失態を晒して以来、カカシとの酒席を自粛するようになった。 すでに3度続けて誘いを断っている。 こんな事は初めてだったから、カカシも少し怪訝な顔をしていた。 もう誘ってくれないかもしれない。 でも、どうせイルカの代わりなんていくらでもいるのだ。 カカシが大切にしているのは、カカシが必要としているのは、枕元に並んでいた写真の中の人たちだけ。 自分には、関係がない。 たとえこの先、あの写真が増える事があっても、イルカが加われる可能性なんてないのだ。 だって、今度写真が増える時はきっと、カカシに家族ができた時。 じわ、と視界が滲んだ。 採点していた答案用紙が読めなくなって、乱暴に目元をこする。 「イルカ、綱手様が呼んでたぞ。至急だって」 教員室のドアから急に顔を出した同僚に声をかけられて、びくりと肩が跳ねた。 それでも平静を装い、わかった、と答えて席を立つ。 火影室に向かうあいだも、たびたびカカシの顔がちらついて何度も振り払った。 重厚なドアの前に着くと、深呼吸をして気持ちを切り替えた。 「…失礼します」 「おう、イルカ。急にすまないね。さっそくだが遣いを頼みたい。お前、カカシの家には行った事があるんだよな?」 「え…。あ、はい。1度だけ、ですが…」 カカシの名前が出て、ぎくっとした。 しかも、カカシの家。 まだ生々しい傷口をこじ開けられそうな予感に、身震いを抑えるだけで精一杯だった。 感情に流されないように、手を強く握り込む。 「出先で忍犬用の兵糧丸が足りなくなったらしい。調合が特殊だから、作るよりも今あるものを届けたほうが早い。カカシの家まで取りに行ってくれ」 「…わかりました。兵糧丸を回収したら、すぐに出立します」 「いや、運搬は他の者に頼んである。お前は授業も受付もあるからな。取ってくるだけでいい」 「取ってくるだけ…? ですか…?」 どうして回収者と運搬者が別々なのだろう。 運搬者の到着が遅れているから先に回収だけしておく、という事だろうか。 「カカシのアホがお前をご指名なんだよ。本当は誰も家に入れたくないけど、どうしても誰かを入れなきゃいけないならイルカ以外はありえない、それでも相当な覚悟がいった、いよいよ年貢の納め時だとか、わけのわからない式が届いてね」 綱手が小さな包みをこちらに放り投げた。 受け取ると、軽くて、僅かにぴりぴりした。 何かの印が施された品物に特有の感触だ。 「あいつの家の鍵だ。お前しか使えないようになってる。イルカの都合がつかなくて兵糧丸を届けられないなら任務を放棄して帰里する、とまで書いてあったが、あいつの部屋、変態趣味のエロ本でも散乱してるんじゃないのか」 「そ、そんな事はないと思いますが…」 「まあいい。私生活に口を出す気はないからね」 業務の邪魔をして悪いが急ぎで頼む、と言われたので、その足でカカシの家へ向かった。 任務を放棄して帰ってくる、なんて、本当にカカシが忍の法度を犯すような事を伝えてきたのだろうか。 きちんと片付いている部屋だったし、イルカでなければいけない理由もないのに。 本音は、気兼ねなく雑用を頼めるのがイルカだった、という事ではないのだろうか。 もっともらしい結論に達した所で、カカシの家に到着した。 ドアの前で包みを開くと、内側に兵糧丸の場所を示す図が描かれていた。 鍵のほうも、イルカのチャクラに反応して浮き上がり、勝手に鍵穴に収まっていく。 錠が外れる音がして、ドアまで自動で開いた。 ぱっと見た限りでは、室内はこの前とあまり変わらなかった。 ただ、台所に食器が出ていたり、椅子の背もたれにタオルが無造作にかけられていたり、少し生活感があった。 お邪魔します、と声をかけて部屋に上がる。 図では、カカシと一緒に酒を飲んだ部屋の、机の引き出しの2段目にしるしが付いていた。 主が不在の部屋を探るような失礼を働かないために、真っ直ぐに目的の場所へ行く。 それなのに、部屋に入る直前、怯むみたいに足が止まった。 この先に進む事が、急に怖くなった。 綱手の予想が当たっているほうが、まだいい。 だってもし、女性の痕跡が残っていたら。 あの日は気づかなかったけれど、イルカだけがいない集合写真たちと並んで、女性と睦まじく寄り添うカカシの写真があったら。 