出国日まであと3日という日に、カカシの秘書と名乗る男性から自宅に電話があった。

本人は国内業務を一気に片付けているために多忙を極めているそうで、代理という名目で用件を聞かされた。

『あさって迎えに行くから、いつでも出発出来る準備をして下さい』

最初に聞いた時、日付を勘違いしているのかと思った。

だって、あさっては出国の前日だ。

アスマという秘書に、伝言が間違っていないか聞いたけど、それはないらしい。

彼もカカシに何度も確認したそうだ。

当日に迎えに来てくれるのなら、贅沢だとは思うけど、まだ理解出来る。

目的地が同じだから、ついでに同乗させてくれるという事だろう。

カカシの真意はわからないが、一応アスマには『わかりました』とだけ答えて電話を切った。

半信半疑のまま、でももし前日にカカシが迎えに来ても大丈夫なように、準備だけは整えた。

出国の前日に、もう一度挨拶へ行こうとしていた五代目の所へも、予定より一日早く訪問した。

改めて、今までのお礼と、急に退職する事へのお詫びを告げに。

挨拶を終えて、学園長室を出て、イルカを待っていたのは、不気味なほど静まり返った廊下だった。

イルカの知っている休憩中の騒がしさなんて、最初からなかったのだとでも言うような。

アカデミーはどこも変わっていないはずなのに、授業中に堂々と廊下を歩ける自分の立場が寂しい。

少しでもいいから、生徒達の顔が見たくなってしまった。

でも時計は正直に授業の真っ最中を指していて、みんなに会えない恋しさだけが募る。

ナルトは理論とか原理とかが苦手だったけど、これからもっと難しくなる講義にしっかり付いていけるだろうか。

サスケはみんなと協力して実習に参加しているのだろうか。

何でも無難に作れたサクラには、特別得意な料理は出来ただろうか。

チョウジといのとシカマルは喧嘩ばかりしていないだろうか。

一度思い出すと、きりがない。

たったの3年間だけど、アカデミーにはたくさんの思い出がありすぎる。

元々貧弱な涙腺が、ここぞとばかりに涙を送り出して来た。

浮いた涙を袖で拭って、ぎゅうっと頬をつねる。

留学の荷物の中に、工場見学に行った時の記念写真を入れたのは失敗だったかもしれない。

見るたびに泣いてしまいそうだ。

「あー!いたー!イルカ先生ー!」

階段の前を通り過ぎようとした時、1階と2階の間の踊り場から声を掛けられた。

聞き逃すはずはない。

ナルトの声だ。

「イルカ先生!」

ナルトの後ろから、エプロンを付けたままの他の生徒達もぞろぞろと溢れてくる。

大勢で階段を駆け下りたりしたら危ないじゃないか。

注意してやろうと思ったけど、あっという間に生徒達に囲まれて、そんな気は削がれた。

「いつ帰ってくるの?」

「早く戻って来てね!」

「やっぱり行かないでー!」

取り囲まれて、真っ直ぐできらきらした目を四方から向けられたら、もう駄目だった。

ぼろぼろ零れてくる涙は、隠す事も抑える事も出来ない。

「みんな…っ、ありがと、な…」

「はい!そこまで!全員実習室に戻りなさい!」

さっき出て来たばかりの学園長室から、五代目がぱんぱんと手を叩きながらやって来た。

イルカの背後を取って襟を掴み、生徒達の輪から引っ張り出される。

「ガキ共に声掛けたのは失敗だったか…。折角来てくれたのに悪いが、騒ぎが大きくなる前に帰った方がいいな」

五代目が苦笑しながらイルカの背を押した。

細い腕のどこにそんな力があるのかわからないが、両手を広げて生徒達を堰き止めている。

イルカは後ろ歩きで彼らに手を振りながら校門へ向かった。

生徒達の寂しそうな目がイルカに集中する。

「ほら、お前ら!さっさと実習に戻れ!約束だろ!早くしないと進級させないぞ!」

五代目に押されて、ようやく生徒達が移動を始めた。

その中から、『イルカ先生』と呼び掛ける声が聞こえて、胸が詰まった。

