少し散歩をしてから帰ろうと言い出したのはヤマトだった。 支払いを任せてしまった後ろめたさがあったので了承すると、カカシも一緒に付いて来てくれる事になった。 「お二人はこういう時、手を繋いだりはしないんですか」 「それは…」 ヤマトに痛い所を突かれて口籠もる。 きっとカカシとは、そんな関係になる前に終わってしまうだろう。 地面の凹凸に目を遣るふりをして、イルカは僅かに顔を俯かせた。 「今日は特別サービスだよ」 それが聞こえた瞬間、どきん、と心臓が跳ね上がった。 カカシが急にイルカの左手に長い指を絡めてきたのだ。 「か、カカシさん…」 突然の事に戸惑って、震える声で呼び掛けてみても、カカシはこちらを振り向いてはくれなかった。 それでも、カカシの手が意外なほど温かい事がわかっただけで、もう充分だった。 あまりの嬉しさに、目に涙が浮かんでくる。 どうせこれもカカシの気まぐれに決まっている。 特別サービス、という言葉もイルカにではなくヤマトに向けられたものだ。 ひやかしてきた後輩に一泡吹かせたかっただけなのだろう。 でも、理由は何でも良かった。 「…僕は健気なんで、好きな人が幸せそうな顔をしていたら多くは望みません」 唐突に好きな人の話題を持ち出したヤマトの目が、ほんの一瞬だけ鋭く光ったように見えた。 だが、すぐに目元を緩めてイルカに笑い掛けてくる。 「でも、長いあいだ付け入る隙がないのも悔しいんで、スイートテンの事だけはやめて下さいね。じゃあ僕はここで」 そこでヤマトは足を止めただけでなく、踵を返して逆方向に歩いて行ってしまった。 「なんでイルカ先生の前で言うかな…」 カカシがぼやくように呟いた。 イルカには支離滅裂だったヤマトの話も、カカシには通じていたようだ。 カカシとヤマトを交互に見ているうちに、ヤマトの背中がどんどん遠ざかっている事に気付いて、はっとする。 今日はヤマトに言わなければいけない事があるじゃないか。 「ヤマトさんっ、今日はごちそうさまでしたっ」 店を出る時にも何度も繰り返した言葉を慌てて告げると、ヤマトがこちらに振り返った。 「いえ、こちらこそごちそうさまでした。また行きましょう」 ヤマトが手を振ってきたので、カカシと繋いでいないほうの手を振り返す。 本当は、ごちそうさまを言われるほどカカシとは親密ではないけれど、今だけでもそう見えたのなら訂正したくはなかった。 そんな事を思っている時に、カカシから深い溜め息が聞こえてきて、ぎく、となる。 ヤマトの姿が見えなくなれば、今はがっちりと繋がれているこの手も解かれてしまうのだろう。 離したくない。 離さないでほしい。 ヤマトが先の角を曲がった。 すぐにその時が訪れてしまう事を覚悟して、自分から僅かに手の力を抜いた。 「手を繋ぐの、初めてですね」 そう言うとカカシは、イルカと手を繋いだまま、のんびりと歩き始めた。 不意を突かれて出遅れた、たった一歩の距離を慌ただしく駆け足で埋める。 このままでいいのだろうか。 カカシと歩調を合わせながら、イルカの中で喜びと不安がせめぎ合う。 「オレはね、イルカ先生とは一生添い遂げるつもりなんで、ゆっくり進展していければいいなと思ってるんですよ」 一瞬、自分の耳を疑った。 どきどきどき、と急に胸の鼓動が激しくなる。 好きだと言われた事もなかったのに、今とんでもない事を言われたような気がする。 いきなり過ぎて、すぐには信じられない。 本当に、本当の事なのだろうか。 「こういう話って今までした事なかったよね。実はオレ、けっこう照れ屋だったみたいなんです。イルカ先生に好きだって言われた時も舞い上がっちゃって、あんなに偉そうな返事しか出来なかったし」 恐る恐るカカシを見ると、僅かな面積しか出ていない白い頬が、ほんのりとピンク色に染まっていた。 街灯の薄明かりでは、よく見てようやくわかるという程度ではあるけれど。 「店を出る前にヤマトと話してた事、どこから聞いてました?」 イルカの立ち聞きを咎めるような口調ではなかった事に胸を撫で下ろした。 でも、言いづらい事に変わりはなくて口籠もる。 「…俺とじゃ…長続きしないって辺りから…」 「じゃあ噂の事も聞いたよね」 「はい…。でも、あの…。ヤマトさんが言ってた事は本当なんでしょうか…」 繋がっているカカシの手に、ぐっ、と力が籠もった。 「…ベッドでは千人斬りまで行ってません」 「もうひとつのほうは…」 浮気、という言葉を自分からは口にしたくなくて、遠回しに尋ねる。 「そっちもイルカ先生と付き合ってからはしてません。本当です」 単純で人を信じやすいイルカになら、カカシはいくらでも嘘がつけるだろう。 