婚活前夜 |
カカシが好きで、一緒に飲みに行ける事が嬉しかった。 会えるだけで嬉しかった。 それだけだ。 全然見込みがない事は最初からわかっていた。 だって相手は国を跨いで名を轟かせる超有名人だ。 『カカシさん、あの…今ちょっとだけいいですか…?』 女性からそんな言葉をかけられているカカシの横にいた事が何度もある。 イルカにはどの女性も申し分ないように見えたけれど、大体カカシは「これから用があるので、すいません」とやんわりと断っていた。 よかったんですか、と尋ねても、いいのいいの、で済まされる。 何度目かの時、カカシが常套句を告げる前に「机に忘れ物したんで取ってきます」と言ってその場を離れた。 気を利かせる事ができなかったそれまでの人たちに申し訳なくなった。 その時はなんとなく教員室に行って、引き出しを開けたり閉めたりして時間をつぶした。 どれくらいで戻ったらいいのだろう。 もしかして、このまま帰ったほうがいいのだろうか。 その事実に、はっとした。 急に動けなくなって途方に暮れていると、すぐにカカシが迎えに来てくれた。 今になって思えば、瞬間的に喜んでしまった自分の至らなさに反省しかない。 女性から声がかかった時にイルカがいなかったら、カカシは彼女と過ごせたのだ。 その事に気づいて以来、忘れ物をしたという嘘はやめて、「すいません、また今度にしましょう」と言って帰る事にしている。 カカシに引きとめられても固辞して。 上忍師と元担任だなんて細い繋がりは、もうなくなったようなものなのだ。 そろそろ区切りをつけないといけない。 里の誉には相応しい相手がいる。 自分にはカカシと歩む未来なんてない。 「今日あいてたら飲みに行きませんか? いつも急ですいません」 まただ。 受付という仕事場にいるにも関わらず、カカシに誘われると、ふわぁ、と浮わついた気持ちが込み上げてくる。 それを無理やり腹の奥へ押し込み、足の裏で踏みつけるようにして蓋をする。 決めた事があった。 カカシが以前、料理を極めたと話していた事があったから。 「よかったら…、今日はうちで…飲み、ませんか…」 ためらいが消えないまました提案に、カカシは戸惑うようにわずかに目を見開いた。 カカシを家に招くのは初めてだ。 唐突すぎたのだろう。 すぐにカカシが断りやすい理由を用意する。 「他人の家が苦手とかでしたら全然お店でも…」 「イルカ先生の家で飲みたいです、お邪魔してもいいんですか」 すべてを言い切る前に、取り繕うようなカカシの早口が返ってきた。 「うちでもいいんですけど、嫌だったら外でも…」 「イルカ先生の家がいいです」 「…カカシさんが、それでよければ」 「はい。よろしくお願いします」 「でしたら少しだけ、つまみを作ってみてもいいですか…?」 せめてカカシとの時間が無駄ではなかった証を残したい。 カカシの住まいと比べたら雲泥の差であろう自宅の様子に恥を晒す事になっても。 「じゃあ買い物、一緒に行きませんか? 場所を提供してもらうお礼に、費用は全部持ちますから」 カカシと買い物。 夫婦でもカップルでもないのに。 カカシを友人に含む事すら気が引けるのに。 最後の思い出にしては贅沢すぎないか。 割り勘でも申し訳ない。 むしろ、費用はすべてこちらが持つべきだろう。 刺身、焼き鳥、煮物、生野菜の盛り合わせ。 商店街の立派な惣菜を見て、すっかり消沈してしまった。 不慣れで不器用な自分が作った所で、ろくな料理にならない事は目に見えている。 「やっぱり、つまみ買って行きませんか。おいしそうなものがたくさんありますし。ひと品くらいは作りますから」 言い訳を重ねて、困惑するカカシを押し切った。 2人で食べるには充分な量を調達して帰宅する。 会計は結局、カカシが頑なに受け取ってくれなかった。 ならばせめて、できる限りのもてなしで返さなければならない。 「どきどきします。初めてお邪魔するお宅は」 部屋に上がるなり、カカシが狭い室内を物珍しそうに見渡した。 「ご覧の通り大した家じゃないので、そんなに気を張らんでください」 言いながら惣菜を袋から出していると、カカシが連携して並べたりパックを開けたりしてくれた。 一旦台所へ行き、湯のみ、皿、箸、鍋に入るだけ氷を汲んで卓へ戻る。 買った四合瓶2本のうち、純米吟醸のほうを氷鍋に埋めた。 どちらを先に飲むかは、帰ってくるあいだに2人で決めていた。 