両親が亡くなってから休業していた魚屋の営業再開を決意したのは、アカデミーの中等部の頃だった。 強い忍者になって大切な人を守りたいと入学したのはいいが、木の葉の歴史や伝統を学んでいる内に家業の事が気になって仕方がなくなった。 にぎわう商店街で、ただ一軒だけシャッターの閉まっていた『うみの』。 大通りの喧騒に水を差してしまうのが嫌で、出入りする時は、閑散とした脇道にある裏口を使った。 遠くに威勢の良い声を聞きながらドアの鍵を開け、ひんやりした自宅の物悲しさに毎日唇を噛んでいた。 発展を続ける商店街で時間は機械的に流れ、『うみの』だけが取り残されていく。 やがて『うみの』はイルカ自身の姿と重なるようになった。 悲しみと寂しさから抜け出せないイルカと、活気ある商店街で営業を停止したままの『うみの』。 魚を並べる台も、業務用の冷蔵庫も、空っぽのガラスケースも、日の当たらない店先ではただの黒い塊だった。 せっかく両親が遺してくれた物なのに、すっかりぞんざいに扱われている。 そしてそれはイルカ自身にも言える事だった。 自分を大切にしないで、いたずらをしたり無茶な事をしたり。 両親を大切に思うなら、『うみの』もイルカ自身も大切にしないといけなかったのだ。 イルカはその翌日から一週間アカデミーを休み、営業再開に向けて本格的に店の整備を始めた。 * * * * * 中等部を修了してすぐに店を始めるつもりだった。 でも、経営の事などは高等部で学ぶ事もあるというので、高等部まで修了して、やっと営業を再開する事が出来た。 3年目ともなれば、魚の事はだいぶ解かるようになってきたし、消費者の希望も掴めるようになってきた。 売上げも軌道に乗って、兼務していたアカデミー講師の仕事と両立して、毎日が充実していた。 「いらっしゃい!今日はカンパチとカツオの良いのが入りましたよ!」 こうやって接客する事にも馴れて、主婦との値引き合戦に右往左往する事もなくなった。 基本的にほとんどのお客さんが主婦なのだけど、時々独り暮らしの男性も買いに来る。 数ヶ月前に近所に引っ越してきたという独り者の男性も、珍しい常連さんの一人だった。 しかも、一人では食べきれない量を高級品ばかり選んで頻繁に買って行く変な人なのだ。 服装からして忍者の方のようだけど、醸す雰囲気がのんびりしていて、張りつめた戦場に赴くような人には見えなかった。 でも噂では、その人はかなり優秀な上忍なのだという。 量の事は別にして、高給取りの上忍さんなら高級品を好む事は頷けるし、それを頻繁に購入する事も経済的に可能だろう。 しがない魚屋で、時々はアカデミー講師になるイルカには、とても真似出来ない贅沢な話だ。 「すいません、今日は何か良いもの入りましたか」 「いらっしゃい!…あ、どうも!いつもありがとうございます!」 馴染みの口調で声を掛けられ、条件反射で挨拶をしたのはいいが、顔を見ただけでは誰なのかわからなかった。 大体のお客さんの顔は覚えているのだけど、一人だけ例外で顔全体を見た事がない人がいたのだ。 癖の付いた銀髪と、耳に残る男前声とが、その人を識別する要点だった。 いつもは支給服を着ていて、顔のほとんどが布に覆われている忍者の方。 今日は普段着で、顔には左眼に眼帯がしてあるだけだったから、外見ではわからなかった。 「カンパチとカツオの良いのが入ってます!どうですか!」 「ああ…、じゃあそれと…、…真鯛と…あと、マグロの切り身を頂けますか」 「はい!ありがとうございます!ただ今ご用意します!」 店の奥へ引っ込んで、発泡スチロールの箱に氷を詰める。 タイのお頭付きなんて特別な時ぐらいしか使わないのに、このお客さんにとってはシシャモやシャケと同じような食材なのだろう。 店先に出ている時は買って行く事が多い。 タイが好きなのかもしれない。 頼まれた品を全て一箱に詰め、表で待っている彼に見せてから蓋をする。 金額を伝えて支払いが終わると、彼はいつもにこにこして帰っていった。 「ありがとうございました!」 