どれくらい走ったのかわからないが、高速道路を下りて一時停止した交差点で、アスマがとある建物を指差した。 今日の目的地のようだ。 ある程度予想はしていたが、実際に目の当たりにすると腰が引ける。 名前を聞いたり、テレビで見たりする事はあっても、決して泊まる事などないと思っていた。 空港の出発ロビーと直結していて、窓から滑走路が見える、空港から一番近いホテル。 「あと2、30分でカカシが来るから、1階のラウンジで待っててくれないか」 高級車がずらりと並ぶホテルの車寄せで、イルカと荷物を降ろして、アスマは都心へ戻っていった。 一人で心細かったけど、アスマに言われた通り、まずは1階にあるラウンジを目指す。 窓側に空席を見つけて、とりあえずそこに落ち着いた。 「あれ、イルカ先生?」 「…?…!アヤメ先生じゃないですか!」 非日常的な場所で聞こえた日常的な声に敏感に反応した。 アヤメはイルカがここに居る事に驚いたようだけど、イルカもアヤメの身なりに驚いた。 ピンク色のワンピースドレスで、細いヒールの靴を履いて、髪型もよそ行きになっている。 アカデミーで見ていた姿とはまるで別人のようで、一目では気が付かなかった。 「そんな格好で、どうしたんですか?」 「もしかして今日ご出発でしたっけ?」 二人の声が重なった。 イルカは文字通り目を奪われて、目の前に居るアヤメとは思えない素敵な女性を見つめるばかりだ。 「父の付き合いでパーティーに出席してたんです。今日はアカデミーも午前中で終わりでしたから。あの、前の席、空いてます?」 「え、ええ」 アヤメがイルカの正面のソファーに座った。 その優雅な動きは、彼女が本物の上流階級である証。 こんな女性と、今まで一緒に仕事をしたり、二人きりで車に乗ったりしていたなんて信じられない。 「昨日イルカ先生が来た時、実習室に五代目から直に内線が入ったんですよ。生徒達がすぐに実習に戻ると約束するなら、イルカ先生が来てる事教えてやりなさい、って」 「あ…。だからあんなに聞き分けが良かったんだ…」 そうしてしばらくアカデミーの話を聞いていると、周囲の視線が自分達に向けられるようになってきた。 着飾った美人と、一般庶民との組み合わせが、否が応にも人々の興味を引いてしまうのだろう。 無遠慮に向けられる視線は居心地が悪い。 この状況がいつまで続くのか不安になってきた頃、突然アヤメが玄関方面を指差した。 反射的に目を向けると、長い足を存分に使って大股で歩いてくる人影が見えた。 離れたこの場所まで、ばたばたという足音が聞こえて来そうな荒っぽい調子で近付いて来る。 行き交う利用客によって時々姿が隠れるけれど、確実にこちらを目指しているようだ。 人が大勢集まる所でも目立つ銀髪はカカシのもの。 立ち上がって手を振ろうとしたら、カカシの後ろから彼を呼ぶ声がした。 イルカの元まで聞こえるのだから、カカシにも聞こえているはずなのに、構わず真っ直ぐこちらへ向かって来る。 再びカカシの後ろから声が掛かった。 「カカシ!」 耳に付くハイヒールの高音が止まったと思ったら、それと同時にカカシが立ち止まった。 赤い爪をした細身の女性がカカシの腕を掴んでいる。 「パスポート忘れてるわ。あと…ネクタイ曲がってる」 パスポートを手渡した彼女が、カカシの首元へ手を伸ばし、さり気なくネクタイを直した。 二人の睦まじさを周りへ知らしめるような、男女間ではありがちな仕草。 「それじゃ気を付けて」 そう言って振り向いた女性は、夫を職場に送り出した後のように、颯爽と出口の方へ向かって行った。 「あれって、カカシ先生の新しい恋人ですかね?」 あの光景を見たら、10人中10人がアヤメの言葉を素直に肯定していただろう。 イルカにもそれが出来れば良かったのだけど、なけなしのプライドが邪魔をした。 「…そうかも…しれませんね…」 のどは乾いていないはずなのに、声は擦れていた。 こっちへ向かって来るカカシよりも、カカシのネクタイを直した女性の方が気になって、見えなくなるまで目で追い掛けた。 「あ!イルカ先生、すいません。そろそろ第二部が始まるので、私行きますね。留学、頑張って下さいね!」 「…あ、はい…。アヤメ先生も…」 何か縋る物が欲しくて、トランクの取っ手をぎゅうっと握り締める。 アヤメが進んだ方向からもハイヒールの高音が聞こえて、耳を塞ぎたくなった。 ついこの前、カカシはイルカの事を好きだと言って、フランスで一緒に暮らそうと言ってくれた。 何の疑いもなく、イルカ以外で付き合っている人はいないのだと思い込んでいた。 「イルカさん!」 婚約解消の話を聞いた時、カカシが『これでやっと自由に恋愛が出来る』と言った事を思い出した。 それはやはり複数の恋人を持てるという意味だったのだろうか。 深く考えた事はなかったけど、カカシならそういう事もあり得るのではないか。 「カカシ先生…」 「とりあえず、上、行きましょうか」 カカシの口調が、どこか怒っているように冷たい。 嫌な想像がイルカの頭の中を駆け抜ける。 思い出したようにまばたきを始めると、必要以上に涙が分泌された。 先を進むカカシに付いて行き、連行される罪人のような心持ちでエレベーターに乗り込んだ。 こんな時に限って、他の利用客は乗ってこない。 そのまま一言も交わさずに目的の階に到着した。 重い足と、幾分重くなった気がするトランクを引きずってエレベーターを降りると、赤いカーペットが敷かれた廊下に出た。 広くて長い廊下の割に、ドアの数が異様に少ない。 「ここのスイートは、値段が安い分、部屋が狭いから、大好きな人とべたべたするのに丁度良いんだよ」 カカシがイルカに背を向けたまま、抑揚のない声で言う。 逃げ出したくなるほど、不安になってきた。 「でもね。…好きでもない人と一緒だと、息が詰まって我慢出来なくなる」 イルカと一緒だと息が詰まる、と言いたいのだろうか。 怖くて堪らないけど、遠回しにしないで、はっきり言ってほしい。 「ああ。この部屋です」 カカシがカードキーをカードリーダーに通して、重厚なドアを開けた。 まず見えたのは、大きなベットが2つ。 奥の窓側には、ソファーとテーブルの応接セットが置いてある。 邪魔にならないようにトランクを部屋の隅に寄せて、カカシの背中を見つめる。 「ここを利用するのは2回目だけど、1回目はかなりつらかったよ。よく調べないで決めちゃってね。当日はもう1時間が限界で、結局宿泊はキャンセルしたよ」 1回目はキャンセルで、2回目もこれからキャンセルになるのだろうか。 「ねぇ。オレはイルカさんと、この部屋でべたべたしたかったんだよ?わかってる?」 やっと振り向いてくれたカカシの顔を見て、不安が口から抜けるように安堵の溜め息を吐いた。 安心したら、今度は違う意味で涙が出て来る。 溢れるほどではないけど、目に薄っすらと涙の膜が張った。 「そんな顔しないでよ…。…怒ってたのに怒れないじゃない」 「すいません…」 やっぱりカカシは何かに怒っていたのだ。 怒らせた原因さえわからないのに謝ったって、空っぽの言葉に聞こえただろう。 余計に怒らせたかもしれない。 何を言われても耐えられるように、口を閉じて、奥歯をぐっと噛み締めた。 ss top okashi index back next |