「…もう怒ってないから。だからそんな顔しないで…」 カカシの手が伸びて来て、甲でするするとイルカの頬を撫でた。 2、3度上下してから、滑り落ちるように手が離れる。 「…でも気を付けてよね。変な女に粉掛けられたりとか」 「粉なんて」 「うーそ!さっきラウンジで話してたの見たし」 ラウンジで話していたのは一人しかいない。 でも、イルカとアヤメの関係くらい、カカシだって知っているはずだ。 どうして今更、変に勘繰ったりするのだろう。 「アヤメ先生はお父さんの会社関係のパーティーに来ていて、偶然会ったんです」 「…アヤメ先生…?ああ、一楽の娘…か」 カカシはイルカの話し相手がアヤメだった事に気付いていなかったような口振りだった。 イルカでさえアヤメの身なりに驚いたのだから、交流の少ないカカシが遠目で見て、彼女を識別出来なくても仕方ない事かもしれない。 話し相手がアヤメだったと知ると、急にカカシの雰囲気が柔らかくなった。 気が緩んだように吐息を一つ落とし、スーツのジャケットを脱いでハンガーに掛けた。 カカシの習慣なのか、ポケットに入っていた物を次々とベットの上へ放り投げていく。 その中に、きれいな女性に手渡されていたパスポートも混ざっていた。 「…パスポートを…渡した人って…」 醜い嫉妬心が抑えられなくて、ついつい声に出てしまった。 カカシが眠るベットの上に、当たり前のように存在する姿が憎たらしい。 「ああ、あいつは…」 「あいつ…」 あいつと呼べるほど親しい仲の女性のようだ。 自惚れていたせいで知らなかった分、痛みがじわっと広がった。 一時的にでも現実から目を背けるために、ぎゅうっと目蓋を閉じる。 「ちっ、違う!違います!秘書です!イルカさんも電話で喋った事あるでしょう?!紅っていう奴と!」 イルカの心情を察したかのように、カカシが焦って言い訳をした。 カカシの表情と口調に現れている必死さに、嘘や建前でない事がわかる。 まず一生懸命否定してくれた事が嬉しかった。 紅という秘書なら、確かに電話で話した事がある。 美人声だった事を今でも憶えているが、声だけではなく、実物もきれいな人だった。 「お願いだから勘違いしないで!ただの秘書なんだから!オレはあなただけなんですっ」 一瞬で距離を詰められて、手を取られた。 両手でしっかり握り込まれ、真剣な目で寸分の狂いもなく目線を合わせてくる。 ひしひしと伝わって来るものを正面から受け止め切れなくて、斜め下に目を逸らした。 カカシに見つめられている頬が熱い。 イルカにとっては充分に広さを感じる部屋で、こんなにくっ付いている事が恥ずかしい。 手を振りほどこうとすると、カカシがくすっと笑いを零した。 「これからもっともっと仲良くなっていこうね」 カカシの言葉を聞いて、気持ちがすうっと楽になった。 恋愛に不慣れなイルカの事をちゃんと理解して、ペースを合わせてくれようとしている。 申し訳ないという気持ちもあるけど、感謝の気持ちの方が強い。 今はそれに甘えさせてもらって、いつか何十倍にもしてお返し出来たら良いと思う。 「…俺、頑張りますから…」 「ホントに?じゃあ、まず、一緒に風呂でも入る?」 「あの、こういうホテルって初めてなんですけど、大浴場ってあるんですか?」 「大浴場…」 手を握っていたカカシの肩が、がくっと下がった。 ショックを受けているように見えるけど、何か変な事を言ってしまったのだろうか。 「大浴場はないけど、この部屋の風呂も中々良いと思うよ」 苦笑いをしたカカシに手を引かれて、部屋の奥へ連れて行かれる。 そこにはもう一つドアがあって、開けると、広い脱衣所と広い浴室になっていた。 仕切りは透明なガラスで、窓からは滑走路が見える。 「そういえば、このホテルに結構美味しいシフォンケーキがあったなぁ」 「シフォンケーキですか?学生時代に授業で作って以来です」 「じゃ、頼もっか」 浴室から出て行ったカカシが、早速電話でルームサービスを注文した。 シフォンケーキなんて、本当に久しぶりだ。 大きく膨らむから見た目も良いし、大人数で取り分けてもしっかり食べられる。 イルカが作ったのは紅茶のシフォンケーキだったが、口に入れた時に広がるアールグレイの上品な香りは今でも憶えている。 