見捨てないで |
予定では19時まで待機だったのが、珍しく1時間以上も早く交代要員がやって来た。 この時間ならまだイルカが受付にいるかもしれない。 そう思ったら、勝手に足が受付へと向かっていた。 イルカとは付き合い始めて1か月弱。 正式にいうと、23日目になる。 交際1か月の記念に贈り物とかしたほうがいいのだろうか。 すっかり浮かれていて、やった事もなければやりたいと思った事もないような事を考えてしまう。 始まりのきっかけは、2人きりで飲んだ帰りにイルカに告白された事だった。 『最初はナルトが心配で様子を見ていたのが、ナルトと上忍師の先生がうまくやれているか見るようになって、カカシ先生の教え方とか、指揮の取り方とか、配慮の仕方とか、いつの間にかカカシ先生の事ばかり見るようになっていて、気づいたら好きになっていました』 容姿でも名声でも収入でもない部分を、久々にまっすぐに評価されたのが新鮮で、正直、嬉しかった。 こちらこそ、ナルトやサスケのような特殊な存在を扱っていたイルカがどんな人物なのか、最初から気になっていた。 子どもたちとの接し方の、その絶妙な距離感に、もちろん前々から好ましいとは思っていた。 というか、むしろその時点で自分には珍しく、突出した好意をイルカに抱いていたのかもしれない。 それこそイルカがカカシを好きだと気づく前から。 それが今では。 イルカを見るだけで。 イルカの匂い、声や呼吸、心音や血流を捉えでもしたら。 手に、肌に、唇に、触れたりなんてしたら、もう。 これまでに積んできた鍛錬なんて無意味なほど、体の芯がとろけるようなよろこびが込み上げて、何もかもが抑えられなくなる。 同衾できない日には、イルカとキスをする夢ばかり見て。 『お付き合い、してみますか』 イルカの告白への返答は、そんな横柄な言葉になってしまった。 好意を持っていた人から、自分が好意を認識する前に、好意を告げられるという、最高に幸せな体験をした高揚感なのか。 イルカに格好のよい姿を見せたいという青くさい自尊心のせいなのか。 カカシの不出来な返答をイルカは責めもせず、笑いもせず、目を潤ませて頷いてくれた。 こんなにありがたい事はない。 イルカは本当にすごい人だ。 思っている事を的確に言葉にできて、行動力もある。 ふいに、イルカの気配を感じた。 感知に集中すると、受付からアカデミーへ向かう渡り廊下にイルカがいた。 恥ずかしながら、それだけで頬が緩んだ。 だが、カカシの知らない男と2人で並んで歩いている。 そう気づいた時には顔をしかめていた。 「この前の、うまくいったのか…? はたけカカシに告ったやつ」 「あー…。やっぱりあのとき見られてたか」 「うん。おれも連れがいて、通りすがっただけだったけど。だから余計に気になっちゃって」 カカシの話をしているのか。 イルカに声をかけづらいじゃないか。 気配を消して距離を保ったまま、タイミングを見計らう。 「うーん…。上手くいったけど、上手くいってないというか…」 え? イルカの言葉に耳を疑った。 自分たちのあいだで上手くいっていない事なんて、ひとつもないじゃないか。 「なんだそれ」 「付き合う事はできたんだけど…。長くても…あと1か月かもしれない」 長くて「も」1か月? イルカはもっと短くなる可能性があると思っているのか。 待ってくれ。 イルカと別れる気なんて、まったく、一切、完全にないのに。 「はたけカカシって、そんなにコロコロ相手変える人だったか? 軽く付き合うとか、めんどくさがりそうだけど…」 「たぶん…俺とは興味本位で付き合ってくれたんだと思う」 そんなわけない。 隣のやつの言う通りだ。 テキトーな付き合いは面倒だからしない。 どうしてイルカより、隣のやつのほうがカカシの事をわかっているのだ。 