もう、立ち直れないかもしれない。 咄嗟に、両手で両頬を思い切り打った。 ぱちん! と大きな音がする。 ベッドのほうは見ない、机しか見ない、と心の中で唱えた。 そうやって、ようやく一歩を踏み出す。 部屋に入った途端、空気が変わった。 カーテンが開いているのでとても明るくて、ふんわりとあたたかい。 前に来た時は夜だったから、という以上に雰囲気が違う。 なんとなく物が増えているのもわかったけれど、余計なものを見ないように、目を正面の机だけに集中させる。 だがそこにも写真立てのようなものを発見して、さっと視線を下げた。 引き出しの前へ行き、図の通りの場所を開ける。 「忍犬」というハンコが押された薬袋があった。 兵糧丸が入っている事を確かめて、踵を返す。 今度は部屋の入口だけに目を集中させて出ていこうとしたら、何かに足をぶつけた。 がたん、と物が倒れる音がして、思わず下を向いてしまう。 倒れていたのは、テーブルの上にあった大きめの写真立てだった。 そして、そこに写っているものを、はっきりと見てしまった。 つまずいた時の変な姿勢のまま、体が強張る。 そこには、俯き加減で硬く瞼を閉じて真っ赤な顔をしているイルカと、それを横から目を細めて眺めるカカシが写っていた。 カカシがとても優しい目で、しかも、まるで愛しいものでも見つめるような表情をしていた。 かぁー、と頬が熱くなる。 たぶん、あの時の写真だ。 よく見ると下のほうに、金と紺と桜色の髪が僅かに写り込んでいる。 こんなツーショット写真のようにわざわざ加工するわけがないから、あのとき撮影に失敗してこんな構図になってしまったのだろう。 そんな事より、どうしてこんなものがテーブルに置いてあるのだろう。 この前はイルカの写真なんてひとつもなかったのに。 押入れの奥にしまっていた事でも思い出して、明るい場所に出してくれたのだろうか。 でも、まだ、枕元には、置いてもらえない、のか。 すごく嬉しいのに、寂しさのほうが勝ってしまって、胸が、きゅう、と苦しくなった。 思わず胸元を掴むと、元から変な体勢でいたせいでバランスを崩して転んでしまった。 ベッド側に頭が向いてしまい、枕元を見ないように慌てて起き上がろうとした瞬間、また体が強張った。 ちょうどベッドの上あたりの天井に、半畳ぐらいの大きさの写真が2枚、並べて貼ってあったのだ。 1枚は、カカシとイルカのツーショットのようなあの写真。 もう1枚は、さっきつまずいたテーブルに突っ伏しているイルカの寝顔が、大きく写った写真だった。 猛烈な熱の塊が、急激に全身から噴き出してくる。 「なっ…、なっ、何だっ、これっ…」 あまりの状況に頭がくらくらする。 それでも無理やり立ち上がったら、腰が抜けたみたいになって、ベッドに尻もちを着いた。 無意識のうちに部屋全体が視界に入ってしまう。 そうすると、あちこちにイルカの写真が飾ってある事に気がついた。 机にも、棚にも、壁にも。 日焼けして表面が変色している写真もあるので、置かれてから日が浅いわけでもなさそうだった。 はっとして枕元を見ると、あの日なかったものがそこにはあった。 一番目立つ中央で、一回り大きな写真立てに、天井と同じ2枚の写真が入って。 しかも、それぞれには手書きの解説が付いていた。 『初撮り オレの伴侶はこの人ですと言いふらしたい 今後は撮影時のデレすぎに注意する』 『あどけない寝顔 天使 最高かわいい 緊張で言動が変になり予定だった本懐は遂げられずも満足』 全身を巡っていた熱が、ものすごい勢いで顔に集まってくる。 伴侶ってなんだ。 予定ってなんだ。 本懐ってなんだ。 まさか、あの日カカシは最初から家にイルカを連れてくるつもりだったのか。 すべては偶然ではなく、カカシが仕組んだもので。 家に案内されている時にカカシの口数が急に少なくなったのも、緊張していたからだったのか。 ひあぁっ…、と弱々しい悲鳴が零れた。 頭を抱えて縮こまる。 今度カカシに会ったら、一体どんな顔をしたらいいのだ。 絶対まともには話せない。 いたたまれなさすぎる。 もしかしたら人間は、恥ずかしさだけで死ねるのかもしれない、と本気で思えてきた。 |