千年前から愛してる【サンプル】 |
イルカが愛用しているコップを見つめる視線に気がついた。受付に入る時には、必ず持ってくるものだ。報告書を渡され、内容を確認しているあいだも、相手の視線はコップに注がれている。 遣いに出た郊外の雑貨店で、一目見て気に入って購入したものだった。高価なものではない。形もありふれている。そば猪口を大きくしただけのような。加工もほとんどない。塗料や釉薬は使われておらず、粘土を素焼きしただけの。 報告書に確認印を押して、受領を伝えようとした時だった。 「それ…」 相手の声に顔を上げて、初めて目が合った。途端に、きゅう、と胸が締めつけられた。そのくせ心拍が信じられないくらい急激に上がっていく。頬は、ぽ、ぽっ、ぽー、とどんどん熱くなる。 目の前の人がきらきらと輝いて見えた。体が宙に浮いて、どこかに飛んでいってしまいそうだった。 何を思ったのか、相手の目が驚いたように大きく見開かれた。その直後だった。 恐ろしいほど憎しみに満ちた視線が、ひどく鋭い冷たさで向けられた。まぎれもない殺気だった。 背筋が凍りつく、という経験は後にも先にもあの時だけだった。報告書に記載されていた名前は憶えていない。ただ、装備で顔のほとんどが隠れていたのに、その険しい表情だけは今でも覚えている。 もう、三年以上前の事だ。 * * * * * 急遽引率する事になった校外学習の経路を、取り急ぎ下見に行った帰り道だった。ふいに、人里近くの山中とは思えないほどいきり立った獣の気配を感じ取った。 こちらの気配を悟られないように、慎重に進んでいく。 草木のあいだに人影が見えた。小柄な高齢男性と大きな白熊が、一〇メートルほどの距離を挟んで睨み合っている。 もっと北部にいるはずの白熊が、なぜこんな所に。 男性は軽装で、猟師ではなく山菜採りに来たような格好だった。 人を避難させるか、熊を逃がすか。 どちらが安全か迷った瞬間、じり、とわずかな足音を立ててしまった。咄嗟に男性のほうへ駆け出そうとすると、男性と熊のあいだに、すらりとした長身の暗部が現れた。 狐の面を銀髪の側頭部に引っかけるだけで、素顔を晒している。といっても、顔の左半分はほとんどが髪で隠れている。 「ちょっと跳びます」 そう男性に声をかけた暗部が、音もなく男性を樹上へと移した。 葉が生い茂った樹木なので、あの位置からでは地上で何が起きても目視する事は難しいだろう。 熊のほうを見ると、もうひとり同じ暗部がいた。分身のようだ。すでにぐったりしている熊を、大きな網で包んでいる所だった。 手際がいい。さすが、超一流の忍が集まる部隊に所属する人物だ。行動に無駄がない。 暗部の分身は、網の端を結ぶと煙になった。実体の暗部が熊に近づいていく。 するとその後方から、今度は大きな白い虎が現れた。 虎? なぜだ。白熊同様、木の葉には生息していないはずなのに。 熊の息を確認していた様子の暗部に、虎が気づいたようだった。無防備な彼の背中に、虎が突進していく。 助けに入るべきか。いや、足手まといになるだけだ。じっと身を潜めているほうが賢明だろう。 猛獣との格闘経験はない。急所もわからない。腹か、背中か、鼻か、頭か、首か。どんな術が効くのかも見当がつかない。種類も。威力も。規模も。 だからたぶん良解は、暗部にすべてを委ねる事だったのだろう。でもこの時は、頭で考えるよりも先に体が動いていた。 衝動としか言いようがない。この人を守らなければ、という強烈な使命感だった。 虎と暗部のあいだに無策で飛び出す。両腕を広げ、ぎゅ、と目を閉じる。 覚悟した。あらゆる痛みを。命が尽きる事を。 どさ、と何かが倒れる音がした。 少しずつ目を開けていく。熊の時と同じように、ぐったりとした虎を暗部が網で包んでいた。 後ろから、呆れたような溜め息が聞こえてくる。 「あんた中忍? 下忍? まさか特別上忍?」 「…中忍、です」 振り返って答えると、露わになっているほうの暗部の目が、わずかに開いた。 既視感に、どくん、と心臓が鳴った。いつかのように体温が上がっていく。足元がふわふわしてくる。 受付で一度だけ会った人。あの時イルカのコップを凝視していた人。 嬉しい。また会えた。 そう思った自分に、え? と声が出そうになった。 嬉しいわけがない。会いたかったわけがない。できれば二度と関わりたくなかったはずだ。だってあの人は、初対面の自分と目が合っただけで殺気を送ってきた。 当時の恐怖と悲しみが鮮明に蘇って、じわ、と涙が滲んだ。肩が震える。 いつの間にか暗部の目は険しく尖っていた。あの時と変わりなく。 「…余計な事しないでよ。二度と手出ししないで」 「す、みませんでした…。申し訳…ありませ…」 竦んだのどから謝罪を絞り出した。 どうしてこんな気持ちになるのだろう。任務帰りで殺気立った忍から、いわれのない憤りをぶつけられる事には受付で慣れているのに。 すでに暗部はイルカをいないものとして、樹上の男性を地上へと下ろしていた。男性に対しては、イルカに向けられた厳しさは欠片もない。 きつく唇を引き結んだ。込み上げてくるものを抑えようとして、体が強張る。 