年末の不幸せ 毎日が忙しない師走に、イルカの住んでいるアパートの取り壊しが決まった。 古い建物だから寿命が来ていたのだろう。 でも、何もこんな時期に取り壊す事はないのではないか、と思わずにはいられなかった。 仕事の合間を縫って引っ越しだけは終わらせたが、もう手持ちの資金が底を突いている。 忘年会に新年会、年越しの準備に正月の支度。 年末年始は色々と出費がかさむというのに。 日頃から節約は心掛けていたが、しばらくは今まで以上の質素な生活になる。 外食は絶対に禁止で、光熱費にも気を遣って過ごすのだ。 「…はぁ…」 愛想良くしなければならない受付勤務には馴れているが、つい重い溜め息が零れてしまう。 イルカの生活水準を下げて暮らす事は、自分が我慢するだけで済むので一向に構わない。 本当につらいのは、折角のカカシからの誘いを断らなければならない事だ。 カカシとはナルトを介して知り合ってから、何度も食事や酒席を共にしている。 誘われれば、ほとんど断った事がなかった。 それが、今では何回連続で無下にしてきたか解らないほどだ。 断る度に、もう二度と誘われなくなるだろう、と覚悟している。 少しは親密になれたと思っていても、こんな無情な事を続ければ、自然とカカシはイルカから離れて行く。 好きな人と過ごせる筈の時間が、今イルカの不甲斐なさのせいで失われようとしている。 イルカの現状を知ったら、カカシは間違いなく援助を申し出てくれるだろう。 それが解っているから、どうしても言えなかった。 カカシとは、財産や権力の絡んだ上下関係ではなく、人間として対等で在りたいのだ。 もちろんカカシは上忍でイルカより収入が高い。 それでも、同じ里で生まれ育った者同士、せめて人間としてぐらいは近い存在でいる事を許して欲しいと思う。 今までは飲食代には困らなかったからカカシとの関係が続いてきた。 裏を返せば、好きな人と一緒にいるためにはお金が必要だったという事だ。 もうその時点で、カカシとイルカとでは分不相応な縁だったのかもしれない。 「…はぁ…」 「お疲れ様です、イルカ先生」 いきなりイルカの溜め息の後に続いた声に、呼吸する事を忘れた。 報告書を持ったカカシの手が、視界一杯に広がっている。 「お、お疲れ様です…。ほ、報告書…お預かりします」 目が合わないように気を付けながら徐々に顔を上げ、カカシの口布が見えた辺りで視線を下げた。 受け取ったばかりの報告書に逃げ場を求める。 そのくせカカシの視線が気になって、報告書の確認が覚束ない。 知らず知らずのうちに唇を噛み、眉間には皺が寄り始めていた。 「…あー、イルカ先生。今日、もし空いてたら、久しぶりに食事でもどうですか」 諦めと安堵が、交互にイルカの心を掻き乱す。 断る理由はいつも同じ。 カカシなら、イルカが言う前にもう勘付いている事だろう。 「すみません…。今日も仕事で遅くなりそうですので…」 「そうですか、わかりました。報告書は大丈夫でしょ。じゃ、失礼します」 準備していた言葉を機械的に続けたような冷たい声。 カカシは余韻も残さず、さっと踵を返して受付所を出て行った。 その後ろ姿をしっかり目に焼き付ける。 今日のカカシは明らかに今までとは違った。 とうとう恐れていた日がやって来てしまった事を悟った。 * * * * * カカシには仕事で遅くなると言いながら、7時過ぎには職場を後にした。 裕福な頃なら、待ち合わせをしてカカシと食事に行っている時間帯。 それすら、もう随分と古い記憶のようだ。 カカシとの思い出が、イルカの意思とは関係なく、否が応にも深い所に埋もれていく。 それは悲しい事じゃない。 むしろ、イルカが着実に環境の変化に適応しているという喜ばしい事なのだ。 イルカが生活する上で必要な記憶は、カカシの事よりも、新しい帰り道や近所の商店街の事。 