もう『先生』という敬称で呼ばれる事もなくなるのだ。

最後に会ってから大して時間は経っていないのに、みんな随分と聞き分けが良くなった。

ホームルームでイルカがアカデミーを辞める事を伝えた時とは比べ物にならない。

子どもの成長はなんて早いのだろう。

イルカも生徒達に負けないように、向こうへ行って頑張らないといけない。

日本へ帰ってきた時、立派に成長して一人前になった生徒達に笑われないように。

イルカは目標を再認識出来た事へ感謝しながら、アカデミーへ背を向けて、前向きに歩き出した。



* * * * *



昨日、アカデミーから帰って来た後に電話があった。

またカカシの秘書のアスマという人からだった。

『明日の夕方に迎えに行くから待っていて下さい』

それもカカシからの伝言だろうから、迎えに来るのはてっきりカカシなのかと思っていた。

迎えにやって来た人を見て、ようやくそれが馬鹿な思い込みだった事に気付いた。

「よう。昨日電話したアスマだ。アンタがうみのイルカさんだな」

オレンジ色の太陽に照らされた室内で最後に見る事になったのは、大柄で野性的な男。

顔の輪郭が髭に覆われていて、スーツを着ていなかったらきっと、山小屋の管理人か何かかと思っただろう。

ちょっとしたカルチャーショックだ。

細面で色白のカカシの秘書が、それとは対照的なこういう人だったなんて。

「は…初めまして…、うみのイルカ、です…」

「ふはっ!初めまして?…そうか、そうだよな。初めましてだな。よろしく」

何が可笑しいのかわからなかったが、アスマが吹き出した。

苦笑した顔のままで、何気なくイルカの横に手を伸ばして来る。

アスマの手が掴んだのは、イルカの荷物が入った大型のスーツケース。

いつでも出られるように玄関に置いていたのだ。

アスマはスーツケースを軽々と肩に担ぎ上げ、さっさと出て行ってしまった。

イルカのアパートはエレベーターがないから、スーツケースは階段で下ろさないといけない。

急いで靴を履いて外へ出て、ちゃんと戸締りをしてからアスマを追い掛けた。

迎えに来てもらっているのに、荷物の運搬までやらせるなんて非常識な事は出来ない。

「あの!自分で!」

「気にするな。カカシから言われてる」

何でもないように1階まで下ろし、そのまま車のトランクに積み込んだ。

見た目もそうだが、中身もこんなに力強い人なら、さぞかし頼りになるのだろう。

やはり、カカシのように優秀な人物の元には、アスマのように優秀な人材が集まって来るものなのだ。

アスマが左側のドアを開けて、助手席にイルカを促す。

大人しくそれに従うと、アスマが右側の運転席に乗り込んだ。

すぐに車が動き出し、見慣れた町並みがどんどん遠ざかって行く。

「写真で見た限りではお硬そうな感じだったが、実物はそうでもないな」

「…そうですか?」

「ああ。カカシが惚れただけの事はある」

俯いて、赤くなる頬を夕日に紛らせた。

返事がしにくいような事を言わないでほしい。

失礼だとはわかっているけど、気の利いた相槌すら返せない。

「さっきはいきなり笑って悪かったな。カカシがイルカイルカってうるさいから、どうも初めて会った気がしなくてよ」

「…いえ…そんな事…」

恥ずかしくて、居た堪れなくなってくる。

でも、アスマの言っている事が本当だったら嬉しい。

表面には出していないが、イルカだって心の中はカカシで一杯だから。

アスマから漏れてくるカカシの話は貴重な情報源と捕えよう。

恥を忍んでも聞く価値があるのだと。

時折イルカが黙り込んでしまう事を除けば、アスマとのドライブは中々充実したものだった。










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2005.01.16