「なんで? はたけカカシからは何もしてくれないって事? 夜…とか? イルカのお手並み拝見、的な上から目線で」 「いや、そういうのは…」 「あ、ごめん。言いにくいよな。イルカに奉仕させるだけさせて、自分がすっきりしたら終わりなのかと思ってしまった。ごめん」 ひどい。 一夜限りの相手ならまだしも、イルカにそんな事をするはずがない。 どちらかというと、丁寧にねっとりと時間をかけて抱いている。 行為のあとも、できるなら朝までくっついていたいくらいだった。 こんなにがっついているのは人生で初めてだ。 告白された当日は我慢できたけれど、次に2人で会った時にはもう我慢できなくて、体の関係を持っていた。 「あの人…そういうのはわりと…ちゃんとしているというか…。かなり慣れてるんだと思う」 慣れてなんていない。 イルカだから、好きな人とだから、毎回あんなに盛り上がってしまうのだ。 「カカシさんって、すごくモテるだろ。俺じゃなくても相手はいくらでもいるからさ…」 いくらでもいる相手の中から選べたのがイルカだけだったのだ。 イルカだって相手はいくらでもいただろう。 生徒の保護者から、年頃の相手を紹介されそうになっている姿をよく見かける。 イルカだってモテるのだ。 「それはイルカもだろ。おれはお互い様だと思うけど」 隣のやつ、なかなかわかっているじゃないか。 的外れな部分もあるが、少しずつでもイルカをフォローしてほしい。 「俺のとは全然、次元が違うんだよ…。なんかごめん…。いきなりこんな話ばっかりして…」 「いいって。気にすんな。とにかくイルカ的には、すぐにでも別れに繋がりそうな決定的な何かを感じちゃってるって事だろ」 「うん…」 別れに繋がりそうな、決定的な何か。 おそろしい言葉だった。 カカシにはまったく心当たりがないのに、イルカには見えているもの。 首筋から背中の辺りが、すぅーと急にひんやりとしてくる。 イルカを不安にさせるような事を、無意識のうちに続けていたという事なのか。 無意識が一番危ない。 自分では気づけないから、指摘されるまで改められない。 しかも、指摘されるまで何度も繰り返してしまう。 その上、指摘されたところで、すぐに直る保証もない。 そもそも、不安にさせられる相手に、わざわざ問題を指摘するだろうか。 問題行動が自発的に改善されない事が嫌になって、指摘しないまま関係を断つ事を選ぶ人も少なくないのではないだろうか。 考えれば考えるほど、出口が見つからなくなる。 もう愛想を尽かされてしまったのだろうか。 やり直す余地は残されていないのだろうか。 イルカにはいくらでも次の人がいる。 でも自分は違う。 イルカしかいないのだ。 イルカを手放す事なんて考えられない。 イルカが誰かのものになるなんて、もっと考えられない。 カカシさんさ…、と自嘲するように話し始めたイルカの声に耳をそばだてる。 「俺といても、全然笑ってくれなくて」 は? そんな事はないだろう。 逆に、にやにやデレデレしていないか心配なくらいだ。 たしかに、イルカに笑顔を向けられて、ぽーっとしている事はある。 それがバレないように目を逸らしてやり過ごした事も。 「なかなか目を合わせてくれないし…。目が合ってもすぐに逸らされるし…」 違う。 誤解だ。 「あんまり好かれてないのが…あからさまにわかっちゃってさ」 好かれていない? あからさまに? イルカが無理をして明るい声を出しているように聞こえた。 それだけでも謝りたい気持ちが込み上げてきて2人に割って入りたいのに、底なしの崖に落ちていくような絶望感に、足が上手く動かない。 距離を保ってイルカについていくのがやっとだった。 好きに決まっているじゃないか。 大好きだ。 愛してる。 そうじゃなかったら、あえて同性を抱いたりなんてしない。 