先月までは左折していた道を直進するとか、本屋の脇に自動販売機があるとか。 通い慣れない道は歩いているだけで寂しかったけど。 「イルカ先生。今、帰りですか」 「か、カカシ先生っ」 「仕事、早く終わったんですね。丁度良かった。これから一緒にメシ食いに行きましょうよ」 突然の事に驚いて、不躾にカカシを凝視した。 道端で会うなんて珍しい。 最近では受付でしか顔を見ていなかったから尚更。 一呼吸置いてカカシの言葉を反芻した。 慌てて体裁の良い断り文句を考える。 「…あっ、明日も朝から任務があるんじゃないですか。折角ですけど、今日は早めにお休みになられた方が…」 「実はオレ、今日が仕事納めなんですよ。その代わりに元旦から任務が入ってて」 「でもっ、あのっ」 「お歳暮で貰った寄せ鍋セットがあるんです。一人じゃ食べ切れないし、一緒にどうかなって」 返答に困った。 逃げる口実が無効だった事と、カカシの家で食べる貰い物の寄せ鍋。 卑しくも、イルカの心は揺らいでいた。 沈黙を了承と受け取ったのか、カカシがイルカの手を引いて歩き出す。 カカシの歩調には不思議なぐらい迷いがない。 あっという間にカカシの家まで連れて行かれた。 室内に通されても戸惑いは拭い切れなかったが、居住まいを正して表面上は大人しい姿を装う。 「イルカ先生が中々付き合ってくれないから、賞味期限が過ぎちゃう所でしたよ」 一人で台所に立つカカシの方から、梱包された箱をびりびりと豪快に開封している音がする。 じっとしているよりは良いと思って、カカシを手伝うためにイルカも台所へ入った。 カカシの横に並び、きょろきょろしながらイルカに出来る事を探す。 するとカカシが一端手を止め、イルカを見て嬉しそうに微笑んだ。 「オレ、イルカ先生に避けられてるのかなって思ってたんです」 「避けてなんて…」 「うん…。勘違いで良かったです」 カカシを避けようだなんて考えた事もなかった。 でも、無意識にカカシにそう思われるような態度を取っていたのだろう。 指摘されて初めて気が付いた自分も情けない。 申し訳ない気持ちが溢れ、それでもイルカを見捨てないでくれたカカシに感謝した。 「すいませんでした…。それに…。こんな俺なんかに飽きもせず構ってくれて…本当にありがとうございます」 「気にしないで下さい。構ってほしいのはオレの方だったんですから」 「カカシ先生…」 こんなに優しい人に、イルカは今まで酷い仕打ちを続けてきたのだ。 カカシと対等で在りたいなんて傲慢な考えは、さっさと捨てた方が良い。 もう全て正直に話そう。 「カカシ先生…俺…、引っ越したんです」 「あっ!それね、さっきイルカ先生の家に行ったら、いきなり建設現場みたいになってたんで驚きましたよ」 「今月の始めに取り壊しが決まったんです。それで予想外の出費がかさんで…飲食代も削らなくちゃいけなくて…」 「そうだったんですか。オレ相当嫌われてるのかと思いましたよ。食事は断られるし、知らないうちに引っ越されてるし、イルカ先生はやつれていくし」 カカシが一通りの具材を鍋に放り込むと、食事をするテーブルへと移動させた。 イルカも二人分の食器を持ってカカシに付いて行く。 「困った時はお互い様なんですから、もっと頼って下さいよ」 カカシの優しい言葉に、悩み事が一気に解消したような気がした。 温かい空間で好きな人と鍋を囲む。 久しぶりだったので一段と会話も弾み、酒も過ぎるほど飲んでいた。 お互いに酔っていて、二人で支え合いながらベッドへ向かった。 それから、カカシの手がイルカの服を脱がしていた所までは覚えている。 翌朝、人の気配のないカカシの家のベッドの上で一人で目を開けると、枕元に札束の覗いた茶封筒が置かれていた。 |