そんな懊悩の繰り返しで、あれから数日間、全くイルカに会っていなかった。 受付でも、わざとイルカのいない時間帯を狙って報告を済ませた。 何とか職場復帰はしているようで、時々授業風景を見掛ける事もあった。 だが、いくら仕事に支障がないとはいえ、たぶん完全な本調子を取り戻してはいないはずだ。 あの日、最後に達した時にはイルカの意識も薄れ、体も弛緩し始めていた。 だらりと投げ出された手足は、悲しくも死者を思わせるほどだった。 あんなになるまで無理をさせた体が、そんな数日のうちに全快するとは思えない。 徐々に塞ぎ込んできた。 いくら詫びても尽きる事のない罪悪感に押し潰されそうだ。 いっその事、誰かに裁いてほしい。 そうして自分の罪を認め、罰を受け、また一からイルカとの関係をやり直したい。 その方が今より、よっぽど楽な気がした。 ふと、大好きなあの優しい笑顔を思い出して、どうしようもなく恋しくなった。 日中に任務を切り上げ、上忍待機所から外を眺めていた。 外には屋外授業を進行中のイルカの姿が見える。 「あんた、うるさいわよ」 「…え?」 のろりと振り向くと、新米上忍の紅がうんざりした顔で立っていた。 「あっちを向いては『はぁ〜』。こっちを向いては『はぁ〜』。何であんたみたいな楽天主義者が、そんな辛気臭い溜め息吐いてんのよ」 「そんなに辛気臭かった?」 「もう最上級にね」 「ああ、イルカ先生の授業、終わった」 それを聞いて、今度は紅が溜め息を吐いた。 外に向き直ると、イルカ達が校舎へ入っていくのが見えた。 小さい子ども達に囲まれて、にこにこ笑っている。 「イルカちゃんと何かあったでしょう」 背中がびくりと揺れた。 しまった。 カカシの方がよっぽど上忍歴が長いのに、迂闊にも紅の前で心中を晒してしまった。 「あんないい子、あんたには合わないわ。いいかげん、現実を見つめなさいよ」 「やっぱりそう思う?」 「当然」 「厳しいなあ」 そんな応対は上の空でしながら、考えるのはイルカの事。 子供に向ける笑顔もいいけど、カカシが一番好きなのは照れ笑いをするイルカ。 特にナルトが絡むと、途端に顔が綻ぶ。 自慢の息子を褒められた親のように。 あの顔がいつか、カカシの話題の時にも見られるようになっていればいいと思う。 「…あんた、人の話し聞いてるの?」 「んーん、聞いてない」 「ったく…」 「あはは」 と、力なく笑った顔のままカカシの体が硬直した。 イルカの気配が近付いているのだ。 こんな所に用があるのか、他の場所に用があるのか、とにかくイルカが近付いている。 そして、先ほど紅に見られたのと同様に、カカシの体がびくりと揺れた。 イルカが上忍待機所の前で止まっている。 窓から逃げようかとも思ったが、そんな事をしたらイルカにも紅にも不審がられるだろう。 控えめなノックが2回聞こえ、衝い立ての向こうにイルカの髪がひょっこりと現われた。 「失礼します。カカシ先生いらっしゃいますか?」 久しぶりに間近で聞くイルカの声はとても新鮮だった。 こんなに傍にいるのも久しぶり。 心を落ち着かせ、緊張しているのを悟られないように平静を装った。 「オレなら、ここにいますよ」 「あ…、ご無沙汰してます。カカシ先生、少し話を…」 ご無沙汰、だなんて随分他人行儀な言葉を使うじゃないか。 もう肉体関係を結んだというのに。 「ここでもいいですか?」 「あの、ここでは…ちょっと…」 「…わかりました。じゃ、外にでも行きましょうか」 「はい」 イルカと並んで歩いているというのに、何の会話もせずに人気のない廊下へ出た。 イルカも何も言わないで、静かに後ろに着いて来るだけだ。 さっきイルカが屋外授業をしていた校庭が見えるところまで来て、足を止めた。 「何でしょう」 「あの、カカシ先生、最近あまり会えなくて…、その、どうしたのかと」 「仕事が立て込んでまして」 「そうですか…」 イルカは何かを言いたげな様子で目を伏せた。 首筋にあの時の痕が薄っすらと覗いた。 あれからずっと気になっていた事を、今聞こうと思った。 「もう体は大丈夫なんですか?」 イルカの体が一瞬固まり、顔と耳が一気に赤くなった。 「…はい…」 「よかった」 平静を装っていたために、思いの外冷たい言い方になった。 本心で言ったのだが、それを聞いたイルカが急激に青くなるのがわかった。 顔を上げたイルカの唇が微かに震えている。 「…やっぱり…遊び…だったん…でしょうか…」 独り言のようにか細い声だった。 「え…」 「カカシ先生、…間違っていたらすみません。俺の事、避けてました?」 イルカの目が潤み出し、きらきらと輝いているように見えた。 夕日が当たって、更に眩しい。 「…あー…、少し…」 歯切れ悪く答えると、イルカが遠慮がちに訊ねてきた。 「どうして…避けたんですか…?」 「んー…、なんていうか…」 気まずかった、と正直に伝えられなくて、つい口篭もってしまった。 「あの日カカシ先生が言った事、…本当ですか?」 