思い出の写真 |
別に、何か大きな出来事があったわけじゃない。 ナルトの元担任という繋がりしかないイルカの窓口に、いつも律儀に報告書を提出してくれる所だとか。 その時に見せる、すべてを包み込むような柔らかな眼差しだとか。 お疲れさまです、というひと言の優しい響きだとか。 たったそれだけの、些細な積み重ねの結果なのだと思う。 「お疲れさまです、イルカ先生」 ああ、この響きだ。 大好きな声音に、うっとりしてしまう。 でも、3代目の用事で街外れまで行った帰りに聞けるなんて、幻聴ではないだろうか。 そう思った瞬間、はっと我に返った。 慌てて辺りを見回そうとすると、イルカせんせー! という絶叫と共に、腰に馴染みの衝撃が来た。 ナルトだ。 しがみ付いた金色頭を、反射的にわしゃわしゃと掻き混ぜる。 顔を上げれば、近くにはサスケもサクラも、それにカカシもいた。 仕事中だというのに好きな人の事を考えてぼんやりとしていて、気づくのが遅れた。 「よかったらイルカ先生も一緒に入りませんか」 カカシがにっこりと目を細めて言いながら、古めかしいカメラを掲げた。 「実はオレ、ひそかに写真が趣味なんですよ」 急にカカシに耳元で話しかけられて、顔がかぁーっとなった。 耳まで熱くなってくる。 地黒でよかった、と今ほど切実に思った事はない。 「おれらってば今、カカシ先生の分身に集合写真を撮ってもらったんだってばよ!」 「ほらお前ら、もう一回整列」 後ろから、もうひとりのカカシの声がして、ぐい、と引っ張られた。 こちらが本体のようだ。 「イルカ先生はこっちね」 3人の子どもたちの後ろで、カカシに誘導されるままに彼の隣に並んだ。 途端に分身のカカシがカメラを構えた。 「撮りますよー。あ、後列もう少し寄って」 カカシの腕が、なんの躊躇いもなくイルカの肩に回ってきた。 どきどきどきっ! と心臓が暴れ出す。 「はい、じゃあ、3、2、1…」 風に揺れたカカシの髪が、イルカの耳を掠めた。 とてもじゃないけれど、カメラに視線なんて向けられなかった。 ぎゅ、と目を閉じる。 恥ずかしすぎて息ができない。 「ありがとうございます。引き止めてしまってすいません」 その声で、撮影が終わった事に気がついた。 「い、いえ…。それじゃあ…失礼します…」 たどたどしい口調をごまかす事もできず、逃げるようにその場を後にした。 * * * * * 何ヶ月かぶりにカカシと飲みに行ける事になって並んで歩いていたら、随分と昔の事を思い出してしまった。 あれから、里が襲撃されたり、三代目が亡くなったり、五代目が就任したり、本当に色々な事があった。 ただ、カカシとの関係は相変わらずで、出会った数年前からほとんど変わっていない。 「あれ? 暖簾が出てない」 いくつかある馴染みの赤提灯のうちの1軒に向かっていたら、カカシがぽつりと呟いた。 一応は店の前まで行って確かめたが、どうやら休みのようだった。 ここは飲み屋横丁からは少し外れた所にあるので、近くで他を見つけるのは難しい。 「どうしましょうか…」 軽く飲むだけの予定だったから、今日は運が悪かった、と解散したほうがいいのかもしれない。 でも、カカシと過ごせるせっかくの機会を手放したくなくて、自分からは言い出せなかった。 「あー…、じゃあ…」 口ごもったカカシから、また今度にしましょうか、と続くのを覚悟した。 「…どうせならウチで飲みませんか? ここからなら近いし」 「え…」 ばくん、と心臓が大きく脈打った。 激しい鼓動がなかなか収まらない。 行っていいのだろうか。 入れてくれるのだろうか。 完全にカカシのプライベートな空間に。 自分はカカシの周りのその他大勢とは違う、と思ってもいいのだろうか。 「ちょうどシカクさんから土産でもらった酒があるんです。あと、この前買い過ぎた缶ビールとか缶チューハイもけっこう残ってて」 「い、いいんですか…?」 