体を近付ける事で、言葉に出ていないカカシの意思のようなものが伝わってくる。
そこに悪意の類は一切感じない。
ふっと息を吐いて肩の力を抜く。
緊張の糸が切れたようで、急に目頭が熱くなった。
そうするともう、次から次へと涙が溢れて止まらなくなる。
すぐに雫が零れ、塩水が左目の下の傷に染みた。
「…い、たっ…」
殴られた頬も、じくじくと痛みがぶり返してきた。
泣いてもいい場所をカカシに提供してもらった気がして、殴られた時に感じた恐怖や混乱も、今頃になって涙に転換される。
「…ごめんね…。全部、オレが悪い…」
カカシの拘束が強くなり、手のやり場に困って白衣の脇を掴んだ。
「あの場でいきなり…彼女に復縁を迫られて…。断ってもしつこくて…それで、あなたの名前を出したんです」
キャンパスでカカシと目が合ったと思ったのは、勘違いじゃなかった。
カカシは咄嗟に、あの場にいたイルカの名前を口にしたのだ。
まさか、こんな事になるとは思わずに。
自分ではこれまであまり幸運な方ではないと思っていたけれど、こんな不運があるならまだ易しい方だった。
だって、イルカと同じように幼い頃に両親を亡くした子どもなんて、世界中にたくさんいる。
でも、今回のような出来事に遭遇した人は、きっと世界中探してもそんなにいない。
「…俺が居合わせたのも、いけなかったんですね…」
惨めさいっぱいの涙声が情けなくて、耳を塞ぎたくなった。
無自覚に呟いた事を悔やむ。
慰めるようにカカシが傍にいるから、つい吐露してしまったのだ。
「それは違う!あなたは悪くない!オレが…、オレがあなたを好きだって言ったから、彼女が怒ってあんな事を…」
復縁を迫ってきた相手に、そんな下手な言い訳を作ったら逆効果だろう。
女性と交際した事のないイルカでも、そのくらいの事は解る。
「…そんな嘘なんて吐かないで本当の事を言えば良か…」
「嘘じゃない!オレがあなたを好きなのは本当なんですっ…!」
信じてよ…と、か細い声で続けたカカシにイルカは目を瞬かせた。
聞き違いや幻聴で済む範疇は軽々と越えている。
他人の言葉を簡単に信用してはいけないと心に誓って生きてきたから、人一倍イルカは偽りを見抜く耳を養ってきたつもりだったけど。
その耳が、こんな時に限って上手く機能してくれない。
カカシの偽りを見抜けない。
「え…?え、…えっ?」
カカシの顔を窺おうと、掴んでいた白衣の端を引っ張った。
しかし、拘束は強くなる一方で、余計に体が密着する。
窮屈な体勢でも、とにかく目尻に溜まった涙を払った。
「こういうの気持ち悪い?軽蔑しますか?」
カカシの問い掛けに、正直に答えてしまうのが恐かった。
人との接触は苦手だったのに、こうしてカカシに抱き締められるのは大丈夫なのだ。
嫌な気持ちにならないし、手を払いのけてもいない。
混血の生徒の親と挨拶でハグをしたり頬にキスされたりする時でも、少しはそういう気持ちになってしまうのに。
黙ったまま抵抗しないイルカを、カカシはどう思っているのだろう。
「ずっと、優しくします。大切にしますから…。オレの恋人になって下さい…」
「こっ、恋人っ…」
「オレの事きらい?オレじゃ駄目ですか?」
「まっ、…ちょっと待って下さいっ…」
カカシは本気だ。
なんだか、さっきとは違う意味で泣きそうになってきた。
恋愛対象者の性別も何もかもが自由で偏見の少ない国をよく知るカカシだから、こんなにはっきり自己主張できるのだろう。
でも、そういう事に慣れていない国の人もいる、という事を忘れないでほしい。
特にイルカは、今まで一度も交際をした事がないのだから、こんなに一方的に詰め寄られると狼狽えてしまう。
「…俺っ、初めてなんです、こういうの…!」
