スイートテン・ビターテン






気持ちを伝えたのはイルカのほうからだった。
そこでカカシから返ってきた言葉は。
「オレと付き合いたい?」
反射的に、こくこくと何度も頷いた。
それから3ヶ月が経つ。
でも、キスをした事はないし、手だって握った事がない。
そればかりか、好きだと言われた事だって一度もなかった。
さすがにイルカも、カカシの事が少しずつわかってきた。
たぶんカカシは、イルカの事を特別だと思えないのだ。
あの時のひと言が過不足なくカカシの本心で、それは今も変わらないのだろう。
興味本位とか、気まぐれとか、言葉にするとしたら、そういう頼りないものばかりが並ぶ事になる。
「え? ヤマトと2人で?」
イルカの今夜の予定を話すと、カカシが驚いたように聞き返してきた。
カカシが任務に出る前に会いたくて、出発直前に待機所へ足を運んでいたのだ。
「あ、はい。ヤマトさんが個室のある安い居酒屋を予約してくれて」
ヤマトとは最近ときどき飲みに行くようになった。
頻度はそんなに多くない。
ヤマトがカカシと同じぐらい外務で忙しいからだ。
それに、カカシとイルカの関係も知っているので、気遣い屋のヤマトはカカシが里にいる時はイルカを誘ってこない。
出来るだけカカシと一緒にいたい、というイルカの気持ちを汲んでくれているのだろう。
「…それ、オレも行こうかな」
不意に零れたカカシの呟きに目を瞬かせる。
だって、カカシはこれから任務に出るのだ。
「でも…」
「ちょうど出発が半日ぐらい延期になりそうな所だったんですよ」
「あ、そうだったんですか」
こんなに都合のいい事ってあるだろうか。
たとえカカシの目的が昔なじみの後輩と話をする事であっても、急にカカシと過ごせる時間が出来た事が嬉しくて、つい口元が緩んでしまう。
「一応は明日に備えて酒は控えるけど」
明日に備えるのなら、少しでも家でゆっくりしていたほうがいいはずだ。
でも、降って湧いたような偶然を逃したくはなくて、同業者としては失格だけど、それを口にする事は出来なかった。



カカシと一緒に店に着いたのは、ヤマトと約束していたよりも少し早い時間だった。
入口で確認すると、一人ぐらいなら増えても大丈夫という事で、安心して席に着いた。
約束のきっちり5分前に個室のふすまを開けて入って来たヤマトの顔が、未だに忘れられない。
カカシを二度見したと思ったら、にこやかだった表情を急に引き攣らせて、とても複雑そうな顔をしたのだ。
イルカしかいないと思っていた室内に、ヤマトの尊敬する先輩がいて驚いたのだろう。
いま思い出しても吹き出しそうになる。
「そんなこと、僕はやめたほうがいいと思いますよ」
トイレから戻り、履き物を脱ごうとしていた所で、ふすま越しにそんな声が聞こえてきた。
何の話をしているのだろう。
「どうせイルカ先生とだって長続きしないんですから」
「まだ3ヶ月じゃわかんないじゃない」
真面目な口調で話すヤマトの言葉を肯定するかのように、カカシの声には冗談めかした響きが含まれていた。
ぐっ、と唇を引き結んで目を伏せる。
こんな話をしていたら、部屋に戻りにくい。
行き場に困って上がり口に腰を下ろしたまま、体を縮こまらせて息を潜める。
「だって、いくら噂に疎いイルカ先生でも、先輩の醜聞が耳に入らないはずがないじゃないですか。ベッドの上でも千人斬りだとか、浮気が酷いとか。恋人のそんな噂を聞いたら、僕だったら即、別れ話ですよ」
ずき、と胸に鋭い痛みが走った。
痛んだ箇所を思わず手で押さえ込む。
カカシがもてる事は知っていたけれど、そこまで具体的な噂を聞くのは初めてだった。
だが、過去に関係を持った相手の事を、とやかく言うつもりはない。
それよりも、イルカには「浮気」という言葉のほうが衝撃的だった。
今まで疑った事がなかったせいかもしれない。
だって、言葉や動作で好意を示してくれる事はないけれど、カカシに不誠実な態度を取られた事は一度もないのだ。
「じゃあ、賭けてみる? オレがイルカ先生と別れるかどうか」
カカシの言葉に目を見開いた。
噂を否定しなかった事に驚いて、でもその次にじわじわと悲しみが込み上げてくる。
そんな賭けを、カカシがヤマトに持ち掛けたからじゃない。
自信満々なカカシの口調から、カカシがどちらに賭けるのかわかってしまった事が悲しかったのだ。
いつかはそんな日が来るだろうと思っていた。
覚悟だってちゃんとしていたつもりだった。
それなのに、目の前に突き付けられると、こんなにも苦しい。
「…やめときます。僕も先輩と同じほうに賭けると思うんで」
少し長めの沈黙を挟んでからヤマトが答えた。
ヤマトもわかっているのだろう。
カカシが近い将来、イルカから離れて行くだろうという事を。
やっぱり決め手になるのはカカシの浮気なのだろうか。
即別れ話ですよ、と言ったヤマトの言葉が、今頃になってイルカの胸に重たく響いてくる。
「ちょっと、すいません。僕もトイレ行って来ていいですか」
「なんで今なのよ」
賭けが成立しなかったからか、カカシが不満げな声を上げるのが聞こえてきた。
それとほぼ同時に、イルカの背中側のふすまが開いた。
「あ。イルカ先生、戻ってらしたんですね」
ヤマトの呼び掛けに、びく、と肩が揺れる。
慌てて表情を取り繕った。
ばたばたと履き物を脱いで、ようやく立ち上がる。
「…はい。いま戻りました」
「お前、今のわざとだったでしょ」
カカシがヤマトに向かって抑揚のない声で言った。
「何の事ですか」
振り返ったヤマトが、部屋の中で一人で座っているカカシを見下ろしながら、同じく抑揚のない声で返した。
カカシとヤマトのあいだに、どこか張り詰めた空気が流れる。
「イルカ先生、そろそろ帰りましょう。支払いはヤマトがしてくれるみたいなんで」
「えー。先輩のおごりじゃないんですか?」
しかし、緊張が走ったのは一瞬で、すぐにいつもの和やかな空気が戻った。
「どうせ今日は払う気だったんでしょ」
「まあ、そうですけど」
決め付けるように言ったカカシのほうを見る事もなく、ヤマトがきっぱりと答えた。
ヤマトは他に余計な事は何も言わず、そそくさと足元を整えている。
そのままヤマトが歩き出し、トイレにも寄らずに一人で会計所のほうへと行ってしまう。
「俺も払いますっ」
どことなく哀愁の漂う背中に向かって咄嗟に声を掛けたが、居酒屋の喧騒の中でイルカの声は届かなかったようだった。
急いで追い掛けようとした所で、ぽん、と軽く肩に手を置かれて振り返る。
「たまには、ヤマトにカッコつけさせてやって下さい」
イルカと別れるかどうかという賭けの話をしていた後だというのに、カカシの口調は普段と変わらずに穏やかだった。
こういう時はどうしたらいいのだろう。
自分がするべき事がわからなくて、イルカはただ呆然とその場に立ち尽くしていた。






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2012.08.22