結局、支払いはヤマトに任せてしまった。 すいません、ありがとうございます、ごちそうさまでした、は伝えたけれど。 何かすっきりしない気持ちを持て余していると、少し散歩しませんか、とヤマトが提案してくれた。 しかもそこにカカシも付いてきてくれる事になった。 単純な自分は、それだけで気持ちが持ち直してくる兆しを感じた。 夜でも蒸し暑さが残る中、いくらか涼しい水路沿いの道を3人で歩いていく。 「お二人はこういう時、手を繋いだりはしないんですか」 「それは…」 した事がない、と言えなくて口ごもる。 きっとカカシとは、そこまでの関係になる前に終わってしまうだろう。 さみしい未来に、顔が俯きがちになってしまう。 「今日は特別サービスだよ」 カカシの言葉に、どきん、と心臓が跳ね上がる。 突然カカシがイルカの左手に長い指を絡めてきたから。 「か、カカシさん…」 戸惑って呼びかけたけれど、カカシはこちらを向いてはくれなかった。 サービスというくらいだから、ヤマトに見せるためなのだろう。 でもそれは、イルカにとってこそ特別なサービスだった。 手が触れ合うなんて、最初で最後かもしれない。 あたたかい。 カカシの手はもっとひんやりしていると思っていた。 それがわかっただけで、もう充分だ。 一気に満たされた気分になってしまって、急に目に涙が浮かんでくる。 一度でもカカシと手を繋げてよかった。 とても嬉しい。 「…僕は健気なんで、好きな人が幸せそうな顔をしていたら多くは望みません」 「そうは思えないけど」 「そうなんです。でも、長いあいだ付け入る隙がないのも悔しいんで、できればスイートテンの事はやめてほしいです。じゃあ僕はここで」 ヤマトが踵を返した。 来たばかりの道を戻るような方向へと行ってしまう。 「なんでイルカ先生の前で言うかな…」 カカシがヤマトには目もくれず、そっぽを向いて愚痴っぽく呟いた。 どうしてヤマトは帰り際になって、急に好きな人の話をしたのだろう。 カカシはヤマトの好きな人を知っているのだろうか。 ヤマトからは以前、独身で恋人はいないと聞いていたから、片想いなのだろうか。 疑問ばかりが湧いてくる。 そのあいだにも、ヤマトの背中はどんどん遠ざかっていく。 まだ挨拶もしていないのに。 はっとして、慌てて呼びかけた。 「ヤマトさん! 今日はごちそうさまでした!」 「いえ、こちらこそごちそうさまでした。また行きましょう」 振り返ったヤマトが手を振ってきた。 いつもの無表情ながら、どことなく微笑んでいるように見えた。 カカシと繋いでいないほうの手を振り返す。 本当は、ごちそうさまを言われるほどカカシとは親密ではないけれど、そう見えたのなら訂正したくはなかった。 ふいにカカシから溜め息が聞こえた。 ぎく、と肩が跳ねる。 もう手を繋ぐ理由がなくなってしまった。 まだ離したくない。 離さないでほしい。 でも、どうせ離されてしまうのだ。 離さないといけない。 イルカと接触したがらないカカシに嫌な思いをさせてしまう。 諦めて、指の力を抜いた。 「手を繋ぐの、初めてですね」 そう言うとカカシは、ほどけかけていた手を握り直した。 いいのだろうか。 嫌じゃないのだろうか。 でも嬉しい。 何よりも、イルカが離そうとした手を、カカシのほうから握り直してくれた事が。 「オレ、イルカ先生とはゆっくり進展していければと思ってるんです。最初から一生添い遂げるつもりだったので」 耳を疑った。 聞こえた言葉が信じられない。 急に胸の鼓動が激しくなってくる。 本当に、本当の事なのだろうか。 好きだと言われた事もなかったのに。 今のは、プロポーズと間違われても仕方がないような言葉ではなかったか。 現実味がなくて、あいているほうの手で鼻をつまんだ。 