「今日はそろそろ終わりにしませんか」 そう言って伝票を持って立ち上がる。 ヤマトも慌てて立ち上がり、イルカの伝票を奪おうとしてきた。 手を伸ばしたり歩調を変えたりして、イルカが持ったまま会計所に辿り着き、カウンターの上に置いてからヤマトに言った。 「割り勘でお願いしますね」 お互いに半分ずつ支払って釣り銭を待っていると、出入り口の扉が開いて新たな客が入ってきた。 通路を塞がないように、ヤマトと二人で端に寄る。 「カカシ!こっちこっち!やっと主役のご到着だよー!」 それを聞いて咄嗟に扉の方を向くと、カカシが一人でぼんやりと立ち尽くしていた。 一人の女性の呼び掛けに続いて、次々と出入り口に女性が集まって来る。 物凄い勢いでカカシが女性達に取り囲まれた。 「…せーの!お誕生日、おめでとうー!」 全員が一斉にクラッカーを鳴らし、カカシの体が一瞬で紙テープや紙吹雪に覆われた。 出入り口での派手な歓迎にも関わらず、店員達は笑顔で拍手を送っている。 カカシが誕生日だったなんて全然知らなかった。 こんなに近い日なら、教えてくれても良かったのに。 ああ、でも、恋人でもない人にそんな事は言わないか。 ここにいたら邪魔になると思い、カカシの脇を通り抜けて外へ出た。 「先輩って今日が誕生日だったんですね」 「…そうみたいですね」 「…なんであの人ばっかりモテるんだろ…」 ヤマトの言う通りだ。 しかも、きれいな人やかわいい人ばかりに囲まれて。 もしかすると、昼間に待機所でカカシと握手を交わしていた女性も混ざっていたかもしれない。 それだけ揃った候補者の中でイルカが選ばれる確率なんて全くのゼロだ。 「…先輩?どうしたんで…」 足を止めたヤマトの声に振り向く。 それとほぼ同時に、カカシに腕を掴まれた。 カカシの体にはキラキラした紙吹雪がいくつも引っ掛かっている。 「イルカ先生」 「みなさんが、お待ちじゃないんですか」 そっとカカシの手を剥がし、その後ろにある店に視線を投げる。 「イルカ先生」 もう一度カカシに名前を呼ばれた時、ふっとイルカの胸に哀しい気持ちが押し寄せてきた。 「…カカシ先生もてるんだから、早く恋人作った方がいいですよ…」 大声で泣いたり喚いたりしそうな自分が怖くて、それだけ言って踵を返し、再び歩き出した。 良い思い出が多ければ多いほど、失恋はつらくなる。 カカシとの思い出が少ない分、イルカはまだ恵まれた方なのだ。 酔い覚ましに歩かないかというヤマトの提案を断り、イルカは真っ直ぐに家に帰った。 錆びた外階段を一歩一歩上がるたびに、視野が涙で滲んでくる。 あと数歩、部屋までの辛抱だと言い聞かせるが、階段を上りきった所で大粒の涙が一つ、ぼろりと零れ落ちてしまった。 それでも視界は一向に鮮明にならない。 「…っ、どうしたんですかっ、ヤマトに何かされたんですかっ」 急に掛けられた声と共に、がっしりと両肩を掴まれた。 片目しか見えないけれど、必死な目でイルカを見つめてくる。 その視線に耐えられずに俯くと、堪えていた涙が止めどなく溢れ出した。 カカシに掴まれた肩が、嗚咽に合わせて震えてしまう。 情けなくて手を払いたくても、縋るようにカカシの袖を掴むのが精一杯で、それ以上の事が出来ない。 イルカの心が、手を離さないでくれと訴えているのだ。 出来る事なら、その胸に飛び込んで思い切り泣いてしまいたい。 手を払う事も引き寄せる事も出来ないまま、ただ涙が通路に円い染みを作っていく。 「…ねえ、どうしたんですか。何か言って下さいよ…」 肩に置かれていた手が背中に回って来た。 イルカの体がカカシの腕の中に抱き込まれる。 「おっ、俺はっ、カカシ先生と…、付き合ってた、つもり、なの、にっ…」 固いベストに顔を埋め、カカシの背中にしがみ付く。 