反抗期 5月に入ってから、明らかにカカシの態度が変わった。 どうも、避けられているようなのだ。 この前なんて、受付の窓口にイルカの姿を見つけた途端に、踵を返してどこかへ行ってしまった。 今まで二人の間で続いてきた交流は何だったのだろうと思ってしまう。 はじめのうちはイルカも楽観していた。 もしかして、イルカの誕生日に向けてサプライズでも用意してくれているのだろうか、と。 それというのも、最近になってイルカの誕生日を知ったカカシが、その事をとても気にしていたのだ。 もう何年も付き合いがあるのに、イルカの誕生日に何もしてこなかった事がショックだったそうで。 それまでは、誕生日にお祝いをしたりプレゼントをあげたりするという習慣がある事も知らなかったくせに。 カカシは変わった人で、時々とんでもない事を知らなかったりする。 大晦日に年越し蕎麦を食べる事を知らなかったり、電気ポットが湯を沸かす道具だという事を知らなかったり。 今回の場合は、3月のサクラの誕生日の時に仕入れた情報らしい。 イルカも自分の誕生日には無頓着なほうだから、カカシが知らない事に気付けなくて教えてあげられなかった。 だからだと思うのだ。 カカシがイルカを避けるようになったのは。 以前、こんな事をカカシに言われた事がある。 『イルカ先生は色んな事を知ってて、それをちゃんとオレに教えてくれるから好き』 今になって考えると、教えてくれないような奴に用はない、という意味にも聞こえる。 ナルトを介して知り合ったせいか、カカシはイルカの事を、物事を教える側の人間という目で見ているふしがあった。 だから尚更、そういう事が気になったのかもしれない。 なんだか寂しくなってきてしまった。 イルカが一方的に個人的な付き合いをしていると思い込んでいたようで。 勤務中にこんな感傷に浸るなんて不謹慎な事なのに。 これから、来月の特別授業のための大事な打ち合わせが入っているのだ。 余計な事を考えている暇はない。 しかも、忙しい先方の要望で、待機所の一角を衝立で仕切っただけの会議室を借りたので、いつ誰に見つかって咎められてもおかしくはないのだ。 気を引き締め直し、もう何度も読み返した資料に再び目を通していると、衝立の向こう側から話し声が聞こえてきた。 「先輩って、別にそこまでイルカ先生と親しい訳じゃないですよね」 「そうだよね…」 ヤマトとカカシの声だった。 声の調子からして、本人がここにいる事に気付かずにイルカの事を話しているようだった。 「あ、お疲れさまです」 ヤマトが誰かに向かって挨拶をしたのが聞こえた。 「よお。お前らがこんな所でツラ合わせてるなんて平和な証拠だな」 「まったくだ」 二つの渋い声に、イルカも背筋を伸ばす。 イルカの打ち合わせの相手でもある、奈良シカク上忍と山中いのいち上忍の声だったのだ。 今回『いのしかちょう』の秋道チョウザ上忍だけは任務の都合で不参加になっている。 「遅れて悪かったな、先生」 会議室に二人が顔を出したのに合わせて、さっと立ち上がる。 二人とは、生徒の保護者と担任という関係があったので、先生と呼ばれる事に恐縮しながらもそのままになっていた。 「いえ、よろしくお願いします」 二人が席に着いた所で資料を渡し、さっそく打ち合わせを始めた。 それからは、ヤマトやカカシの声が会議室に聞こえてくる事は一度もなかった。 その日の夜。 ゆっくりと風呂に浸かっていると、不意にあの時の会話が耳から離れなくなってしまった。 ヤマトの何気ない呟きと、それに対する実感のこもったカカシの相槌。 聞いた直後は打ち合わせの事で頭が一杯だったから気にならなかったけど。 改めて思い返すと、これまでの決して短くはない付き合いがその程度のものだったのだろうかと考えさせられてしまう。 最近は少なくなっていたが、毎日のように飲みに行っていた時期もあるし、帰れない距離じゃないのに連日泊まっていく事もあった。 それに、そんなに楽しい事ばかりじゃない。 中忍試験の前に言い合いになって、気まずくなった事だってある。 それでも続いてきた関係が、あの会話に凝縮されていたのかと思うと堪らなく寂しい気持ちになった。 急に熱くなった目頭を手で押さえると、閉じた瞼の隙間から涙が滲んできた。 