラになりそうなくらい、強く抱き締められていた。 息をするのも危うい。 しかも、殺人的な抱擁がやたら長い。 嬉しさと不可解さに混乱して、うわぁ、うわぁ、と意味のない言葉しか音にならない。 何、何、なに、なに、どうしたんだろう、何か言って。 「…他の奴が渡してるんなら何もないよりは何かしなきゃって情けないプライドでおごらせてもらっただけの、あんな安い酒１杯の対価に、体で払うみたいなこんな事しちゃダメでしょ。ずるい。なんなの。魔性なの。男の純情を弄んで」 「そん…な、つもりじゃ…な」 「２１時までイルカ先生が受付にいるって聞いたから、間に合うように必死で仕事終わらせて、でもそれ言ったらダサいからかっこつけてたのに」 「な…んで、そんな事…」 クリスマスイブの夜でも気軽に誘えるくらい気心の知れた関係だと思っていてくれたという事だろうか。 任務で頑張った人をダサいなんて思ったりしないのに。 かっこつけなくたって、カカシは充分にかっこいいのに。 「一番ほしかったプレゼントです…。ありがとう…」 カカシが呟くと、緩んでいた抱擁が再び最大級に強まった。 急だったので息継ぎに失敗して、んっ…、と鼻にかかった呻き声が小さく零れてしまう。 直後、さらに抱擁が強まった。 それでも呼吸だけはなんとか確保する。 「俺も…、ありがとうございます…。今日カカシさんに会えたのが…一番うれしいプレゼントでした…」 言うつもりなんて、なかったのに。 ひとりの受付で、あんなに切ないクリスマスソングたちを浴び続けてしまったのがいけない。 全部酔いのせい、という事にしてくれないだろうか。 抱擁の締めつけが、ぴた、と止まった。 やっとまともに息ができるようになった、と体の力が抜けた瞬間。 おそらくは世界最強の抱擁を身に受けた。 「…オレ死にそう…」 それはこっちのセリフです、と言いたかったけれど、呼吸を保つのに精一杯で、とてもそんな場合ではなかった。 |