疑惑のクルミパン 麺類が好きなイルカが、珍しくパン屋に寄って帰ると言い出した。 単にカカシが知らなかっただけで、どうやら、たびたび購入していたらしい。 「ヤマトさんがクルミパンの美味しいお店を紹介して下さって」 突然出てきた後輩の名前に、カカシのこめかみがぴくりと反応した。 イルカとヤマトに、そんな私的な接点があったなんて初耳だ。 「初めてお宅にお邪魔した時に、そのクルミパンを出して下さったんです。それが本当に美味しくて」 イルカは、ヤマトの家に行った事があるのか。 どうして。 何をしに。 イルカがヤマトの家に行かなければならない理由なんて、見当も付かない。 「おみやげに丁度いいから、伺うたびに持って行ってるんですよ」 楽しげなイルカの言葉が、鋭利な刃物となってカカシの胸に突き刺さった。 次から次へと出てくるイルカとヤマトの親交に耳を塞ぎたくなる。 イルカは、そんなに何度もヤマトの家に足を運んでいるというのか。 カカシの家にだって、まだ一度しか来てくれていないのに。 「ヤマトさんも喜んでくれて」 今度は、顔面に強烈な殴打を食らったような衝撃だった。 それは精神的な刺激でしかないはずなのに、実際に足元がふらついた。 イルカの前でにやけるヤマトの顔が、目に浮かぶようだった。 二人の親密さが羨ましすぎる。 それに比べて自分は。 突き付けられた現実に卒倒しそうだった。 自分はこれほど打たれ弱い人間だっただろうか。 こんな満身創痍の状態でイルカと一緒にいたら何をしでかすかわからないと思い、その日はその場でイルカと別れた。 しかし、この件はこれだけでは終わらなかったのだ。 翌日の夕方。 場所は、それなりに混雑している受付所。 前日の惨敗を逆転しようと、仕事の後に飲みに行く約束をしたイルカを待っている時だった。 カカシは確かに、この目で見てしまった。 そして確かに、この耳で聞いてしまった。 「イルカ先生。僕しばらく任務に出ちゃうんで、良かったらこれ使って下さい」 ヤマトがそう言って、イルカに何かを手渡した。 手のひらに収まる大きさの、きらりと光るもの。 イルカも驚いた顔をしている。 カカシの見間違いでなければ、あれは家の鍵。 二人の手が触れ合った事にも苛ついたが、そっちに構っている場合ではなかった。 どう見たって、あれは合鍵。 これから家主が不在になる家の鍵を渡すなんて、一体どういう了見だ。 ヤマトに掴み掛かりたくなるのをぐっとこらえ、イルカの反応を窺った。 清廉潔白なイルカの事だから、そんな理不尽な物は突き返してくれると思ったのだ。 イルカの表情が瞬く間に変わっていく。 カカシの予想とは違う、嬉しそうなものに。 「ありがとうございます」 あの慎み深いイルカが、衆目の集まるこんな場所で、人目も憚らずに平然とそれを受け取った事が信じられなかった。 いや、信じたくなかった。 見方によっては、二人がもうとっくに合鍵を交換し合っているような仲にも見える。 そんな事、あってたまるか。 ヤマトは用は済んだとばかりに、すたすたと受付所を出ようとしている。 カカシは居ても立ってもいられず、咄嗟にヤマトの後を追っていた。 「おい!テンゾウ!」 廊下に出た所で呼び掛ける。 慌てていたせいで、つい昔の呼び名が出てしまった。 「あ、先輩。すいません、僕これから任務に出なきゃいけなくて急いでるんですけど」 「さっきのは何なんだっ」 暗部特有の早足で先を急ぐヤマトの横に、ぴたりと張り付く。 「さっきの?」 「鍵だよっ、鍵!イルカ先生に渡してただろっ」 「ああ。僕の家の鍵です」 「だから何でっ」 そこで阿吽の門に着いてしまった。 「すいませんっ、続きは帰ってからでお願いします!2週間ぐらいで戻りますから!」 ヤマトが、暗部出身の仲間たちと共に暗い森の中へと消えて行った。 悔しい。 結局ヤマトからは、イルカとの関係について手掛かりになりそうなものは何一つ聞き出せなかった。 こうなったらイルカから聞き出すしかないのだが、それができればこんな所で立ち尽くしてはいないだろう。 イルカに尋ねて、もし最悪の答えが返ってきたら。 考えただけでも嫌になって、人けのない大門の前で頭をがしがしと掻きむしった。 * * * * * あのあとイルカとの酒席で、やはりヤマトの事を尋ねる気概は湧かず、せっかくの席なのに気まずくて早々に切り上げてしまった。 それからは一度もイルカとは飲みに行けていない。 何度か誘いはしたのだが、なかなか都合が合わなかった。 たまには、せめて帰路を共にする時間ぐらいは取れないだろうかと、その日は受付所にいなかったイルカを教員室まで探しに行った。 開け放たれていた引き戸から、こっそりとイルカの席を盗み見る。 運良く、イルカはそこにいた。 人のまばらな教員室に堂々と入室し、イルカの隣の空席に腰掛ける。 途中でカカシに気付いたイルカが、一度こちらに会釈をしてくれた。 イルカは書類とにらめっこをしたり、その書類に筆を走らせたりと忙しい。 声を掛ける間合いを計りながら、何気なくイルカの机の上を眺めていると、この場には非常に不釣合いなものを見つけてしまった。 例のパン屋の紙袋だ。 「俺に何かご用でしたか?」 わざとなのか無意識なのか、こうして隣席でじっとしていて、初めてイルカはカカシの意図を酌んでくれる。 カカシが教員室に来る理由なんてイルカしかないのに、イルカ本人はまだその認識が薄い。 「これ、もらいものですか?」 一緒に帰ろうと誘うつもりだったのだが、どうしても気になって、袋を指差してイルカに尋ねた。 カカシの知る限り、イルカがパン屋に寄るのは、いつも決まって帰路だったから、職場に袋が置いてある事が不思議だったのだ。 「自分で買いました。昼休みに行って来て。今日、午前中にヤマトさんが戻られたので」 ヤマトさんが戻られたので。 イルカの言葉が冷風となってカカシの心に吹き込んできた。 貴重な昼休みを、ヤマトのために削ったというのか。 しかも、ヤマトの帰還に合わせてこのパンがあるという事は、きっとイルカはこのあとヤマトの家に行くつもりなのだ。 イルカと帰路を共にできたらと思って教員室を訪ねた自分が酷く惨めじゃないか。 何と言うか、今までに味わった事のない敗北感。 まさかヤマト相手に、こんな気持ちにさせられる日が来るとは思わなかった。 ここまでされたら、カカシだって黙ってはいられない。 敵の本陣に乗り込んで、出立の時に付けられなかった話に、けりを付けてやる。 「あのー、もしヤマトの家に行くならオレもご一緒して良いですか?ちょっとアイツに用があって」 そう尋ねると、イルカはあっさりとそれを認め、尚且つカカシの提案にも了承してくれた。 カカシの内心には、全く気付いてはいないようだった。 |