夏旅行最後の夜、ハヤテはオーナーの息子さんのゲンマという人の部屋へ行って、戻って来たのは深夜になってからだった。
1日行動を共にして、随分と親しくなったらしい。
そこまでは何となく聞いていたけど、まさか、翌日一緒に下山するほどの仲になっているとは思ってもみなかった。
そして、隊列でもゲンマは当然のようにハヤテの隣を陣取る。
イルカ一人が置いてけぼりにされたような寂しさが、ふと胸をよぎった。
部員が次々と山道へ入っていくのを呆然と見送っている自分に気付き、慌ててイルカも足を前に踏み出す。
「病み上がりって事を忘れないで下さいよ」
すっと現れたカカシが、ぽんと肩を叩き、さり気なくイルカの横に付いた。
イルカの隣にあった空席が、あっという間に埋まる。
カカシが来た事で、心に吹き込んでいた冷たい風まで遮断されたような錯覚が起きる。
初日から頻りにガイと組む事を嫌がっていたカカシが、ただ前列に空きが出来たという理由で繰り上がって来ただけかもしれない。
発端は何でも良かった。
「あ、ありがとうございます」
純粋に嬉しいと思ったから、その気持ちを素直に言葉に出した。

* * * * *

大学生になって初めての夏休みは、サークルの旅行だけがイルカの行楽になった。
アルバイトばかりで何も出来なかった高校生の時よりは、大きな進歩と言える。
前期にあれだけ出くわしていたカカシとは、試験を界に全く顔を合わせなくなった。
時々出席するサークル活動でも、カカシの話題は出なくなってきた。
テニス部の副責任者をあっさり辞めるぐらいだから、温泉同好会もあっさり辞めていくのかもしれない。
カカシがナルトの家を訪ねる回数も減っていて、もう何週間も彼と遭遇していない。
入学から半年経ち、浮き足立っていたものが段々と落ち着いてきたのだと思う。