格好をつけて笑いを噛みころしたりなんてしなければよかった。 照れずにまっすぐにイルカを見つめていればよかった。 自分がやると軽薄で安っぽくなるのが怖くて言えなかったけれど、ちゃんと言葉で気持ちを伝えていればよかった。 もう手遅れなのだろうか。 「でもいいんだ。こんなに尊敬できて好きになれる人は二度といないってくらいの人と付き合えたから」 それはこっちのセリフだ。 なんとか挽回の機会をもらえないだろうか。 「ダメ元だったし、これで一生分の運を使い果たしたんだろうな」 自分も同じだ。 イルカと付き合えたのは運がよかっただけだ。 たまたまイルカが気持ちを伝えてくれたから、こんなに満たされた時間がある事を知った。 「次はカカシさんみたいな特別な人じゃなくて、ちゃんと将来を考えられる相手を探すよ」 カカシとは将来を考えられないというのか。 そこまで根深いのか。 もう取り返しがつかない所まで来ているのか。 「次って。早いな。もう考えてるのか」 「フラれる事は決まってるんだから、早く切り替えないといけないかなって」 フってない。 むしろフラれるのはカカシのほうじゃないか。 まだ23日しか経っていないのに、まだ付き合っているのに、もう恋人が次の相手に思いを馳せているなんて。 「そこまでいってるならもう、すぐにでも別れ話しちゃったほうがすっきりしないか? 今日とか明日にでも」 「そう…だよなぁ…」 いよいよ足が動かなくなった。 血の気が引いていて、まったく頭が回らない。 隣のやつのとんでもない発言を、イルカは否定しなかった。 というか、認めたくないが、肯定した。 「このままずるずる続けても、つらい時間が長引くだけ…」 隣のやつのさらなる発言も、聞き取れたのはそこまでだった。 イルカがどんどん遠ざかっていく。 カカシの意識も遠のいていきそうになる。 チャクラ切れが起こる前のような感覚だった。 交戦中なら生死を分ける。 いや、かつてないほど追い詰められた状況かもしれない。 咄嗟にポーチから兵糧丸を出して飲み込んだ。 その選択は間違っていなかったようで、なんとか意識が回復してくる。 ここまで消耗している事に、まったく気がつかなかった。 徐々に思考力が戻ってきて、慌ててイルカの後を追った。 2人が階段を上ろうとしているのが見えた。 踊り場にいる所で、完全にイルカを視界に捉えた。 ひと飛びで踊り場へ上がる。 イルカがこちらを向いた。 「…カカシ先生」 付き合う前の呼び方。 どうして、今。 隣のやつが心配そうに、イルカ、と小声で呼びかけた。 2人が目を合わせ、イルカが微かに頷いたように見えた。 なんの了解を取ったのだ。 「少し、お時間よろしいですか。お話し、したい事が」 イルカの他人行儀な硬い言葉遣いに胸をえぐられているカカシをよそに、隣のやつがひとりで階段を上り始めた。 気を利かせてカカシとイルカを二人きりにしようというつもりなのだろう。 だが、彼には言わなければいけない事がある。 「ごめん、その前に」 イルカに断りを入れてから、イルカの隣にいたやつの前に出た。 「オレが至らないばっかりに心配かけちゃったみたいだけど、これからはもっとちゃんとイルカ先生を大事にするから、安心して」 なんとか声を震わさずに言えたものの、口調に必死さが滲んでいた。 それを取り繕うほどの余裕はなかった。 でも、もうこいつに用はない。 さっとイルカの前に戻る。 「オレもイルカ先生に話したい事があります」 イルカを繋ぎとめるためなら、イルカの不安を取り除けるなら、なんでもする。 イルカがあいつと話しているあいだに思った事を、情けなさも恥ずかしさも全部さらけ出して伝える。 これからは隠さずに笑うし、イルカを見つめて話すし、すごく好いている事を言葉と行動で現すから。 だから、どうか。 |