その彼が、中々その場から動こうとしない。 まだ気になる魚があるのだろうか。 「他にもお包みしますか?」 「いえ大丈夫です…。あのっ、オレははたけカカシといいます。こ、今度一緒に食事でもどうですか」 「え…」 カカシと名乗ったお客さんは、色白の頬を薄っすら赤く染めていた。 両手で抱えるほどの大きな発泡スチロールの箱を持って、真剣な目でイルカを見つめている。 「あ、いや、その…。…あ!オレ刺身以外の魚料理を余り知らないんです。今度教えてもらえませんかっ」 支給服を着ている時は年齢不詳だったが、素顔から推測するとイルカより少し上ぐらいだろうか。 突然の打診に、何と答えたらいいのかわからない。 「時間のある時でいいんです。駄目ですか…?」 商売以外で初めて言葉を交わした人から、一方的な要求を受け入れる義務はないと思う。 ただ、魚屋の性分なのか、魚料理を教えてほしいと言われたのは正直嬉しかった。 魚好きな人に悪い人はいない。 「魚は煮るのも焼くのも旨いですからね。わかりました。お教えしますよ」 「本当ですか!よかった…。早速ですけど、いつなら大丈夫ですか?」 手帳に書いていた予定を頭に浮かべ、直近の空白を見つけた。 「今度の日曜なら」 「日曜ですね!わかりました!約束ですよ、日曜日!」 確認するように何度も繰り返してから、カカシは商店街の人込みの中へ消えていった。 イルカは魚屋とアカデミー講師だから日曜は定休日だが、上忍のカカシは日曜は休みなのだろうか。 断らなかったという事は大丈夫なのだろうけど。 最近の若い人で魚料理を習いたいなんて殊勝な人だ。 忍びを辞めて小料理屋でも開くのだろうか。 だとしたら、イルカも本腰を入れて臨まないといけない。 アカデミーで新しい授業をする時のように、しっかりと事前準備を整えよう。 いつも高価な魚を買ってくれる上客へ、お返しの意味を込めて。 * * * * * 独り暮らしと聞いているが、カカシが一度に買って行く量だと十数人前の魚料理が出来る。 それを一人で消費していたのなら、見掛けによらず物凄い大食漢なのだろう。 もしかすると、魚を主食にしているのかもしれない。 そうすれば、異常な大量購入も頷ける。 たんぱく質が豊富で余計な脂肪分が少ないから、筋肉を組成するには肉よりも適している。 骨ごと食べられる小魚はカルシウムも豊富だし。 成長期の子ども達には特にたくさん食べてほしい。 日曜は市場が休みだから、土曜に仕入れた良い魚をカカシの授業用に取っておいた。 しかし、あんなに唐突に約束をして、本当にカカシはやって来るのだろうか。 休業日は締め切っているシャッターを、カカシがいつ来てもいいように半分だけ開けてはいるのだけど。 「こんにちはー」 表から声がして、慌てて店先へ出た。 のんびりしていても変わらない男前声はカカシのもの。 本当にやって来て、少し驚いた。 「いらっしゃいませ、はたけさん」 「あー、カカシって呼んで下さい」 「え、いいんですか?馴れ馴れしくないですか?」 カカシは機嫌良さそうな顔で首を振った。 「じゃあ俺の事はイルカって呼んで下さい」 そう言うと、更にカカシは嬉しそうな顔をした。 「イルカさん」 「はい」 「オレの事も呼んでみて下さい」 「…?カカシさん?」 「…今日はよろしくお願いします…」 笑みを必死に噛み殺しているようで、口から出る声が小さい。 カカシが手を伸ばして握手を求めてきたので、イルカも手を伸ばしてその手を握り返す。 握った途端、空いていたカカシの片手もイルカの手に重なり、両手でカカシに手を握られる事になった。 あっけに取られて為すがままになっていると、カカシの片手が離れ、左眼を覆う眼帯へ移動した。 もったいぶるようにゆっくり眼帯を外し、人差し指で左眼を指差す。 「写輪眼なんです」 カカシが秘密を告げたいたずら小僧のように微笑んだ。 言われた真実にも、初めて目の当たりにする眼にも驚いた。 でも一番驚いたのは、余りにも端整なカカシの素顔。 イルカの頭の中は真っ白になっていた。 |