目を伏せて、潤んだ瞳を隠す。 「先輩、いつ来たんですか」 「お前がイルカ先生と入ってきた頃に2杯目を頼んだ」 カカシの存在になんて、まったく気がつかなかった。 気配を消していたのだろうか。 「ところでテンゾウくん。オレがイルカ先生を脅すなんて随分と物騒な事を言ってくれるね」 「今はヤマトです。っていうか、盗み聞きしてたんですか」 「人聞きが悪い。お前の声がデカいだけでしょ。ああ、それよりイルカ先生、オレもご一緒させてくれませんか?」 慌てて目尻をこすった。 同席を求めてくるという事は、嫌われてはいないのだろうか。 また自分に都合よく考えているだけなのだろうか。 何が本当で、何が嘘なのか、もうわからない。 そこでふと気がついて、そそくさと居住まいを正した。 座り方ひとつでも、カカシに悪い印象を持たれたくなかったのだ。 だが、イルカが正座をすると、カカシの顔が心なしか曇ったように見えた。 少しでもカカシと時間を共有できるかもしれない、と期待する下心が、今の動作で伝わってしまったのだろうか。 カカシの言動に一喜一憂する自分を止められなくて、頭が弾けそうだ。 「この店で3人以上が座れる席は埋まっているみたいなんで諦めてください」 ヤマトが淡々と言った。 小上がりは狭くて、テーブルを挟んで一人ずつしか座れない。 店に1つだけある4人がけの席には先客がいる。 「お前さ、そろそろ帰ったら?」 「…こういう時に昔の上下関係を持ち出すのは職権乱用って言いませんか」 「安心していいよ。この場はオレがちゃんと引き継いであげるから」 自分の馴染みの店でカカシと二人きりになる事を、一瞬想像してしまった。 でも、咄嗟に振り払う。 一緒に来たヤマトに失礼だ。 「今日はイルカ先生に大事な相談をしているんです」 「もう終わったんじゃないの」 「終わったら終わったで、親睦を深めるための時間になるんです」 この小上がりで、なんとかカカシに座ってもらう方法はないだろうか。 頭の中でテーブルの配置を変えたりして、色々な可能性を探ってみる。 「要はここで3人が座れればいいんでしょ。イルカ先生、オレの膝に乗りません?」 どきん、と心臓が跳ね上がった。 火が点いたように顔が熱くなる。 とんでもないカカシの提案が冗談だとわかっているのに、笑って聞き流せなかった。 自分がカカシと接近する姿を想像して、たぶんそれは恥ずかしいけど嬉しい事だろうと思ってしまったから。 だがその時、ちょうどカウンターが3席分空いたのが見えて、慌てて口を開いた。 「か、カウンターなら…、さ、3人で座れそう、です…けど…」 そして、イルカを真ん中に挟んでカウンターに並ぶ事になった。 憧れの人が隣にいる緊張感で、自分でも何を話しているのかよくわからない。 店を出る頃には、席を移ってからの記憶はほとんどなかった。 森の奥に住んでいるヤマトとはすぐに分かれ、しとしとと降り続く雨の中をカカシと二人きりになる。 こんなチャンスは二度とないかもしれないのに、今日はたくさんの事がありすぎて、もう早く帰って1人になりたかった。 だって、横を向いたらカカシがいる。 うっかり見惚れて溜め息なんてついてしまったら、聞かれてしまう距離だ。 胸が高鳴りすぎて、痛みさえ感じる。 病気なのかと思うぐらい動悸が激しくて、きゅんきゅんと締めつけられる。 カカシはただ、普通に歩いているだけなのに。 助けて、と誰にともなく救いを求めたくなった。 カカシを好きになってから、宝物のように大事にしてきた小さな接点を、今日だけで何年分も凝縮して味わってしまった気がする。 未来にあったはずのカカシとの時間を、まとめて先払いされていたらどうしよう。 