長期遠征でもないのに疲労度の高かった0泊7日の任務を終えて里に戻ると、事務棟が全体的にざわついていた。 何か有事が起きたのかと危惧したが、それならば帰還したカカシに何の連絡もないのはおかしい。 受付で報告書を提出した時にも、別に何も言われなかった。 きっと大した事ではないのだろうと判断して、のんびりと待機所へ向かっていた。 すると、その途中の廊下で、急に後ろから名前を呼ばれた。 「カカシさん!」 とても聞き慣れた声だった。 そして、とても久々に聞く声でもあった。 会いたいと思っても会えないのに、こうして予期せぬ時に会えたりするから、巡り合わせとは不思議なものだ。 自然とにやけそうになる口元を引き締めて、さっと振り返った。 「イルカ先生」 恋人の名前を呼べるのがこんなにも嬉しい事なのかと思えた気持ちが、イルカを見た途端、罪悪感に入れ替わった。 自身の不貞とイルカへの裏切り。 イルカの黒髪が、あの投票番号5番の女性を思い起こさせたのだ。 無意識に体が強張る。 今更ながらに、カカシは自分が取り返しの付かない事をしてしまったのだと痛感させられた。 「お疲れさまです。カカシさんが来たら連絡してくれって受付のやつに頼んでて…。久しぶりですね」 イルカの挨拶に、かろうじて微笑みを返す。 ひと月以上会っていなかったのに、イルカは何も変わらず朗らかで、眩しいぐらいだった。 「このところ何日も休まずに働いてるって聞いて心配していたんです」 「ごめんね。なかなか会えなくて…」 「そんな、謝らないで下さい…。今はみんな忙しいし…。それであのっ、これ…カカシさんに使ってもらおうと思って…」 イルカが数枚の用紙をカカシに向かって差し出した。 複雑な内心を隠してそれを受け取ると、用紙には『休暇届』と書かれており、なんと既に火影のチャクラ印までが押印されていた。 あとは期日を記入して署名するだけで休みがもらえる。 こんなもの、一体どこで手に入れたのだろう。 イルカが悪事に手を染めるとは思えないけど、火影の印が入った書類など易々と手に入るものではない。 いくらイルカがカカシを労わろうとしてくれているのであっても、正規の経路で入手していないものならば罪を問われてしまう。 「これ…どうしたんですか?」 そう尋ねつつも、果たして後ろ暗い所がある自分に恋人を問い質す権利はあるのだろうかとも考えていた。 イルカが何かを言おうとして口を開きかけた時、ちょうどカカシの後方から二人組の男の話し声が聞こえてきた。 「あ、5番ちゃんだ」 「おお、よく見りゃ結構かわいいじゃん」 その二人の会話に、イルカは開きかけた口をしっかりと閉じて俯いてしまった。 イルカの耳が、僅かに赤らんでいる。 二人が通り過ぎてから顔を上げたイルカの目元も、ほんのりと赤く染まっていた。 「ち、ちゃんとした手順を踏んで発行されたものなので…安心して、使って下さい…」 イルカの答えは、カカシの質問をはぐらかそうとしているような歯切れの悪いものだった。 ここは恋人としてではなく、里の仲間として毅然とした態度を取らなければならないと思い、イルカの目をじっと見つめた。 後ろめたい事がないのなら、その手順の部分を教えてほしい。 するとイルカは目を泳がせながら、ぼそぼそと小さな声で話し始めた。 「遊興…というか、余興…というか…、アカデミーでそういう催しをした時の…、景品だったんです…」 『アカデミー』と『催し』という言葉に、何か聞き覚えがあるような気がした。 何だったかと考えていたら、またカカシたちの横を別の二人組が通り過ぎて行った。 「あの子、5番の子?」 「あ、そうかも」 さっきから、見知らぬ人たちがイルカを見て、しきりに5番5番と連呼している。 あ、と思った。 カカシの中で、全てが繋がった。 例の『特別美人コンテスト』だ。 確か開票はカカシが出立した日の1週間後と言っていたが、今日がその日じゃないのか。 事務棟がざわついていたのも、そのせいか。 5番の女性に目を奪われてしまった印象が強すぎて、カカシの頭から催しであるという事柄が抜け落ちていた。 