もう1本の、にごり酒の栓を開ける。 湯のみに注ぐと、とろみと空気が混ざり合って、とくとくとく、と気持ちのいい音が立った。 「いい音ですね」 「はい。好きな音です」 「オレもです。イルカ先生に教えてもらうまで意識した事もなかったんだけど、すっかり好きになりました」 乾杯前から、かぁ、と頬が熱くなった。 カカシの好きな音の話をしているのだ。 好きな人の話ではなく。 耳が、頭が、勝手に自分に都合よくカカシの「好き」とイルカを繋げようとしてしまう。 ふいに想いの一方通行さが身にしみて、惨めな気持ちが込み上げてくる。 こんな事も、今日で最後だ。 気を抜くと泣いてしまいそうだったので、カカシに押しつけるようにして湯のみを渡した。 「…飲みましょう」 気持ちの蓋を踏み固めるために、立ったまま一方的に湯のみを湯のみに当てた。 ひと口目から多めに流し込む。 乳酸飲料の気配が漂う、まろやかで優しい口あたり。 うまい。 うまい酒があれば、これから何があっても自分は大丈夫。 なんの根拠もなく、そう強く思い込もうとした。 どか、と少し乱暴に座布団に腰を下ろす。 カカシもイルカの向かい側に上品に腰を下ろし、さっそく湯のみを傾けた。 「珍しいですよね、イルカ先生が家に呼んでくれるなんて」 「ひと品でもカカシさんに認めてもらえるような料理ができれば、婚活が上手くいくかなと思って」 突然、カカシが盛大にむせ返った。 何度もゴホゴホしている。 よっぽどイルカと料理という組み合わせに違和感があったのだろう。 実際、始めたのは先週だ。 作れる料理はまだまだ少ないし、手際も悪い。 カカシがいつまでもゴホゴホしているから、さすがにタオルを取りに立ち上がろうとすると、強い力で腕を掴まれた。 大丈夫だから、との気づかいだろうけれど、タオルの1枚や2枚、なんて事はない。 「タオル、取ってきます」 そう告げると、ぱっとカカシの手が離れた。 鼻紙を使いやすいようにカカシのほうに箱を寄せ、洗面所へ行く。 タオルを取って、ついでに台所でカップに水を入れて戻った。 「どうぞ」 「…すみ…ま、せん…」 カカシは頬も目も耳も真っ赤にしている。 相当苦しかったのだろう。 こんなカカシの顔を見たのは初めてだ。 「そんな急に…。どうしたんですか…」 「以前カカシさんが料理を極めたと言っていたので、ご意見をいただけたらなと思いまして」 カカシとの関わりをちゃんと思い出にして、できれば武器にまでして、前に進みたい。 次は自分の身の丈に合った相手を探すのだ。 「そっちじゃなくて…、婚活のほう、です。婚活って、婚姻を目指してする活動の事ですよね? もう…お相手が…い、いるんですか…?」 カカシは婚活をわかっているようでわかっていない。 モテるカカシならいくらでも相手は見つかるだろうけれど、秀でた要素のないイルカのような男には、よい機会なんて滅多に巡ってこないのだ。 そんな事は活動を始める前からわかりきっている。 「…まだいません」 正直に答えると、カカシが空気の抜けた風船のようにべったりと卓に突っ伏した。 深いため息まで聞こえてくる。 そんなに呆れられるような事を言ったつもりはなかった。 仕方ないじゃないか。 本格的に動くのはこれからなのだ。 「…婚活って、具体的に何をするんですか」 「お見合いとか…」 「お見合いだけですか」 「結婚相談所に登録するとか…」 「それだけですか」 「あとは…色々な出会いの場へ行ったり…」 「それ、例えばどこですか」 「合コンとか…街コンとか…」 「…それ、オレも一緒に参加していいですか」 カカシも結婚に興味があるのか。 やけに質問を重ねてくるから、もしかしてとは思ったけれど。 今までそんな気配はまったくなかったのに。 鉤爪が心臓に食い込むみたいに胸がキリキリする。 やっぱり早く諦めるのが正解だったのだ。 「俺と一緒じゃなくても、カカシさんが本気になったらすぐに上手くいきますよ」 酒を呷った。 うまい。 ちゃんと好きな味だ。 手酌でなみなみと注ぎ足す。 勢いが足りなかったようで、今度はあの音は鳴らなかった。 自分がヘタなせいか、鳴るのはいつも口開けの時だけだった。 上手くいくのは最初だけ。 カカシとの関係に似ている。 純粋に楽しく過ごせたのは最初だけだった。 その後はいつもどこかに苦しいが紛れ込んでいた。 せっかくのうまい酒を、もう二度と飲みたくない酒にはしたくない。 