唇も引き結ぶ。 しばらくすると、ちゃんと苦しくなってきて、夢ではないのだとわかった。 「こういう話って今までした事なかったよね」 「び、びっくりしました…」 「ごめんね。実はオレ、けっこう照れ屋だったみたいなんです」 カカシの顔を見ると、わずかな面積しか出ていない白い頬が、たしかにほんのりとピンク色に染まっていた。 街灯の薄明かりでは、よく見ないとわからない程度ではあるけれど。 カカシとしても今のは、赤面するような発言だったという自覚があるのかもしれない。 「…イルカ先生に好きだって言われた時も舞い上がっちゃって、あんなに偉そうな返事しかできなかったし…」 「そんなふうには、全然」 あの時、まさかカカシが舞い上がっていただなんて考えた事もなかった。 むしろ落ち着いているように見えた。 告白される事に慣れているからなのだろう、と。 「あの…。店を出る前にヤマトと話してた事、どこから聞いてましたか…?」 「…やめたほうがいいって…。俺とじゃ…長続きしないって…」 思い出したら、また胸が痛んだ。 それを尋ねてくるという事は、カカシがそれについて話そうとしているという事ではないだろうか。 聞きたくない言葉がカカシから出そうな気配に、肩が強張る。 「ベッドで千人斬りなんてしてません。イルカ先生と付き合ってからの不貞は一度もありません。これからも絶対にありません」 力強い声だった。 嘘ならいくらでもつけるだろう。 先の事だってわからない。 でも、カカシがそんな不誠実な事をするはずがないと思った。 「ヤマトもそれを知ってるから、賭けにはならないってわかってたんです。あいつはオレが遊んでた頃を見てる分、オレがどれだけイルカ先生に本気か、わかってるんです」 本気。 その言葉に、襟足のあたりがくすぐったくなってくる。 さっきの賭けは、2人ともイルカと別れないほうに賭けるから取りやめになったと思ってもいいのだろうか。 なんだか、たまらない気持ちだった。 海に向かって大声で叫びたいような。 「たしかにヤマトは健気ですよ。あいつとイルカ先生との逢瀬を邪魔したオレの醜聞を聞こえよがしに話して、あなたのつらそうな顔を見たら、最後はオレとイチャつかせて笑顔にしてから帰るんですから」 逢瀬、というのはカカシなりの比喩なのだろう。 ヤマトがイルカを気にかけてくれるのは、ただ彼が気づかい屋さんだからだ。 おかげでカカシと手を繋ぐ事ができて、気持ちを聞く事もできた。 ヤマトには感謝しかない。 「でもね、あいつを信用しすぎないでくださいね。あいつにも腹黒い部分があるんだから」 「そうですか?」 「そうです。今日だってイルカ先生とトイレのタイミングを合わせたりして。何が目的? ってイラっとしたし」 何が目的って、トイレに行く目的なんてひとつしかないじゃないか。 それに、トイレなんて行きたい時に行ってもいいものだろう。 もしかして、カカシもヤマトと同じタイミングでトイレに行きたかったのだろうか。 苛立ったのは、ヤマトに先を越されたからで。 もしくは、居酒屋の個室でひとりになるのが嫌だったから、とか。 「帰り際にも余計な事を…」 余計な事。 そういえば別れ際に、イルカにはわからない話をしていた。 ヤマトの好きな人の話と。 「スイートなんとかって、ヤマトさんが」 「ああ…。もう照れる…」 そう言ってカカシが、繋いでいた手の力を抜いた。 離れそうになったけれど離したくなくて咄嗟に、ぎゅ、と今度は自分から握り直していた。 やってしまった、と思った時にはもう遅かった。 でも、カカシに振り払われる事も、手を離される事もなかった。 それだけでほっとして、口元がふにゃりとほぐれる。 「…スイートテンダイヤモンドってあるじゃないですか」 カカシが、ぼそりと切り出した。 