この幸せがもし、カカシと疎遠になる前の予兆だったりしたら悲しくてたまらない。 「ちょっと雨宿りしたほうがよくないですか」 不意にカカシが尋ねてきて、余計に胸が騒がしくなった。 心臓が口から飛び出さないように、唇を噛む。 たしかに雨脚は強くなっているけれど、今日は早く帰りたいのだ。 そうじゃないと、おかしくなってしまう。 こんな時に限って雨具を持っていない自分が心底恨めしい。 何も出さない所を見ると、カカシも雨具の手持ちがないのだろう。 「そのほうがいいと思います。でも、俺は走って帰れそうなんで、お先に…」 失礼します、と言うのと同時に駆け出そうとしたら、咄嗟に腕を掴まれた。 営業が終わっていた商店の軒先へ、強引に連れ込まれる。 途端に、バケツをひっくり返したような雨が地面を叩いた。 目の前の雨量も、カカシも手のぬくもりも、どちらもすぐには信じられない。 「こんな雨の中、無理しないほうがいいですよ」 すさまじい雨音で掻き消されないように、カカシが大声で言ってくれた。 カカシに掴まれた部分には、まだぬくもりが残っている。 その余韻を逃したくなくて、手のひらで包み込んだ。 雨の音しか聞こえなくて、世界にカカシと二人だけになったみたいだった。 なんて馬鹿な事を、と思って小さく笑みを零すと、少しだけ気持ちに余裕が出てきた。 すみません、と呟いて、謝罪とも感謝ともつかない言葉を伝える。 しかし、カカシが耳元に手を添え、よく聞こえなかった、という仕草をした。 僅かにカカシの耳元に顔を寄せる。 「すみません、助かりました」 明瞭な発音を心がけて言い直した。 するとなぜか、唐突にカカシが口布を下げた。 端正な顔で、にっこりと微笑まれて目が離せなくなる。 ぽーっと頬が火照って、とろけてしまいそうになり、あたふたと目を逸らす。 カカシの素顔を見るのは、あの料亭以来2回目だった。 さっきの店で飲食している時でも、カカシは巧妙に顔を隠していた。 「こちらこそ無理やり引き止めてすいません。どうしてもイルカ先生にお話したい事があって」 吐息が耳にかかって、肩が小さく震えた。 カカシがイルカの耳元に手を添えて囁いてきたのだ。 それ以上身じろいだら、カカシの唇に触ってしまいそうだった。 歯を食いしばって、体を強張らせる。 こんなに近かったら、うるさく脈打つ鼓動を絶対にカカシに聞かれている。 「オレ、アカデミー生レベルだったんですよ」 カカシが体勢を変えないままに話を続けた。 他里に名前を轟かせる上忍が、いきなり何を言い出すのだ。 こんな時に、こんなにくっ付いて話さないといけないような内容なのだろうか。 「好きだけど嫌いは大好きって、あれオレです。オレ、イルカ先生が大好きなんです」 さっとカカシのほうを向くと、思っていたよりも近くに顔があって硬直する。 更にカカシの顔が近づいてきて、唇に柔らかいものが触れた。 キスされた、と気づいて心臓が爆発するかと思った。 「イルカ先生の笑顔が好きでも、他の人に向けられる笑顔は嫌いでした。頑張ってって言われるのもすごく嬉しいのに、しばらくしてから他の人にも言ってるんだと思ったら無性に腹が立って」 カカシの手がイルカの手に絡んできた。 指と指を組んで繋がれる。 「イルカ先生もオレのこと好きなんでしょ? だから特別扱いしてくれたんでしょ?」 大声を出さなくても、わざわざ耳元で囁かなくても、もうカカシの声は鮮明に聞こえた。 土砂降りは一時的だったようだ。 すでに止んでいるに近い。 これならいつでも帰れる。 でも。 さっきまであんなに1人になりたがっていた身勝手な自分だけど。 カカシへの気持ちを正直に伝えたら、もう少し一緒にいてくれるだろうか。 |