恋わずらい カカシが受付に来ると、すぐにわかる。 行列に並ぶのが嫌なのか、いつもぴりぴりした空気が漂うから。 顔のほとんどが隠れているから表情なんてわからないのに、不機嫌な事はなんとなく伝わってくる。 そんなカカシの苛立ちを少しでも取り除きたくて、できるだけ笑顔でいるように心がけていた。 といってもカカシがイルカを見てくれるとは限らないのだけど。 それに、効果もいまいちだ。 どちらかというと、利用者に対してイルカがニコニコすればするほど、カカシの雰囲気が張り詰めていく感じがする。 だったら愛想よく振る舞うのをやめればいいのだろう。 でもカカシには、無表情や仏頂面でおざなりに仕事をしている、と思われたくないのだ。 カカシに幻滅されたくない。 それに、イルカの笑顔自体が疎まれているわけではなさそうなのだ。 カカシの順番が回ってきてイルカの前に立った時に笑いかければ、不思議とカカシの機嫌は直っている。 それが嬉しくて、つい他の利用者に対応する時よりも笑みを深めてしまう。 「お疲れさまです」 「どーも」 言葉はそっけなくても、目元は柔らかく綻んでいる。 一見、怖そうだけど、実はすごく優しい。 イルカの憧れの人だ。 報告書を受け取るだけでどきどきして、内容をチェックしているあいだもどきどきする。 他の利用者に比べて、カカシの応対が終わるのはとても早い。 だから、最後には思わず、あってもなくてもいい一言をかけたくなる。 「また頑張ってください」 カカシと離れるのが名残惜しくて。 まだカカシの声が聞きたくて。 命を懸けて仕事をしている忍が、頑張らない任務なんてあるわけがないのに。 「どーも」 返ってくる言葉はやっぱりそっけないけれど、イルカの耳にはとても心地よくて、いつまでもそばで聞いていたいと思ってしまうのだ。 受付が落ち着いたので職員室に戻ると、3ヶ月限定で隣席のヤマトが、ぐぐっと顔を近づけてきた。 「イルカ先生、相談があるんですけど」 わざわざ耳元で囁いてくるのは、それだけ内容が深刻だからなのかもしれない。 里では今、人材交流というものが流行っていて、臨時ではあるがヤマトは外勤代表としてアカデミーで教職に就いていた。 内勤から外勤とは違って、逆はなかなか希望者が集まらない中で、彼は進んで立候補した貴重な人材だ。 里の方針に柔軟に対応できる優秀な忍なのだろう。 「じゃあ談話室に行きま…」 「お酒を交えて、というのじゃ駄目ですか? そのほうが僕も話しやすいですし」 ふところ事情さえ整っている時なら、同僚からのお誘いは大歓迎だった。 とはいえ、ヤマトと自分の給料格差は自覚している。 そういう相手と飲みに行く時には、あらかじめ伝えておかなければいけない事がある。 「安い店でもよかったら」 ヤマトは嫌な顔ひとつしなかった。 以前、七班の子たちについて聞きたい事があると言われて、一度だけカカシと二人で会食の席を設けてもらった事があった。 案内されたのは高級料亭で、場違いな感覚が最後まで抜けなかった。 料金は見当がつかなくて、恥を忍んでカカシに尋ねたら、誘ったほうが払うから気にするなと言われただけだった。 上等な接客や料理に不慣れで、いちいち感嘆するイルカを笑う事もなく、最初から最後まで本当にカカシは優しくしてくれた。 その頃からだ。 どうしようもなくカカシに惹かれていったのは。 もう何年も前の事だけど、今思い出しても甘酸っぱい気分になる。 そこで不意に我に返って、慌てて頭を振った。 相談に乗る前に考えるような事ではなかった。 すぐに頭を切り替えて、急ぎの仕事を片付ける。 ヤマトはお酒が飲めればどこでもいいと言うので、小雨がぱらつく中、イルカの馴染みの店へと向かった。 カウンターは満席で、小上がりに通される。 適当に注文して、真っ先に届いたビールで乾杯する。 「イルカ先生って、すぐ赤くなるんですね。かわいい」 「何を言ってるんですか」 「ピンクのイルカって、なんかやらしい響きだなぁ」 勤勉なヤマトがこんな下らない話をするとは思わなかった。 仕事中には絶対に見られない一面だ。 彼がお酒の力を借りようとする気持ちが、なんとなくわかった気がする。 「ヤマトさんこそ、もう酔ってるんですか? 本題、忘れないでくださいよ?」 「もちろんです。でもその前に一ついいですか。僕、今日受付に入ってて思ったんですけど。イルカ先生、カカシ先輩に気を遣いすぎじゃないですか?」 どきっとした。 そんなに露骨に態度に出てしまっていただろうか。 カカシを前にすると気持ちが先走ってしまって、たしかに平静を保てなくなる。 「もし脅されたりしてるなら、僕が抗議しに行きます」 「いえっ、脅されているなんてそんなっ、全然っ」 「そうですか? でも以前から先輩、受付に寄ってから待機所に来る時は機嫌がいいくせに、しばらくすると急にイライラし始めるんですよ」 受付を出てからのカカシの様子は知らなかった。 やっぱりイルカの対応に問題があるのだろうか。 「いつもイルカ先生の窓口に並んでるみたいだし、先輩と何かあるのかと思ったんですけど。脅されてるわけじゃないならいいんです」 そんなふうに言われたら、急に不安になってきた。 もしかして、本当はものすごくカカシに嫌われているのだろうか。 表面上はとても穏やかに接してくれているけれど。 一度そう考えてしまうと、今までの事がすべて取り繕われたもののように思えてきた。 あの優しい表情も、優しい声も、何もかもが。 急に鼻の奥がつんとして、唇を噛んだ。 咽喉までひりひりしてくる。 きっとカカシの事が好きすぎて、判断能力が低下していたのだ。 目を細めて微笑んでくれたように見えたのは、実は単に眉をひそめていただけなのかもしれない。 そっけない言葉が優しく聞こえたのも、ただのイルカの願望で。 「じゃあ、そろそろ本題に入りますね」 はっとした。 なんのためにヤマトと飲みに来たのか、イルカのほうこそ忘れそうになっていた。 口の中に広がっていた苦いものを、ビールの苦味に混ぜて無理やり流し込む。 ちょっとしょっぱく感じた。 「子どもたちの事なんですけどね…。ヤマト先生好き好きーって雰囲気だったのが、次の日には嫌い嫌いーってなってるんですよ。で、また好き好きーって。毎日その繰り返しなんです。もう、その落差が悲しくて」 カカシの事はひとまず心の隅に追いやって、すっかり肩を落としているヤマトに笑いかけた。 自分の事なんかよりも、今はヤマトのほうが優先だ。 「それはヤマトさんが子どもたちに受け入れられている証拠ですよ。自信を持ってください。だって、好きだけど嫌いっていうのは、大好きって事ですから」 とてもいい傾向だ。 大丈夫。 ヤマトが心配する事は何もない。 子どもにはよくある事だ。 むしろ、この短期間でそこまで関係作りが進んでいる事を誇りに思うべきだ。 「こんばんは」 突然かけられた声に、心臓が止まるかと思った。 目の前に、何の前触れもなくカカシが現れたのだ。 飲みかけのジョッキを持って。 相変わらず目元も声も優しかった。 でも、これは偽物なのだ、と思ったら、途端に泣きそうになった。 |