入浴剤の受け渡しを約束した夕顔とは、アカデミーの正門の所で合流した。 カカシが報告書を提出している間に、夕顔はアカデミーに併設された保育所に子どもを迎えに行っていたのだ。 それから夕顔の家へ行って入浴剤を受け取り、カカシは一人で待機所に戻って来た。 夕顔が一度帰宅して入浴剤を取ってから子どもを迎えに行ってくれたら、そんな面倒な手順を踏まずに済んだのに。 そう愚痴を漏らすと、夕顔に説教をされた。 『仕事をしている母親は、一秒でも長く子どもと接していたいものなんです』と。 更に、『結婚もしていない先輩にはわからないでしょうけど』という嫌味まで付いてきた。 イルカという懸想人がいるカカシに、結婚や子孫は関係ない。 きっと夕顔の気持ちは永遠にわからないままだろう。 それを再認識させてもらったという意味では、夕顔の説教も少しは役に立ったかもしれない。 いつもより時計の進みが遅く感じる時間を過ごし、いよいよ6時を回って約束の時間が近付いてきた。 そろそろ、いつイルカが来ても対応できるように準備を始めなければ。 愛読書を閉じて、ソファーに浅く座り直す。 それからも刻々と時間は流れ、6時半には終わる、と言われた時間もあっさりと過ぎていった。 そして、1分、2分と、イルカが現れる事なく時計の針は進んでいく。 仕事が長引いているのだろうか。 一応は人並みの配慮をして静かに待っていたが、でもそれも10分が限界だった。 入浴剤の小袋がたくさん入ったビニール袋を持って立ち上がり、受付所へ向かって走り出す。 イルカは、何の連絡もなく約束を破るような人ではない。 カカシが受付所に飛び込んだ時には、既に所内の人けはまばらで、窓口担当者も全員の顔を見渡す事ができた。 しかし、どの窓口にもイルカの姿はない。 入れ違いになったのだろうかと思い、手隙の窓口に座っている男に質問をぶつけた。 「イルカ先生は?もう帰った?」 「えっ…。あ、はい。6時すぎには帰りましたが」 咄嗟に尖った声で聞き返しそうになるのを、ぐっと飲み込んだ。 この男を問い詰めても意味がない。 そんなに早く仕事が終わったのに、どうして待機所に迎えに来てくれなかったのだろう。 納得できない気持ちと、何かあったのだろうかという心配の気持ちが胸に込み上げる。 イルカが家にいる確証はないが、とりあえず訪ねてみようか。 どうも、と窓口の男に表面的な礼を述べて、カカシは受付所を後にした。 案の定、イルカの家には灯りが点いていた。 何も言ってくれないなんて。 一人で帰ってしまうなんて。 そんなの酷いじゃないか。 イルカが在宅していた安堵感で心配は吹き飛び、その分もう一方の感情が溢れ出しそうだった。 ドアをノックする手にも、苛立ちが紛れ込む。 すぐに開いたドアの先には、驚いた顔をしたイルカが玄関に立ち尽くしていた。 イルカの足元は支給靴を履いたままで、床には白いビニール袋が2つ置いてある。 帰宅したばかりなのだろうか。 「どうして先に帰っちゃうんですか」 挨拶もせずに唐突に尋ねると、一瞬イルカが泣きそうな顔をした。 どきっ、とカカシの胸が嫌な音を立てる。 イルカはすぐに表情を取り繕ったが、それがまた距離を置かれているような気がして悲しかった。 「あ…す、すみません。3時すぎにカカシ先生が帰られる姿が見えたので…今日の約束はなくなったものだとばかり思っていて…」 そう言うとイルカは、すっと目を伏せた。 「俺、カカシ先生が所帯をお持ちだったなんて知りませんでしたよ。お子さんまでいらしたんですね」 それを聞いて目を見開いた。 口布の内側では、ぽかんと口が開いたまま戻らなくなっている。 「確認もしないで勝手に判断してすみませんでした。でも今日はご家族の所に帰ってあげて下さい」 一気に言い切ると、イルカは会釈をしてドアを閉めようとした。 反射的にドアの縁を掴み、閉まりかけていた所を寸前で止める。 いくら何でも、このままさよならをする訳にはいかない。 イルカは、ドアが開いている隙間の分だけは、カカシの言い分に聞く耳を持ってくれているような気がした。 ここでしっかりと主張しなければ、きっと取り返しのつかない事になる。 「家族なんてっ、所帯なんてっ、オレは持ってませんっ!」 ドアを掴んでいた左手の、手首にぶら下がっていたビニール袋に手を突っ込み、入浴剤の小袋を鷲掴みにする。 それをイルカの目の高さまで掲げた。 「あの母子の家に、これをもらいに行っていたんですっ、イルカ先生が喜んでくれると思ってっ」 ドアを閉めようとしていたイルカの力が、徐々に弱まっていく。 カカシがドアを引くと、大した抵抗もなくドアは開いた。 身の潔白を証明するように、持っているビニール袋の口を精一杯に広げる。 「温泉が好きだって言ってたから、こういうのも好きかなって…」 以前イルカの家で入浴剤を見掛けたという話は、下心を見透かされるのが怖くて黙っていた。 イルカは小袋の一つを手に取り、それをじっと見つめている。 「…俺…勘違いして…。今まで何も知らずに一家族からお父さんと過ごす時間を奪っていたんだって…」 「オレはお父さんじゃないですからねっ」 「はい。すいませんでした…。あの…ありがとうございます。俺、こういうのはよく使うんです」 いつもの素直さを取り戻したイルカが、照れたように笑った。 とても素敵な笑顔だった。 本当は居酒屋で見るつもりだったけど、どこで見てもその魅力に変わりはない。 この笑顔が早くカカシだけのものになれば良いのに。 今回の事で、つくづくそう思った。 そして、そのカカシの願いが叶うのは、そんなに遠くない未来の話。 丁度その頃、カカシの積年の下心も同時に実ったようだった。 |