イルカは真っ直ぐにこちらを見据え、どことなく悲しそうな顔をしていた。 カカシがあんなに真剣に告白したのに、最後まで抱き合ったのに、どうしてそんな顔をして、そんな問い掛けをするのか。 「本当です。冗談なんかじゃありません。本気です」 「じゃぁどうして俺の事を避けたんですか」 「…すいません…。なんか会い辛くて…」 イルカの眉間に皺が寄った。 泣き崩れる寸前の顔でしばらく黙っていた。 「イルカ先生…」 「…あなたには…でしょう…ね…」 「え?」 声が小さい上に掠れていて、よく聞き取れなかった。 「…あなたには…わからないんでしょうね…」 何がですか、と聞こうとしたらイルカが踵を返して、来た道を戻ろうとした。 距離が開く前に腕を掴んだ。 「ま、待って下さいっ。わからないって何がですかっ?」 イルカはカカシに背を向けたままで言った。 「…好きな人に避けられるつらさが」 「…」 イルカが腕を振り払うのを逆らえずにカカシは立ち尽くした。 背が遠のくのを見つめるしか出来ない。 好きな人に避けられるつらさ…。 あれから自分がイルカに強いた行為を反芻した。 告白した当日に体の関係を持ち、それ以来一度も喋らず、会わず。 あからさまに避けたりせずに、避けているような素振を繰り返す。 された側だったら、自分に落ち度があったかもしれない、とか思うだろう。 いや、そんな事以前に、一度だけ肉体関係を持ちたいがために好きだ、恋だ、愛だ、なんて口走ったのかと思だろう。 想像だけでこんなにも不安になる。 「イ、イルカ先生ッ!」 廊下の角を曲がろうとする横顔に向かって叫んだ。 「オレはあなたを愛してます!」 大声はイルカに届いたようで、びくつきながら歩みを止めた。 驚いた顔でゆっくりこちらに振り向く。 イルカは遠目でもわかるほど泣いていた。 大急ぎで近寄り、さっと捕まえて抱き締めた。 「ごめん、ごめんねイルカ先生」 イルカは目を赤くして小刻みに震えていた。 「オレ、本当は毎日あなたに会いたい。ずっと一緒にいたい。一秒も離れたくない」 「…っ…」 「今わかりました…。好きな人に避けられるつらさ。ホント、ごめん」 完全に信じきれないのか、イルカの体から固さは崩れない。 「うそ…」 「嘘じゃありません!」 涙に濡れているのを隠すように、イルカは目を強く閉じて顔を背けた。 カカシから離れようと手を突っ張る。 「…俺は…本気だったのに…」 「違いますっ。オレだって…!」 「あなたは…遊びでしょう。わかってました…。あんな馴れた所作、常習者のものです」 「違います…」 イルカが自分で自分を傷付けるような言葉を発するのが悲しくて、それをさせた自分にも腹が立った。 じっくり力を込めて、縋るようにイルカを抱き締める。 「やっぱり俺じゃ…あなたを満足させられない…。心も…体も…」 言葉を紡ぐ毎に辛そうな顔をするイルカを、痛々しくて見ていられない。 「オレはイルカ先生じゃないとダメなのに…。本気で好きなのに…。どうして…信じてもらえないの…。どうしたら信じてくれるの…」 「嘘だ…」 「嘘じゃない!」 大声で叫んだので、驚きでイルカの体がびくっと揺れた。 「嘘じゃありません…。本当なんです…」 喉が詰まって、カカシの声まで掠れてきた。 悲しくて泣きそうになったのは、生まれて初めてかもしれない。 かつて親友が死んだ時は、自分の非力さを悔やんで泣いたから。 「信じてよ…」 顔を見られないように、イルカの後頭部に手を当てて自分の体に押し付けた。 男が泣き顔を見られるのは屈辱だ。 「カカシ先生…」 イルカの体から力が抜けたのがわかった。 泣き落としなんて、情けなくて、女々しくて、本当にどうしようもない行為だと思っていた。 それなのに実際は、やりたくもないのに勝手に発動し、結果、イルカが懐柔してくれた。 「泣いてるんですか…?」 「…ごめんなさい…。こんな汚い真似…」 イルカがゆっくりとカカシから離れた。 イルカの服の袖をカカシの目元へ持っていき、頬を伝う涙を拭った。 「ごめんね…」 「もう…わかりましたから…」 優しい言葉を掛けてくれるイルカに申し訳なくて、こんな事でしか振り向かせる事が出来ないのが悔しい。 「明日からは今まで通りに付き合ってくれますか?無視したり、避けたりしないで」 「はい、もちろんです。今からすぐに、そうします」 イルカが俯き、力なく言った。 「多分俺、カカシ先生の事ほとんど知らないと思います。だから、もっと色んな事を知って、あなたを信じる事が出来るようにしますから」 「イルカ先生に信じてもらうためなら、オレ、何でも話しますっ」 男二人で向かい合って目に涙を溜め、しかも放課後の学校の廊下での出来事。 しかし、渦中の当事者にしてみれば、時も場所も場合も関係ない。 一度切れ掛けた糸を、二度とほどけないように修復していく機会を得たのだ。 もう二度と、イルカを悲しませない。 辛い思いだってさせないし、泣き顔だって見たくない。 幸せの溜め息を吐かせると、世界に向かって誓ってやる。 |