「資産家が違法に飼育していた動物が逃げただけなので、もうご安心ください。今回の件は他言無用でお願いします。他言が疑われる場合、身の安全は保証できません」 男性と、イルカにも聞こえるように暗部が言った。感情のない声だった。内容と合わせて、一般人なら脅しに相当するほどの迫力があった。 「里まで送ってあげて。それくらいはできるでしょ」 今度はイルカにだけ聞こえるように威圧的に囁くと、暗部は風の中に消えていった。 痛い。熱い。苦しい。息ができない。 それでもまだ、あちこちから矢が飛んでくる。いくつかは身をかすめ、いくつかは刺さった。 自分の周りには火が放たれ、すでに身に燃え移り、焼けた匂いがする。 わかっている。悪いのは自分だ。 自分とは違う境遇の人を好きになってしまった。愛してしまった。二人で幸せになれると思ってしまった。 こんな事になってしまったのは、すべて自分のせいだ。何の能力もないのに、体がほんの少し、他とは異なっていたから。 自分がどうなっても、あなただけは助けたかった。最後まで守りたかった。生きていてほしかった。 何もできなくて、ごめんなさい。 好きになって、ごめんなさい。 こんな姿で生まれてきて、ごめんなさい。 夢を見た。身も心もずたずたに引き裂かれるような、とてもつらくて悲しい夢だった。 前にも見た事がある気がする。いつだろう。二、三年前か。三、四年前か。 目覚ましが鳴り始めた。そろそろ起きないといけない。 薄暗い朝だった。カーテンを開けても外は曇っていて、室内までどんよりとしている。 こういう日は、いつもより慎重に行動したほうがいい。小さな悪い事でも、いつもの何倍も悪く思えてしまうから。 今日は上忍師に会って、卒業生たちの引き継ぎをする。際立った背景を持つ子も多いので、気難しい上忍が少なければいいのだけど。 上忍師と新人下忍たちの顔合わせが済んだら、自分と上忍師が一対一で話し合う事になっている。放課後の教室で、上忍師の到着順に。 その日の授業を終えると、いつ来るかわからない上忍師を待つために、教員室からいくつか仕事を持ち込んだ。 最初に来たのはアスマだった。面識があったので滞りなく進んだ。 次は紅だった。熱心に資料に目を通してくれて、気になる点を細部まで質問してくれた。 残っているのは、あと一人。紅が帰ってから、三時間ほどが経った頃だった。 「失礼します。遅くなってすみません」 申し訳なさそうに頭の後ろに手を当てて入ってきたのが、カカシだった。 すらりとした長身に、銀髪。 あの人だ、とすぐにわかった。どきどきどき、と心臓が早まってくる。 恐怖や緊張ではない。カカシに会うと、なぜかいつも胸が高鳴る。そのあとに手痛いしっぺ返しが来ると、頭ではわかっているのに。 案の定、カカシはイルカを認識した途端、漂っていた気さくそうな雰囲気を一変させた。 険しい目つき。刺々しい空気。全身で、お前が嫌いだ、と訴えてくる。そのひとつひとつが、情けないくらいにぐさぐさと胸に突き刺さる。いちいち悲しくなる。 気づかないうちに、何かカカシに恨まれるような事をしたのだろうか。 「…あんたが元担任?」 「はい…。うみのイルカと申します」 「手短に頼みます」 カカシの声は冷たかった。ドアに寄りかかって、腕を組んでいる。 これ以上近づきたくない、一秒だって同じ空間にいたくない、と言われている気がした。アスマも紅も、イルカの正面の席に座って、資料を見ながら話ができたのに。 ぎゅ、と唇を噛んだ。 この状態では、イルカのせいで子どもたちに不利益を与えてしまうのではないか。そうならないためにはどうしたらいいのだろう。 まずはこじれた糸をほどくために、カカシに嫌われている理由が知りたい。 「あの…。俺、カカシ先生に何か…」 「馴れ馴れしい呼び方しないで」 心臓が、ぎゅ、と縮み上がった。 カカシの言う通りだ。浅い面識で不躾だった。アスマや紅からは呼び方について言及がなかったから、カカシにも同じようにしてしまった。 「申し訳ありません…。以後、気をつけます」 「余計な事はいいから早く終わらせてください」 個人的な話ができるような雰囲気ではなかった。 生理的に無理、という事だろうか。イルカの顔、声、口調、仕草、雰囲気、それ以外の何か、それらを含めたすべてがカカシの癇に障るのだろうか。 「…すみません。こちらの資料に目を通していただけますか」 「あとは」 「生徒たちの事で何か質問がありましたら」 「何かあったら自分で解決します。もういいですか」 カカシの声はどこまでも事務的だった。自分の声も、自分のものとは思えないほど事務的だった。 心を殺して、心を無にして。なるべく刺激をしない事だけを考えた。この様子では、どうせ何をしたって無駄だ。今よりも嫌われないためにできる事なんて、他に思いつかなかった。 ヒュー、とわずかに風が吹いた。紙の資料が一枚ずつ、ひらひらと宙を泳ぎ、やがて一式がカカシの手元に収まった。 結局それ以上は言葉を交わす事もなく、カカシが教室を出ていった。ぴしゃりとドアが閉まる。 途端に、ぽろ、と涙が零れた。 |