こんな事で泣くつもりなんて、全然なかったのに。 これではいけないと思い、ばしゃばしゃと顔を洗って、ざばんと勢いよく立ち上がった。 泣いたらともっと寂しくなる事はわかっているのだ。 着替えて真っ先に向かった冷蔵庫から、普段は飲まないビールを掴み取った。 栓を開け、ぐびぐびと音を立てて咽喉に流し込む。 トン、トン。 そこへ、玄関から控えめなノックの音が聞こえてきた。 咄嗟に時計を見たが、こんな時間に突然イルカの家にやって来るのはカカシぐらいしかいない。 でも、そのカカシだってもう来る事はないだろう。 そう思ったら、またじわっと涙が滲んできそうになって、首に掛けていたタオルで慌てて目元を拭った。 ふう、と強めに息を吐き出してビールの缶を置き、玄関のドアを開けた。 「あ…」 もう来る事はないだろうと思っていた相手が、そこに立っていた。 「何度も考え直したんですけど、やっぱりオレ…」 なんだか冴えない顔をしたカカシが、そう言っていきなりイルカの方に両手を突き出してきた。 その手には、映画のチケットのような、でもそれよりは少し大きめの紙が握られている。 「誕生日に…イルカ先生が喜んでくれるようなプレゼントをしたくて…」 そう言われて、その紙をよく見ると、どこかの温泉旅館の写真と、宿泊券という文字が書かれていた。 温泉旅館の宿泊券。 イルカを喜ばせるためのプレゼント。 一瞬何が何だかわからなかった符号が、誕生日という単語で一つに繋がった。 すっかり緩んでいた涙腺から、再び涙が染み出してくる。 でもこれは、さっきまでのものとは意味の違う涙だ。 「これ…俺にくれるんですか…?」 イルカがふらふらと宿泊券に手を伸ばすと、なぜかカカシは券を後ろ手に隠してしまった。 「今渡したら、どうせイルカ先生一人で行っちゃうでしょ。だから出発までオレが持ってます」 「え…」 涙の分泌が、ぴたりと止まる。 ぱちぱちと目を瞬かせながら見たカカシの表情は先程と変わらず、まだどこか曇ったままだった。 「オレと一緒に行ってくれるなら、これあげます。あの…オレたちって一緒に旅行に行くほど親しくは…ない、ですかね…?」 その自信のなさそうな口調に、待機所でのヤマトとカカシの会話が重なった。 もしかして、あの時の会話はこの事を言っていたのだろうか。 にわかには信じられなくて、手の甲でごしごしと目を擦った。 カカシは別に、イルカを避けていた訳ではなくて。 イルカと二人で旅行に行くほどは親しくないという事に悩んでいただけだったのか。 あまりの事に拍子抜けしてしまう。 同時に、変な緊張も解けて、つい口元が緩み、ふっ、と無意識に息が漏れていた。 それを目聡く見つけたカカシが、目を吊り上げて睨んでくる。 「笑い事じゃないです!イルカ先生はすぐそうやってオレをガキ扱いして!」 カカシが物凄い剣幕で食って掛かってきた。 笑ったつもりはなかったのだが、カカシにはそう見えたのかもしれない。 イルカはただ、勝手に勘違いして寂しがっていた自分に呆れていただけなのだ。 「すいません、すいません。一緒に温泉行かせて下さい」 「ちょっと!一緒に行くって意味、ちゃんとわかってますか!いいかげんオレを男として見て下さいよっ」 真剣なカカシの主張を聞いて、すとん、と何かが胸に収まる感触があった。 そういう事だったのか、と妙に納得する。 今までは、カカシの方がイルカを教師として見ているのだと思っていたけれど。 本当は、イルカが生徒を見るような目でカカシの事を見ていたのだ。 一つそれに気が付くと、今まで見えていなかったものの輪郭がはっきりとしてきた。 カカシが抱いていたイルカへの思いも、自分が抱いていたカカシへの思いも。 「…ちゃんと、わかってますから」 たった今気付いたという事は伏せて、強がりを言った。 でもそれが、今の段階で言える精一杯の言葉だった。 いつもとは違うイルカの受け答えにカカシも何かを察したようで、少し戸惑っているのがわかった。 「そ、それなら、いいんですけど…」 ちょっと変わっていて、子どもっぽい所もあるけれど、根はとても純粋な人なのだ。 しかしそうやって、まるで奥手に見えたカカシが豹変したのは、イルカがプレゼントを受け取った日の夜の事だった。 |