「もちろんです。つまみもね、冷凍の枝豆とか乾き物とかスナック菓子でよければあるし」 「で、でも、ご迷惑じゃ…」 「とんでもない。むしろありがたいです。冷蔵庫の整理を手伝ってもらえて」 こんな偶然があるだろうか。 たまたま店が休みで。 その店がたまたまカカシの家の近くで。 そのカカシの家には酒も肴もあって、わざわざ買いに行く手間もかからなくて。 急にお邪魔するのに歓迎されて。 こういう事をとんとん拍子というのだろう。 「イルカ先生さえ嫌じゃなければ…、ですけど」 「そんなっ、全然っ…」 「よかった。じゃあ行きましょ」 すたすたと妙に早足で歩き出したカカシを、慌てて追いかける。 料理をしないと言っていたカカシでも、家で酒を飲む事があるというのは意外だった。 それに、カカシはもっとミステリアスな人で、限られた一部の人にしか私生活を明かさないタイプだと思っていた。 もしかして、本当は誰でも気軽に家に招いたりするのだろうか。 例えば、女の人でも。 胸の奥から、軋んだ音がした。 カカシがきれいな女性と親しげに歩く姿は、何度も見かけた事がある。 浮いた噂を耳にした事だって、数え切れないぐらいある。 咄嗟に頭を振った。 今更そんな当たり前の事を考えてどうする。 大人なのだから、性も恋愛も自由じゃないか。 それに、家に入る事を許されたからって、踏み込んではいけない領域はあるだろう。 さっきからずっと黙ったまま一度も振り返らないカカシを見ていると、つくづくそう思う。 拒絶されているわけではないけれど、一線はきちんと引かれている、と。 「ここです」 言いながら、カカシがそれほど大きくはない集合住宅に入っていった。 離れすぎないように付いていくと、とあるドアの前でカカシが足を止めた。 「どうぞ。酒の準備してくるから、イルカ先生は奥で待っててください」 部屋に上がらせてもらい、奥へ行ってみたら、また意外な事がわかった。 小さい頃から高収入を得ている人だから、もっと広い所に住んでいるのかと思った。 でも、イルカの家よりも少し広いぐらいの間取りと面積だ。 それに、どこもすっきりと片付いている。 外務の多い職種だから、失礼だけどもっとごちゃごちゃしているだろうと思っていた。 あまり生活感がなくて、モデルルームみたいだ。 有名な上忍は、さすがに普段からきちんとしている。 下座に正座して、改めて室内を見回した。 寝室と居間を混ぜたような部屋で、居心地は悪くない。 でも、ベッドが視界に入るたびに下世話な事を考えてしまいそうになる。 ぎゅ、と唇を噛んだ。 ベッドから意識を逸らそうとして、ふと枕元の写真立てが目に入った。 そういえば、写真が趣味だと聞いた事がある。 まだナルトたちが小さくて、7班が編成されたばかりの頃の写真が置かれていて、自然と頬が緩む。 その横には、カカシの子どもの頃の写真もあった。 反対側には、サスケの代わりにサイと、カカシの隣にヤマトがいる5人の集合写真。 飾られているのは、それだけだった。 イルカが写っているものは、どこにもない。 たしかに以前、みんなと一緒に撮ったはずなのに。 カカシにとってイルカの存在は、その程度、という事なのか。 急に背筋が、ひやっとした。 でも、普通に考えれば、大した接点のない中忍との関係なんてそれが当然だ。 自分がカカシの特別かもしれない、なんて、どうして一瞬でもそんな期待を抱けたのだろう。 家に招かれたぐらいで、何を浮かれていたのだろう。 自分がひどく惨めな人間に思えて、今すぐ帰りたくなって、立ち上がろうとした時だった。 「脚、崩してくださいよ」 穏やかで優しい大好きな響きと共に、すっ、と肩に手を置かれた。 情けないけれど、それだけで泣きそうになってしまった。 なんとかこらえたものの、結局帰る事もできずに始まった酒席では、ヤケを起こして飲みすぎてしまい、みっともなく酔いつぶれてしまった。 |