濃厚な生クリームを乗せたら、まるでミルクティーを食べているようだった。 過去に思いを馳せていると、控えめな音でチャイムが鳴った。 「来たみたいだね」 カカシが早足で入口へ向かう。 何か話し声がしてから戻って来たカカシは、手に銀色の大きなトレイを持っていた。 表面がチョコレートに覆われて、内側のスポンジもチョコレートの色をしたシフォンケーキが、ワンカットずつ皿に乗っている。 カカシが応接セットのテーブルまで運び、そのままティーカップにお茶を注ぐ。 「いただきます」 すっかりシフォンケーキに心を奪われたカカシは、イルカが椅子に座る前からフォークを握っていた。 座った途端にフォークを入れ、慣れた手付きで一口サイズに切り、あっという間に口へ運んだ。 とても嬉しそうな顔をしてほおばっているカカシを見て、イルカもシフォンケーキにフォークを入れる。 表面のチョコレートがパリパリと割れ、しゅわしゅわと音がしそうな弾力のスポンジに辿り着く。 「いただきます」 「どうぞ、めしあがれー」 口に入れると、チョコレートのビターな香りが広がり、体温で溶けたチョコレートがさっぱりしたスポンジと馴染んで、しっとりした舌触りになった。 甘過ぎなくて、柔らかくて、シフォンケーキ独特の食感を更に引き立てている。 ふわふわのスポンジに柔らかい生クリームを付けるのもいいが、こうやって、表面をチョコレートで覆って口溶けを楽しむというのもすごく良い。 「この食感を出すには温度が大切なんだよねー。焼く時も冷やす時も」 カカシの傍にいるだけで、とても勉強になる。 フランスという国で本場の環境に浸りながら、より多くの事を学べそうだ。 カカシの淹れてくれた紅茶に口を付けると、イルカが飲みやすい甘さになっていた。 すっかりシフォンケーキに心移りしているものかと思っていたのに、細かい所まで気遣いが行き届いている。 やっぱりカカシはすごい人だ。 「明日の朝、フランスに同行する専属の秘書が来るからね。再不斬っていう無愛想な男」 カカシが二杯目の紅茶を注ぎながら、そんな事を言った。 イルカはまだ一口しか食べていないのに、カカシはもうシフォンケーキを平らげている。 きれいになった皿を眺めていると、カカシの人差し指がイルカの顔に伸びてきた。 そっと唇の端に触れ、その指をカカシの方へ戻して口へ含む。 「チョコレートが付いてたよ」 「え…、あっ、すいませんっ」 「いいえ。間接キスしちゃったー」 カカシの顔を見たまま、動けなくなった。 じわじわと頬が熱くなってくる。 カカシはイルカを見て、嬉しそうににこにこと微笑んでいる。 シフォンケーキが来た時と同じような顔だ。 イルカもいつか、シフォンケーキのようにカカシに食べられてしまうのだろうか。 「食べ終ったら、もう寝ちゃう?時差ボケ対策で」 心拍数が急激に上がって、血液の流れる音が耳に付く。 イルカの考えを見透かしたような意味深な言葉。 不慣れな自分に合わせてくれるのかと思っていた矢先にそんな事を言われると、とても心細くなってしまう。 たぶん、それが顔に出ていた。 「ごめん、冗談。…だからベットもダブルじゃなくてツインにしたでしょ」 苦笑しながら、食べて食べて、というカカシに促されて、ようやく身体が動き出す。 「冗談抜きにして、明日は朝早いから、今日は早めに寝ようね。イルカさんに起こされるのが楽しみだよ」 「カカシ先生…」 「ここって飛行機がよく見えるでしょ。ガキっぽいけど、オレそういうの好きなんだよね」 ベットに移動したカカシが、横になってごろごろしながら窓の外に視線を投げる。 心の準備が出来ていないだけで、本当は、カカシがしたい事なら協力したいと思っている。 カカシの様子だと、今夜いきなり何かが起こる事はなさそうだけど。 「俺も好きですよ」 照れたようにへらっと笑ったカカシが愛しい。 目の前にあるだけでも、カカシの事とか、お菓子の事とか、独立の事とか、頑張る事はいっぱいある。 でも、カカシが味方にいてくれるという心の支えがあれば乗り越えられる気がする。 希望と不安が混ぜこぜになった第一歩。 まずは明日、旅立ちの一日目が始まる。 ss top okashi index back □mail□ |