スケアの誤算






この所カカシは忙しそうで、とても疲れているように見える。
イルカの家に来ても寝ている事が多い。
今日も夜にふらりとやって来て、食事をするとすぐにウトウトとし始めた。
こういう時は声をかけないようにしている。
休める時に休ませてあげたいから。
だから最近カカシとはほとんど話ができない。
話だけでなく、ここ1、2か月は夜の生活も途絶えている。
カカシと付き合ってもうすぐ3年になるけれど、挨拶程度の触れ合いしかなくなってしまったのは初めてだった。
いよいよ、その時が来たのかもしれない。
いつもにも増して眠たそうな目をしたカカシが、んー、と言いながら伸びをした。
「…そろそろ、行きます」
カカシがベストを羽織った。
胸元から何かを取り出している。
「これ、もらい物なんだけど、よかったら聞いてみて」
カカシが卓袱台に、未開封のCDを置いた。
「オレはいらないから、もし興味なかったら、申し訳ないけど捨てといてもらってもいいですか。これから明日の打ち合わせが入っているもので」
「わかりました」
じゃ…、と言ってカカシが気怠げな足取りで出ていった。
これからまた仕事なのか。
そんなに忙しかったらイルカに構っている暇なんてないだろう。
仕事の合間に寄ったのは、イルカの家を休憩所とでも思っているからなのかもしれない。
なんだか余計に寂しくなって、カカシの名残を探すように置き土産を手に取った。
男性単独で活動している、木の葉ご当地アイドルのものだった。
以前は木の葉のローカルチャンネルにしか出ていなかったけれど、最近は全国放送のテレビ番組でもよく見かけるようになった。
生徒たちの世代よりも、大人の女性たちに騒がれている人だ。
今年のアカデミーの文化祭にも呼ぼうかという案が出ていた。
本業は写真屋さんで、生徒の実習旅行に撮影助手として同行してくれた事がある。
人当たりのいい穏やかな人だった。
向こうはイルカの事なんて覚えていないだろうけど。
面識のある人が有名になって、人気者にもなる、というのは不思議な感覚だった。
興味が湧いたので、包装を開けてプレーヤーにセットした。
すぐに歌声が流れてくる。
声というより、声の雰囲気がとても心地いい。
気づいたら、収められている曲がすべて終わっていた。
まだ聞いていたくて、手が自然と再生ボタンに伸びる。
そして、いつの間にか再生を繰り返していた。
これが、イルカが密かにスケアにハマるきっかけだった。



本当に文化祭でスケアを呼ぶかもしれない。
文化祭実行委員長の教頭から、急遽ライブの下見を頼まれてしまった。
ちょうど木の葉会館でリハーサルをしているそうだ。
授業と受付は同僚に代わってもらって、午後から向かった。
会館の通用口で担当者に会い、舞台裏へ案内される。
音楽や照明の調整をしているスタッフの声が、舞台や客席のほうから聞こえてくる。
スケアの気配はない。
まだ来ていないのだろう。
「この辺でテキトーに見てください。知りたい事があったら近くのスタッフに聞いてね」
それだけ言って担当者はどこかへ行ってしまった。
入れ替わりで通路のほうから、若い男性スタッフがバケツを持って小走りでやってくる。
そして、彼がイルカの手前でつまずいた。
バケツの中の水分がこちらに飛んでくる。
避けたら背後の機材にかかってしまう、と思って咄嗟に体で受けとめていた。
ばしゃ、と盛大な音がする。
「…すっ、すいませんっ、すいませんっ、すいませんっ」
すっかり動揺した様子の彼が、首にかけていたタオルでイルカの顔や服を拭ってくる。
濡れたのは主に上半身だった。
ベストを着ていなかったので、水分を含んだアンダーが体にぴったりと張りつく。
「舞台上の花に水を差すように言われてっ、きっ、着替えっ、すぐにっ」
言いながら彼がイルカの服を脱がそうとしてきた。
大丈夫ですから、と言っても手を止めようとしない。
平静を失っていて耳に入らないのかもしれない。
「ちょっ…! 何してっ…!」
舞台のほうから怒号のような声がした。
スケアがものすごい形相で駆け寄ってくる。
今聞こえたのはスケアの声だろうか。
普段の様子や歌声とは差がありすぎて信じられない。
スタッフの彼も驚いていて、おかげでようやく手が離れた。
スケアはずっと舞台にいたのだろうか。
それとも、ちょうど来た所なのだろうか。
あれほど華やかな人なら、舞台裏まで存在感が伝わってきそうなのに、全然わからなかった。
でも今思えば、実習旅行の時もそうだった気がする。
それで生徒たちの自然な表情が撮れたのかもしれない。
助手なのにプロみたいな写真ばかりで感心した記憶がある。
「イルカ先生っ、控え室に…!」
イルカの名前を、イルカの顔を、覚えていてくれたのか。
感動していると、肩を抱かれてどこかへ誘導された。
ドアに「スケア様 控え室」という紙が貼られた部屋に引っ張り込まれる。
「これ、使ってください、すぐに戻ります」
イルカにタオルを渡してスケアが出ていく。
洗面台があったので、タオルを棚に置き、とりあえず濡れた服を脱いだ。
そのまま絞ってみたら、けっこう水が落ちた。
この感じ、なんとなく覚えがある。
以前、カカシの忍犬たちのシャンプーを手伝った時の事かもしれない。
最後は2人ともずぶ濡れになって笑い合ったのだ。
あの頃はなんでもない事でも報告し合って、会話が溢れていた。
今とはずいぶん違う。
そう思って苦笑すると、急に寂しさが込み上げてきた。
もう戻れないのだろうか。
なんだか肌寒くて、スケアに借りたタオルを肩にかけようとした時だった。
突然、後ろからふんわりと抱き寄せられた。
優しくいたわるような接触に、カカシのぬくもりを感じて瞼を閉じる。
だがすぐに、はっとした。
こんな所にカカシがいるわけがない。
慌てて目を開けた瞬間、鏡にスケアが写っていて、体が硬直した。






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2017.04.10