でも、それとイルカと休暇届に何の関係があるというのだろう。 疑問に思って更に考え込んでいると、イルカが落ち着きなく上を向いたり下を向いたりを繰り返してから、乱暴な仕草でポケットに手を入れた。 そして、くしゃくしゃになった紙をカカシに突き出してきた。 黙ったまま難しい顔で考え事をしていたから、カカシがまだ休暇届の出どころを疑っていると勘違いしたのかもしれない。 イルカが出したのは、あの時のちらしだった。 カカシが見やすいように、紙をぴんと張って皺を伸ばしている。 そこにはでかでかと『優勝者には7日、準優勝者には3日、特別賞には1日、それぞれ休暇を交付する』と書かれていた。 「えっ」 その意味を理解した瞬間、つい変な声を上げてしまった。 咄嗟にイルカからちらしを奪い取り、そこに印刷されている出場者の顔写真をまじまじと見つめる。 出場者といっても、投票番号5番の女性だけに集中して。 印刷とイルカを交互に見比べる。 「あ、あんまり…見ないで下さいよ…」 イルカが弱々しい声で呟いた。 「これっイルカ先生っ?」 「笑わないで下さいね…。俺はただ、カカシさんに休みを取ってほしくて出場しただけなんです…」 笑える訳がない。 むしろ、柄にもなく涙が出そうだった。 カカシがイルカの事で壁にぶつかっている間に、イルカはカカシを休ませようと奮闘してくれていたのだ。 しかも、浮気をしてしまったと思っていた相手がイルカ本人だったなんて。 こんな幸福な事ってあるだろうか。 凄まじい安堵と感動で、皮膚の表面にびりびりと電流が走ったようになっている。 「術による変化が無効だったので、遊郭の方々に化粧の仕方を教えてもらったり、周りの女性の話を参考にしたりして…」 女性の扮装をした事に引け目を感じているのか、イルカの話はどこか言い訳っぽく聞こえた。 カカシにとっては、それも全部イルカが尽力してくれた事の表れでしかないのに。 こんな健気なイルカに、下世話な後輩はあらぬ疑いをかけていた。 改めて、あいつの見解なんてあてにならないなと思った。 「なんとか3日分だけ…」 3日分、という事はイルカは準優勝だったという事か。 それを恥ずかしそうに告げるイルカが、たまらなく愛しかった。 「写真屋さんの見立てで暗い顔の写真で応募しちゃったんで、本当は半ば諦めてたんです…。せっかく、恋人の顔を思い出してって言われて撮った写真だったのに…」 イルカは気に入らなかったようだが、プロの目から見れば良い写真だったに違いない。 あの写真に漂う色香と哀愁には、カカシもすっかり翻弄されてしまった。 「ありがとう…」 ぽろりと零れた言葉は、紛れもなくカカシの本心だった。 もう胸が一杯で、心の赴くままに、がっちりとイルカを抱き込む。 休暇届をもらった事が嬉しいんじゃない。 カカシのために、ただでさえ忙しいイルカの時間を削って休みを取らせようと頑張ってくれた事が嬉しいのだ。 「か、カカシさんっ」 イルカが慌てるような声を出して背中を叩いてくるけれど、一向に構わない。 今回の催しでイルカが脚光を浴びてしまったから、きっとこれから恋敵が増える。 だからこれは、周囲に対するせめてもの牽制だ。 「もうちょっと里が落ち着いたら…、手持ちの休暇とこれを合わせて二人で旅行でも行きましょう」 カカシの提案に、イルカが抵抗をやめて大人しくなった。 イルカは、自身の努力の結晶を惜しげもなく手放そうとするけれど、そんな献身的な姿を見せられて、カカシだけが悠々と休暇を取る事なんてできる訳がない。 それに、今の忙しい時期に働き盛りの上忍を休ませる事の大変さは、受付を担当しているイルカならばよくわかっているはずだ。 「だからそれまではイルカ先生が大切に保管しててくれませんか」 カカシの問いに、イルカは少しの間を挟んでから了承の言葉を返してくれた。 イルカとの旅行が待っていると思えば、この所の忙しさだって充分に報われる。 でも今は、未来の話より、目先のイルカとの逢瀬を楽しみたいと、どこか近くに空き教室でもないかと不埒な事を考え始めていた。 |