泣きそうなのを耐えて大きめの声を出すと、口の端がぴりりと痛んだ。
そのおかげで、カカシもようやく少しだけ身を引いた。
今まで見えなかったカカシの顔が、鼻先数センチの距離に現れる。
いつ、どこで、誰が見ても美しい顔。
イルカは自分の顔を思い浮かべて、頭の中で見比べてみた。
どうやったってカカシとは釣り合わない。
並んで歩いても、イルカではカカシの腰巾着ぐらいにしか見えないだろう。
年上のカカシに勉強を教えられるほどの学力もないし、経済的な支援が出来るほど裕福な生活もしていない。
これだけカカシに無益な条件が揃っているのに、よくイルカなんかに交際なんて申し入れたものだ。
たぶん世間の良識からいっても、ここは断るのが妥当なんだと思う。
でも。
嬉しいと思ってしまったこの気持ちは、どう整理すればいいのだろう。
「…どうしたらいいのか…解らないんです…」
一端離れたカカシの顔が、傾げた状態で殊更ゆっくりと接近してくる。
「キス、したら解るかも…」
間近に迫ってくる顔を見ていられなくて、何度もまばたきしながら、とうとう最後に目を閉じた。
引き結んでいるイルカの唇に、ふわふわした柔らかいものが触れる。
この感触。
さっきカカシに口端を手当てされている時にも、似たような感じがしたような気がする。
その時はすぐに離れていったけど、今度はそうはいかなかった。
息が苦しくなってきて唇が震える。
心臓がどきどきと煩い。
白衣の裾を握る手に力がこもる。
もう駄目だと思った時、ようやく、小さな音を立ててそれが離れていった。
この音までが、さっきと同じに聞こえた。
「…っは」
大きく息を吸い込んで目を開けると、夢でも見ているような目でぼんやりとイルカを見ているカカシの顔があった。
生理的な涙でぼやける視界を手の甲で拭う。
やがてカカシの目が現実へ戻って来て、ごくり、と咽喉仏が上下した。
「…どう、でしたか…?」
質問の答えを探しているうちに、イルカの顔にどんどん熱が集まってきた。
これが、キス。
カカシとキスをしてしまった。
しかも、イルカには初めての。
「オレはすごく気持ち良かった」
イルカを見据え、カカシが真顔でそんな事を言った。
「お、俺は…」
正直言うと、よく解らない。
気持ち良いとか、気持ち悪いとか、そんな事を考える余裕はなかったから。
結局は言いあぐねて目を伏せる。
そこに再びカカシの顔が近付いて来て、下から覗き込まれる角度で唇が重なった。
温度の上がったカカシの唇に驚き、イルカの唇に僅かに隙が生じた。
そこを狙ったかのようにカカシの舌が入って来ようとして、イルカはぐっと歯を食いしばった。
カカシはそんな事に構わず、歯列を舌でなぞってくる。
その瞬間、背筋にぞくぞくしたものが走り抜けた。
すぐさまカカシの胸を押し返して腕を突っ張る。
唇が離れると、顔だけでなく体全体が火照り始めた。
「どう…?」
俯いているイルカの頭より高い位置から、静かな声で尋ねられる。
やっとイルカにも、一つだけ答えられる言葉が見つかった。
それが正しいのか、間違っているのかは解らないけれど。
「…ぞくぞく、しました…」
カカシから何も返事がないので、様子を窺おうと少しずつ顔を上げていく。
そこで急に肩を掴む手に力が掛かり、素早く引き寄せられた。
カカシの肩に顔が埋まる。
「もう、勘弁してよ…。なんてこと言うの…」
ぎゅうぎゅうに抱き締められた。
いかにも嬉しさを噛み殺しているカカシの口調に、イルカの答えが間違っていなかった事を確信した。






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2008.11.16