「そうじゃなくて…。イルカ先生が参加するなら…行ってみたいなと思っただけで…」 「ひやかしですか」 「いえ、そうじゃなくて」 「俺は嫌です。カカシさんと一緒に参加するなんて」 優良物件のカカシにみんなが群がって、イルカなんて誰も相手にしてくれなくなる。 それに。 カカシがモテている姿をわざわざ見たくない。 カカシとは生きている世界が違うのだと、わざわざ突きつけられたくない。 そばにいるだけで邪魔者扱いされるのも、つり合わないと文句を言われるのも嫌だ。 カカシのおこぼれに預かろうとする取り巻きに思われるのも。 でも一番は、イルカのせいでカカシの評判を落として、足を引っ張るような事をしたくない。 「そんな…。オレ、イルカ先生に好かれてると思ってたんですけど…違いましたか」 「いえ…。好きですよ。カカシさんの事。俺は」 最後だからと、思い切って口にした。 声に余計な気持ちが乗らないように、できるだけあっさりとした口調を心がけて。 真意は伝わらなくてもいい。 伝わらないほうがいい。 あなたは友人として好ましい人です、という事だけで。 「でも忙しくなるので…、これからはカカシさんとも飲みに行けなくなります」 今日どうしても言いたかった事を言ったら、胸がいっぱいになった。 涙をこらえて、惣菜をつまむ。 大事に味わわないとばちが当たる。 こんな自分のために、カカシが命をかけた対価として得たお金で奢ってくれたのだ。 次々と口へ運ぶイルカとは反対に、カカシが音もなく箸を置いた。 「…イルカ先生は知らないかもだけど、こう見えてオレ、けっこう実力があるんですよ」 「知ってますよ」 カカシがカップの水を一気に飲み干した。 もうすっかりカカシの顔色は戻っている。 「収入も悪くないし、見た目もよく褒められるんです」 「知ってますって」 今度はカカシが湯のみを呷った。 そんな事は改めて言われなくても充分にわかっている。 だからカカシのほうが婚活は早く上手くいく、と言いたいのだろうか。 「…オレに、しませんか」 「ですから、俺はカカシさんとは参加したくな…」 「イルカ先生の結婚相手、オレにしませんか」 咀嚼していた口が止まった。 まだ充分に噛み砕けていない鯛の刺身を、ごくりと飲み込む。 意味がわからない。 カカシは何を言っているのだ。 「どうしてそうなるんですか…。俺は…」 気持ちに区切りを付けると決めたのだ。 そもそもイルカがカカシの結婚相手になんてなれるわけがないじゃないか。 中忍だし、容姿は平凡だし、財産はないし、子孫も残せない。 カカシにはなんの得もないのだ。 制度としては同性間でも婚姻が成立するとしても。 「イルカ先生を誰にも渡したくないんです」 「そんな…渡す渡さないなんて、子どもの遊びじゃないんですから」 「遊びじゃないです。真剣に、イルカ先生が好きで…お慕いしています」 「それは…ありがとうございます」 好かれていて、慕われているのなら、それは素直に嬉しい。 でも、イルカの好きとカカシの好きは違う。 カカシの好きは、子どもがオモチャの取り合いで負けたくないのと同じ。 いくらなんでも、イルカの婚活にまで口を出してくる事はないだろう。 カカシなら相手がたくさんいて、周りからどれだけ口を出されても選び放題だろうけど、イルカは違うのだ。 カカシの湯のみに酒を注いだ。 イルカの湯のみにも。 半分ほどを一気に流し込み、立ち上がる。 足元が少し、ふらっとした。 「…にゅうめんを作ろうと思っていたんです。お口に合わないかもしれませんが」 話を無理やり終わらせて台所へ入った。 〆の料理を出せば、お開きの合図になる。 ちょっと早いけれど、慣れていないから支度には時間がかかるし、こんな話をしたあとにカカシとあまり長くはいられそうにない。 流しで手を洗っていると、カカシも台所にやって来た。 「料理なんて、しないでください」 「俺も少しはできるようになりたいんです。協力…してくれませんか」 「協力はできません」 「どうしてですか」 「イルカ先生の婚活が上手くいかないでほしいから」 はっきりと言われた。 好きだとか慕っているなんて嘘じゃないのか。 そうでなければイルカが幸せになろうとする事を妨害したりはしないはずだ。 「…そこまでカカシさんに嫌われているとは思いませんでした。今まで気がつかなくてすみません」 この察しの悪さは、もうどうしようもない。 