詳細はわからないけれど、自分も聞いた事がある。 「結婚10周年に贈るっていう…?」 「うん。それ。でも、オレもイルカ先生も宝飾品って全然興味ないでしょう。キラキラするもの着けてたら仕事の邪魔になるし」 えーと。 宝飾品の事は、たしかにその通りだ。 でもその前に、まだ付き合って3か月しか経っていないのだ。 もちろん結婚なんてしていないし、それの10周年だなんて、いくらなんでも飛躍しすぎではないだろうか。 それともカカシの中ではすでに、そのあたりの境界線を越えているという事なのだろうか。 「だから代わりに、付き合った記念日に毎年1通ずつ手紙を書いて、10周年の時にまとめてイルカ先生にプレゼントするのはどうか、って話をテン…ヤマトにしてて。あいつにはほろ苦い話題だったんだろうけど」 どなたかに片思い中のヤマトには、という事か。 それにしたって、すごい話になっている。 「この先…、そんな10年もしたら、オレのほうがイルカ先生に飽きられてるかもしれないけど…」 「飽きる? 俺がですか? カカシさんに?」 「うん…。昔からオレ、見た目は派手とか言われるけど中身は地味だから…」 「俺、カカシさんのそういう所も好きです」 カカシが受付で穏やかな雰囲気を放つ瞬間があったから好きになった。 10年分の手紙だなんて、気持ちがこもっていて、とても素敵じゃないか。 「そんなふうに言ってくれるのはイルカ先生だけです…。あまり…オレを甘やかさないでください…」 甘やかす? カカシのかわいい言葉につい、ふふっ、と笑ってしまった。 「駄目ですか? 甘やかすの」 「駄目じゃないけど…。オレ、イルカ先生のそばにいるだけで満たされた気分になって、ぼーっとしちゃって…。遠くから見てるだけでもそうだけど…」 もしかして自分は、自分を見てぼんやりしていたカカシを好きになったのだろうか。 それって一体、どんな巡り合わせなのだろう。 体の奥から震えるような幸福感が込み上げてきた。 天を仰いで目をつむる。 その幸福感をひとかけらも取りこぼさないように。 「すいません、イルカ先生」 硬質なカカシの声に、ゆっくりと瞼を開いた。 ちょうど目の前を、淡く光る蝶がひらひらと横切って行った。 その蝶が、カカシの肩にぴたりと止まった。 繋いでいたカカシの手が、するりと離れる。 今度は握り直す間もなかった。 「出発が延期になったの、本当は半日じゃなくて3時間だったんです。催促が来ました」 肩の蝶を指先に移したカカシが、ふう、と息を吹きかけた。 蝶の形をしていたものが、細かい粒子に変わって、夜空に溶けていく。 「…イルカ先生が他の男と二人きりで飲みに行くなんて言うから」 急にカカシが耳元に顔を寄せてきた。 しっとりとした声音と慣れない距離感に、どき、と胸が高鳴る。 妬いちゃった、と囁かれて、頭がどうにかなってしまいそうだった。 嬉しい。 かわいい。 色っぽい。 かっこいいだけじゃなくて、こんなにかわいくて色っぽい人だったなんて。 どうしよう。 もっと好きになってしまう。 「帰ってきたら、さんまの塩焼き、食べに行きましょ」 カカシの好物を、一緒に。 初めてカカシから誘ってくれた。 すごく嬉しいし、すごく楽しみだ。 返事をしようとした瞬間、すさまじい突風が巻き上がった。 思わず目を閉じてしまい、次に目を開けた時にはもう、カカシの姿はなくなっていた。 急にひとりで取り残されてしまった。 さみしい。 いくら照れ屋だとしても、もう少しくらい余韻を残してくれてもいいのに。 でも、近い未来にも、遠い未来にも、カカシとの約束がある。 鼻歌でも口ずさんでしまいそうなむずむずが止まらなくて、気がついたら家に向かって全力で走り出していた。 |