「カカシ先生は、俺の事っ、恋人と思って…ない…っ」 困らせるだけと解っていても、一度口に出すと止められなかった。 カカシの腕に力が篭り、拘束が強くなる。 こういう優しさがイルカに勘違いを起こさせるのだ。 言いたい事を吐き出して、少し楽になった今ならきっと大丈夫。 カカシから離れようと、胸を押して腕を突っ張った。 「そんな事、ない。…オレだって不安だったんです。イルカ先生に告ってきた職場のヤツ、まだちゃんと振ってないでしょ」 思ってもみなかった事を言われ、泣き濡れている事も忘れて顔を上げる。 その拍子にまた涙が零れ落ち、それをカカシの指に掬われた。 人に涙を拭われた事なんて初めてで、驚きと恥ずかしさで再び顔を俯かせる。 確かにまだ、あの同僚には断りを入れていない。 早くしようとは思っていたのだけど、どうやって断ったらいいか考えていたのだ。 「でも、誕生日…教えてくれなかったじゃないですか…」 自分の事を棚に上げて、さっき店で女性達に囲まれていた事を指摘した。 「オレまだ誕生日来てないですもん。あれはオレが任務でいない間、ヤマトからイルカ先生を守ってくれって紅に頼んだらあんな事になってて」 何だかとんでもない事を言われている気がして、改めてカカシの顔を見上げた。 もう涙は引っ込んでいた。 「紅に連絡もらって店に行ったら、イルカ先生あいつと親しげだし、二人でどっか行っちゃうし、…早く恋人作れとか言われるし」 「ヤマトさんは関係ないじゃないですか」 当然の事を言ったつもりだったけど、カカシは難しい顔をしている。 「…あ。なんか、本人が来そうな気がする…」 不可解な事を言うカカシから離れ、辺りを見渡す。 遠くの街灯の下に一瞬だけ人影が見えたような気がしたが、階段の下方から人の気配がしてすぐにそちらに気を取られた。 どうやら階段を上ってくるようだ。 階段と通路の境目を男二人で立っていたら通行の妨げになる。 カカシの横を通って部屋に向かおうとすると、それをカカシの腕に遮られた。 「先輩」 「どうした、テンゾウ」 「…ヤマトですって。イルカ先生の様子が気になって。先輩こそどうしたんですか。こんな時間に」 「オレは…まあ、色々あるだろ」 ヤマトの前ではカカシが飄々として見える。 「じゃオレ帰ります。誕生日、15日なんで空けといて下さいね。本番はイルカ先生と一緒が良いから」 驚いた顔をしたヤマトが、大きな目をぱちぱちさせてカカシとイルカを交互に見遣る。 一拍置いてカカシに言われた内容を理解し、その途端にイルカの顔に熱が集まってきた。 いや、恋人の誕生日を一緒に過ごすなんて当たり前なんだから、別に恥ずかしがる事ではないじゃないか。 嬉しさを噛み殺したら、口元が不細工に歪み、変な顔になってしまった。 カカシがヤマトを追い払うようにして、来たばかりの階段へと押し戻して行く。 何か言いたそうな顔をしたヤマトは、イルカを見つめたままカカシの誘導に大人しく従っている。 その真っ直ぐな目を見て、さっきヤマトに嘘を吐いてしまった事を思い出した。 答えを訂正するのは早い方がいいだろうと思い、カカシに押されて階段を下りて行くヤマトを呼び止める。 「ヤマトさん!俺、やっぱり恋人います!さっきのは間違いでしたっ」 それを聞いたヤマトが、さっとカカシを振り返る。 カカシがヤマトに向かって何か言ったようだった。 口布で隠されていて読唇は出来なかったが、微かにカカシの声が聞こえた。 だから、ごめんって。 何が『だから』なのか、イルカには解らない。 そんな事よりもイルカは、明日必ず言うと決めた断り文句を考える事に頭を使う事にした。 |