これまでカカシに注意された事はないから、早い段階で諦められていたのだろう。 身勝手な片想いのあまりの虚しさに、さすがに泣けてきた。 カカシを好きになってから、共に過ごす時間を経るごとに、どんどん好きになっていたなんて、愚の骨頂でしかない。 ぐっと眉間を寄せても、どんなに唇を噛んでも止められなくて、涙が頬を滑り落ちていく。 慌てて頬を拭った。 「なんでこんなに伝わらないの…」 力なく呟いたカカシに、肩を包み込むように後ろから抱きしめられた。 え? なんだこの状況。 いや、イルカの鈍感さにいよいよカカシが腹を立てて拘束されただけかもしれない。 締めつけがきつくなっても耐えられるように、体に力を入れた。 怒りに任せて暴力を振るう人だとは思わないけれど、どうせ自分はカカシの事をあまり知らない。 本当の姿なんて、イルカには見せないだろう。 歯を食いしばって、カカシの気配に神経を研ぎ澄ませる。 「最後になるかもしれないなら…言いたい事はもう全部言っておきます」 カカシの前置きに、さらに身を硬くする。 どんな罵詈雑言を投げられても精神が耐えられるように。 「…今までは任務から帰ってイルカ先生に会えるだけで満足していた所がありました。もう会えなくなってしまった人が多すぎて」 思った内容とは違ったけれど胸が、ぎゅ、となった。 自分も同じ気持ちだったのかもしれない。 カカシに会えるだけで充分だ、と。 「イルカ先生が好きなんです。結婚を視野に入れたお付き合いがしたいんです。オレの事、そういう対象として見るのは無理ですか」 えっ? なんの話だ。 好きって。 結婚を視野にって。 お付き合いって。 そういう対象って。 誰が、誰を。 「一緒に婚活に参加しようとしたのは、イルカ先生が誰かに取られそうになったら妨害するためです」 「なっ…」 「今日イルカ先生の手料理が食べられるって聞いた時は舞い上がっちゃったけど、料理上手になんて、ならないでください。婚活のために新しい料理なんて覚えないでください。オレと一緒にいてほしいから」 「ちょ、っと…待っ…」 「全部オレがやります。イルカ先生は何もしないでいいから」 好きなんです、オレじゃダメですか、イルカ先生が好きなんです。 なおも耳元で囁かれて、それを何度も繰り返されて、どんどん体温が上がっていく。 うるさいくらいに心臓がばくばくと鳴っていた。 それが、カカシが、最後に、イルカに、言っておきたい事、だというのか。 「す、すみません…。俺…そういう気持ちでカカシさんに向き合った事がなくて…」 とにかく、とても混乱していた。 だって、なんの迷いもなく自分にはまったく可能性がないと思っていた。 できるのは一時的な浅い付き合いだけだと。 カカシに何も得がなくても、一緒にいたいと思ってくれるなんて、まさかそんな事。 「そうですよね、ちゃんと言わないとわからないですよね…。これからは向き合ってくれますか。オレの事、そういう意味で意識してくれませんか」 意識するも何も。 自分と同じような意味でカカシに好かれているなんて、唐突すぎて未だに信じられない。 そんな簡単に認識を改められるわけがない。 「すいません…。あの…」 「なんですか…?」 「できれば…」 「なんでも言ってください。なんでもします」 「清算というか…ご破算というか…」 「っ…」 カカシが息を詰めた。 背中越しに強張っているのがわかる。 「やっぱり…男は無理、ですか」 「そうじゃなくてですね…。お…お友だちから…、お願いできませんか…」 カカシの力みがわずかに緩んだ気がした。 たぶん、そろそろこちらの体温上昇もカカシにバレている。 「最初からやり直したら、ちゃんとカカシさんの事…受けとめられるかも…しれないので…」 「わかりました。オレもこれからはわかりやすい言動を心がけます。1日でも早く恋人に昇格できるように、精一杯、全力で、積極的に」 カカシの精一杯って。 全力って。 積極的にって。 具体的には何も思い浮かばないけれど、なんだかとてもすごそうで、たちまち顔に熱が集まってくる。 「好きです、イルカ先生。こんなに誰かを好きになったのは初めてなんです。オレの事も早く好きになってほしいです」 いや、もう、とっくに。 明日にでも、いや今日中にでも認識が改まっていそうな気がして、自分でも自分が信じられなかった。 |