いつものようにイルカが一人でキャンパスを歩いていると、この大学では珍しく、白人で金色の長髪を靡かせた青い目の女性とすれ違った。
歩いているだけで目立つ彼女に、道行く学生達の視線が集中する。
他の学生のように不躾な目で見る気にはなれず、イルカは何の感慨もなくさらりと通り過ぎた。
それから間もなくして、イルカの後方で、素晴らしい発音の英語が大声で聞こえてきた。
何事かと思って振り向くと、さきほどの女性が、人目を憚らず一人の男性に抱き付いて話し掛けている所だった。
彼女が抱き付いた勢いで、衆目を集めている男性の顔は隠れている。
男性と一緒に歩いていた学生達は、彼から少し離れた所で事の成り行きを眺めていた。
その一団全員がたまたま白衣を纏っていたので、普段着の女性が余計に際立つ。
学部は解らないが、実験をする分野の学生なのだろう。
抱き付かれていた男性が女性をなだめながら、他の白衣の学生達に何事か告げると、彼らは男性一人を残して先に行ってしまった。
その時、仰け反っていた男性がやっと体勢を立て直したので、イルカにも色男の顔を拝見する事が出来た。
ぼんやりと、留学経験者なのだろうなあとは思っていたけど、まさか知っている顔が現れるとは思っていなかったので驚いた。
金髪の女性と抱き合っていたのは、あのカカシだったのだ。
カカシは周りをさっと見渡し、女性を近くのベンチへと誘導した。
一瞬だけイルカと目が合ったような気がしたけど、きっと勘違いだろう。
以前、カカシがナルトに『チャラい』と言われていた事を思い出した。
実際に目の当たりにすると、結構インパクトのある出来事だった。
もしナルトが似たような場面を目撃したのなら、変なトラウマになっていなければいいが。
キャンパスを歩いている学生のほとんどが、カカシと金髪女性に目を奪われている。
これだけ目撃者がいれば、明日には大学中がカカシの噂で持ち切りだろう。
元から噂の多い人だから、あまり代わり映えしないかもしれないけど。
つくづくカカシとは、同じ大学に通っていても住む世界が違う人なんだと思い知らされる。
山小屋で優しくしてくれた事を思い出して、少し淋しくなった。
久しぶりにカカシを見掛けたせいで、余計な感傷に浸っているのかもしれない。
振り切るように正面に向き直り、力強い足取りでイルカは再び歩き出した。
数歩進んだ所で、後ろからトントンと肩を叩かれる。
昔、道を歩いていて落し物をした時に拾ってくれた人が、今と同じように肩を叩いて知らせてくれた事があったので、イルカは何の気負いもなくその呼び掛けに振り向いた。
パーン、という乾いた音が、イルカの視界に金髪が映り込むのと同時に響き渡る。
音の発生元からの衝撃で、ぐらりと目の焦点がぶれた。
次の瞬間、強烈な頬の痛みがやって来て、微かな血の匂いが鼻を掠める。
平手で叩かれた頬を両手で押さえ、崩れるようにしてその場に膝を付いた。
事態が全く飲み込めない。
混乱しているイルカの頭上で、カカシと金髪女性が英語で激しい口論を始めた。
他の学生が大勢いるにも関わらず、その中からたまたまイルカが二人の痴話喧嘩に巻き込まれたという事だろうか。
何も出来ずに呆然としていると、誰かがイルカに助け舟を出してくれた。
「イルカさん、医務室行きましょう」
聞いた事がある声だったので、その人に促されるままに立ち上がった。
力が入らなくてふらつく体を支えながら、人目を避けて素早くその場から逃がしてくれる。
「これ、当てて下さい」
手渡された缶ジュースを、言われた通りに左頬に当てる。
何も考えられず、ただ足を動かしていると、いつの間にか構内に入っていて、いつの間にか医務室の椅子に座らされていた。
イルカの知っている安全な場所に来た事で、ようやく我に返る。
医務室を慣れた様子で動き回る人が、イルカをここまで運んでくれた人。
まず最初に氷の入った透明なビニールを渡され、患部を冷やすように指示される。
そして、猫のような目をした細身の男が、清潔そうな銀色のトレイを持って、イルカの正面に腰を下ろした。
「先輩の事、悪く思わないで下さいね。誰だってティーンの頃は無茶したりするじゃないですか」
解るような解らないような事を言われ、目の下辺りに脱脂綿を当てられた。
消毒液特有の匂いと、ぴりっとした尖った痛みに顔をしかめる。
不意に、家庭教師をする前のアルバイト先でカカシに手当てをしてもらった時の記憶が蘇る。
「俺…、何が起こったのか、よく解らなくて…。あの…、無茶って…?」
「…えっ…?…ああ!英語っ…。あ、いえ…。今の事は忘れて下さいっ」
ヤマトの表情がころころと変わる。
一体、何だというのだ。
目元の脱脂綿が唇の周辺に移動して、そこからも尖った痛みが起こり、意識が痛みへと向いてしまった。
それだけでなく、突然ガラガラと大きな音を立てて開いた扉にも注意を逸らされる。
息を切らしたカカシが緊迫した顔で現れ、こちらを見るなり表情を一変させた。
悲しそうな顔をして、ゆっくりと歩み寄って来る。
「先輩、イルカさん英語…」
「ありがと、テンゾウ。あとはオレがちゃんとするから」
「こっちではヤマトですって…」
ヤマトが椅子から立ち上がり、カカシが大仰に開けた扉から静かに出て、静かに閉めて行った。
カカシと二人きりでいる部屋の空気は、しんと張り詰めている。
空いたばかりの席に座ったカカシが、ヤマトが用意したものの中から一つの容器を手に取った。
プラスチック製の容器には、糊状の塗り薬が入っていた。
少量を指先で掬い、カカシがそれを手の平で薄く延ばしている。
すらりと細長いカカシの指に見入っていると、今度はそれがイルカの顔に近付いて来る。
カカシの人肌に温まった塗り薬が、過敏になっている傷口に触れた。
何かを塗られているというよりも、優しく肌を撫でられるような触覚に肩が震える。
味わった事のない感覚に耐え切れずに瞼を閉じると、カカシの指が口の方へ移動して来た。
左側の口端を何度も指の腹で撫でてから、唇の輪郭を辿るように指先が動く。
肩の震えが唇まで伝わり、カカシの指が不規則にくっ付いたり離れたりする。
寒くもないのに鳥肌が立ち、更にきつく目を閉じる。
指が唇から左頬を辿り、痛みの残るそこをふわりと包み込んだ。
それと同時に、イルカの唇にカカシの指とは別の、何か柔らかいものが触れた。
何だろうと思っているうちに、小さな音を立ててそれが離れて行く。
「ごめんね…痛いよね…ごめんね…」
耳元から聞こえた弱々しい声に、恐る恐る目を開いていく。
左肩に重みを感じ、そちらを向こうとする首が途中まで行って止まった。
間近に見えた銀髪と、力強い両腕に挟まれた自分の体。
カカシに抱き締められている。
その体温の心地良さに確かな安堵を覚え、全てをゆだねてしまいたいと思った。






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2008.11.06