でも、カカシがそんな不誠実な事をするはずがないと思った。 「ヤマトもそれを知ってるから、賭けにはならないってわかってたんです。あいつはオレが派手に遊んでた頃を見てる分、オレが今どれだけイルカ先生に本気か、痛いほどわかってるんです」 カカシの口から本気だなんて言葉を聞いて、襟足の辺りがむず痒くなってくる。 そうするとあの賭けは、カカシもヤマトもイルカと別れないほうに賭けてしまうから取りやめになったという事なのか。 なんだか、砂浜で海に向かって叫びたいような、たまらない気持ちだった。 嬉しい事ばかりがこんなに続いていて大丈夫なのだろうか。 ふと目が覚めて、すべてが夢だったらどうしよう。 「確かにヤマトは健気ですよ。イルカ先生との逢瀬を邪魔したオレの醜聞を聞こえよがしに話して、あなたがつらそうにしてるのを見たら、今度はオレとイチャイチャさせて明るい顔に戻してから帰るんですから」 ヤマトとの酒席をカカシは逢瀬だなんて言ったけれど、ヤマトがイルカの顔色を気に掛けてくれていたのは、ただ単に彼が気遣い屋だからだ。 そんなヤマトに余計な世話を掛けるような事をしてしまって、本当に申し訳ないと思う。 でも、そのおかげでヤマトに散歩に誘われて、カカシとも手を繋ぐ事が出来た。 「だからって、あいつを信用しすぎないで下さいね。あいつにも腹黒い部分はあるんです。今日だって帰り際に余計な事を…」 そういえば、ヤマトは最後にカカシだけに通じる何かを言っていた。 「…ヤマトさんが言ってたのって…何の事だったんですか…?」 あー、とカカシが決まり悪そうに声を漏らした。 「それはですね…。ああ、もう照れる」 口籠もったカカシが、イルカと繋いでいた手の力を緩めて離そうとするので、慌てて、ぎゅ、と握り直した。 それに握り返してくれるカカシの力は弱々しいけれど、その分とても熱く感じる。 照れ屋というのは本当なのかもしれない。 「…スイートテンダイヤモンドってあるじゃないですか」 「スイートって…あっ、結婚10周年に贈るっていう…?」 「うん、それそれ。でも、オレもイルカ先生も宝飾品って全然興味ないでしょう。キラキラするもの着けてたら仕事の邪魔になるし」 カカシの言う通りだ。 暗がりで動き回る忍が、僅かな明かりでも反射してしまうようなものは身に着けられない。 「だから代わりに、付き合った記念日に毎年1通ずつ手紙を書いて、10周年の時にまとめてイルカ先生にプレゼントするのはどうかな、っていう話をテン…ヤマトにしてて」 また新たに嬉しい事を聞かされて、地に足が付いていないような浮遊感を覚えた。 たった3ヶ月しか付き合っていないのに、カカシは10年後の記念日の事まで考えていてくれたのか。 「ヤマトにとっては、ほろ苦い話題だったんでしょうね」 もしかして、ヤマトは片思いでもしているのだろうか。 カカシの口ぶりから安易にそんな憶測を巡らせていると、突然イルカの目の前をひらひらと蝶が横切って行った。 何気なく目で追うと、それがカカシの肩にぴたりと止まった。 「すいません、イルカ先生」 そう言ってカカシが、するりとイルカの手を離した。 名残を惜しむ間も、握り直す間もなかった。 「出発が延期になったの、本当は半日じゃなくて3時間だったんです。催促が来ちゃいました」 肩の蝶を指先に移したカカシが、ふう、と息を吹き掛けた。 すると、蝶の形をしていたものが細かい粒子に変わって夜空に溶けていく。 「イルカ先生が他の男と二人きりで飲みに行くなんて言うから…」 変な所で言葉を区切ったカカシが、そこで急にイルカの耳元に顔を寄せて来て、びく、と体が強張った。 何を言われるのだろうと身構えているイルカに、妬いちゃった、とカカシがやけに色っぽい声で囁いてくる。 しかも、木の幹のようになっていたイルカの背中に、カカシが腕を回してきた。 そっと抱き寄せられて、息が止まりそうになる。 一度に色々な事が起こり過ぎて、頭が付いていかない。 幸せすぎて、心臓まで止まってしまいそうだった。 「帰って来たら、さんまの塩焼きが食べたいです」 カカシが、先程とは比べものにならないほど爽やかに言った。 その声にまで、ぽーっとなっていると、瞬間的にものすごい突風が吹いて思わず目を閉じる。 そして、次にイルカが目を開けた時にはもうカカシの姿はなくなっていた。 道端で急に一人で取り残されてしまったというのに、鼻歌でも口ずさんでしまいそうな明るい気分だった。 顔がにやけるのも抑えられない。 そんなだらしない姿を誰かに見られたら困るので、イルカは咄嗟に自宅に向かって全速力で走り出していた。 |